列車は霞見台を出てから、ずっと登りだった。 線路が山裾を巻き上がるたびに空気が薄くなり、窓の外の色が変わった。地上の茶色が消え、灰色の岩肌が広がり、やがて雲の白に呑まれた。雲の上に出た瞬間、列車が軋み、こよいの耳が詰まった。 終点の標柱に『天都外縁』と刻まれていた。降りた足元は雲の上だった。
天都の縁に着いた時、空が軋んでいた。
雲の上に浮かぶはずの街区が、ゆっくり傾いている。 石橋の連結部から光が漏れ、建物の輪郭が細かく崩れていた。光は白ではなく、黄色がかった警告の色だった。古い固定の式が、力を失いながら最後の明滅をしている。
足元の石が、心臓みたいに不規則に揺れた。こよいは咄嗟に柱へ手をつく。柱の表面もぬるく震えている。街全体が脈を打ち、しかもその脈が乱れていた。
「崩落が始まってる」
久遠が目録を開く。頁が風もないのにばたばたと揺れ、蒼光で照らした文字が滲んで読みにくい。
「固定を支えていた柱座標が、連鎖断絶の余波で順番に切れてる。外縁から中央へ向かって、支えが抜けていく」
あさひは剣を抜き、風向きを読む。風が下から吹き上がっている。地上から見上げる風ではなく、足元の隙間から吸い込まれていく風だった。街の下の空洞が、崩落とともに広がっている。
「避難路は?」
「西回廊。だが住民がまだ上層に残ってる」
久遠の声に迷いはなかった。状況を読み切った声だ。迷いがないぶん、重い。
こよいは遠眼に、白い外套の群れを見つけた。 上層の広場に固まっている。誰もが下を見ている。落ちる街を見下ろし、足を動かせない顔だ。恐怖で身体が固まっている人と、まだ状況を理解できずに立ち尽くしている人がいた。どちらも動けないことに変わりはない。
「ぼく、呼んでくる」
こよいが走り出す。 石畳が足の下で微かにずれる。水平だったはずの通路が、もう傾いていた。壁に手をつきながら走る。指が触れる壁面は乾いているのに、内側から湿った振動が伝わってくる。建物が汗をかいている。限界が近い。
あさひも続こうとして、久遠に止められた。
「お前は支点を押さえろ。主梁が先に折れる」
あさひは一度だけ迷い、すぐ頷いた。
「了解。三回までだな」
亀裂の入った剣を抱え、主梁へ向かう。走りながら、仮補強の帯が巻かれた刃を確かめた。あと三回。それだけで持たせる。
こよいは上層の広場へ出た。 年寄り、子ども、荷を抱えた商人。 誰もが同じ問いを目で投げる。
どこへ逃げればいい。
こよいの胸の中で、風の神が強く震えた。こよいの声を押し出すような渦の拍だった。
こよいは大声で言った。
「西回廊へ! 荷は捨てて、手だけつないで!」
声が広場の石壁に跳ねて返ってくる。自分の声が二度聞こえる。それでも足の竦んだ人々は、まだ互いの顔を見ていた。 そのとき、三毛の猫が群衆の足の間を駆け抜けた。西回廊の方向へ、迷いのない一直線。チリン、と鈴が鳴る。 「……猫が知ってる」 誰かが呟き、最初の数人が動いた。動いた人を見て、次の人が動く。やがて群れが動く。 走る足音が石畳を叩く。子どもの手を引く老人、荷を迷って捨てる商人、泣きながら走る母親。こよいは流れの後ろにつき、遅れる人の背を押した。
その時、天都の中央塔が大きく傾いた。 橋が一本、空中で折れる。折れた先が白い霧の中へ落ちていき、音は数秒遅れて、低い轟きとなって返ってきた。
久遠は下層で制御盤を開き、古い切替輪を回す。 死んでいた補助路線へ最低限の通電を戻すためだ。切替輪は錆で固着していたが、義眼の蒼光を注ぎ、固定の残渣を焼き切って回した。こめかみに汗が浮く。義眼を制御盤の読み取りと固定解除に同時に使っている。負荷が重い。
「こよい、回廊の灯を見ろ。三つ目が消えたら伏せろ!」
叫びが風に混じる。 こよいは住民を押し流しながら進める。西回廊の天井に灯が並んでいた。古い誘導灯だ。ひとつ、ふたつ、みっつ。順番に消えていく。消えるたびに、その区画の固定が外れる合図だった。
三つ目が消えた。
「伏せて!」
こよいは前の人の肩を掴んで引き倒し、自分も膝をついた。
直後、背後で爆ぜるような崩落音。 石片が雨みたいに降る。背中に小さな破片が当たり、痛みが散った。巾着を庇うように胸の前で抱える。
あさひは主梁の継ぎ目へ剣を打ち込み、ずれた力を逃がしていた。 一打。 梁が軋み、剣が跳ね返される。衝撃が腕を伝い、肩まで痺れる。 二打。 ひびの入った刃が唸る。亀裂が広がるのが、振動で分かる。仮補強の帯が青白く光り、裂けかける鋼を繋ぎ止めている。
三打目で、剣が甲高い音を立てた。 完全には折れない。 だが芯の帯が裂け、火花が散る。封入された師匠の文字が、一瞬だけ火花の中に浮いた。
それでも主梁は持ちこたえた。 崩落の向きが変わり、西回廊側の倒壊だけは免れる。
避難が終わる頃、天都の上層は半分失われていた。 空に浮かぶ街だった場所が、白い霧へ沈む。残った半分も無傷ではない。壁に亀裂が走り、石橋は途中で途切れ、空中に断面を晒している。崩れた石が下へ落ちていく音が、何秒かおきに遠い底から返ってきた。
西回廊の出口に、人が溜まっていた。座り込む者、壁に寄りかかる者、子どもを抱いて動かない者。全員が生きている。それだけが、今この場所の確かな事実だった。
こよいは膝に手をつき、息を整えた。掌に石の粉がついている。誰かの腕を掴んだ時の、汗の感触がまだ残っていた。 住民の泣き声、怒声、祈り。 全部が混ざる。けれどその混ざった音の底に、生きている人間の体温がある。
久遠が静かに言う。
「守れたのは一部だ。でも、全滅は避けた」
あさひは欠けた剣先を見て、短く笑った。
「三回で足りたな」
仮補強の帯は焼け落ち、刃は根元から先が大きく欠けていた。もう強打はできない。それでもあさひの手は柄を離さなかった。欠けた刃先が地面に転がり、夕方の光を受けて鈍く光っている。あさひはそれを拾い、懐にしまった。
こよいは崩れた空を見上げる。 天都は落ちた。 原初の術式が完成していれば、こんな崩落も止められたのだろうか。第三の条件——還す者の手。その答えは、まだ遠い。 それでも、降りてきた人々の手には、まだ名前が残っている。
崩落は終わりじゃない。 地上で続けるための始まりだ。
おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。
