第163話 天都崩落
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第163話 天都崩落

第6章 影の計量

列車は霞見台(かすみだい)を出てから、ずっと登りだった。  線路が山裾(やますそ)を巻き上がるたびに空気が薄くなり、窓の外の色が変わった。地上の茶色が消え、灰色の岩肌が広がり、やがて雲の白に呑(の)まれた。雲の上に出た瞬間、列車が軋(きし)み、こよいの耳が詰まった。  終点の標柱(ひょうちゅう)に『天都(てんと)外縁』と刻まれていた。降りた足元は雲の上だった。

天都(てんと)の縁に着いた時、空が軋(きし)んでいた。

雲の上に浮かぶはずの街区(がいく)が、ゆっくり傾いている。  石橋の連結部から光が漏れ、建物の輪郭(りんかく)が細かく崩れていた。光は白ではなく、黄色がかった警告の色だった。古い固定(こてい)の式が、力を失いながら最後の明滅をしている。

足元の石が、心臓みたいに不規則に揺れた。こよいは咄嗟(とっさ)に柱へ手をつく。柱の表面もぬるく震えている。街全体が脈を打ち、しかもその脈が乱れていた。

「崩落(ほうらく)が始まってる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開く。頁(ページ)が風もないのにばたばたと揺れ、蒼光(そうこう)で照らした文字が滲(にじ)んで読みにくい。

「固定(こてい)を支えていた柱座標(ざひょう)が、連鎖(れんさ)断絶の余波(よは)で順番に切れてる。外縁(がいえん)から中央へ向かって、支えが抜けていく」

あさひは剣を抜き、風向きを読む。風が下から吹き上がっている。地上から見上げる風ではなく、足元の隙間から吸い込まれていく風だった。街の下の空洞(くうどう)が、崩落(ほうらく)とともに広がっている。

「避難路は?」

「西回廊(かいろう)。だが住民がまだ上層に残ってる」

久遠(くおん)の声に迷いはなかった。状況を読み切った声だ。迷いがないぶん、重い。

こよいは遠眼(とおめ)に、白い外套(がいとう)の群れを見つけた。  上層の広場に固まっている。誰もが下を見ている。落ちる街を見下ろし、足を動かせない顔だ。恐怖で身体が固まっている人と、まだ状況を理解できずに立ち尽くしている人がいた。どちらも動けないことに変わりはない。

「ぼく、呼んでくる」

こよいが走り出す。  石畳(いしだたみ)が足の下で微(かす)かにずれる。水平だったはずの通路が、もう傾いていた。壁に手をつきながら走る。指が触れる壁面は乾いているのに、内側から湿った振動が伝わってくる。建物が汗をかいている。限界が近い。

あさひも続こうとして、久遠(くおん)に止められた。

「お前は支点を押さえろ。主梁(しゅばり)が先に折れる」

あさひは一度だけ迷い、すぐ頷(うなず)いた。

「了解。三回までだな」

亀裂(きれつ)の入った剣を抱え、主梁(しゅばり)へ向かう。走りながら、仮補強の帯が巻かれた刃を確かめた。あと三回。それだけで持たせる。

こよいは上層の広場へ出た。  年寄り、子ども、荷を抱えた商人。  誰もが同じ問いを目で投げる。

どこへ逃げればいい。

こよいの胸の中で、風の神が強く震えた。こよいの声を押し出すような渦の拍だった。

こよいは大声で言った。

「西回廊(かいろう)へ! 荷は捨てて、手だけつないで!」

声が広場の石壁に跳ねて返ってくる。自分の声が二度聞こえる。それでも足の竦(すく)んだ人々は、まだ互いの顔を見ていた。  そのとき、三毛の猫が群衆の足の間を駆け抜けた。西回廊(かいろう)の方向へ、迷いのない一直線。チリン、と鈴が鳴る。  「……猫が知ってる」  誰かが呟(つぶや)き、最初の数人が動いた。動いた人を見て、次の人が動く。やがて群れが動く。  走る足音が石畳(いしだたみ)を叩(たた)く。子どもの手を引く老人、荷を迷って捨てる商人、泣きながら走る母親。こよいは流れの後ろにつき、遅れる人の背を押した。

その時、天都(てんと)の中央塔が大きく傾いた。  橋が一本、空中で折れる。折れた先が白い霧(きり)の中へ落ちていき、音は数秒遅れて、低い轟(とどろ)きとなって返ってきた。

久遠(くおん)は下層で制御盤を開き、古い切替輪を回す。  死んでいた補助路線へ最低限の通電を戻すためだ。切替輪は錆(さび)で固着していたが、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を注ぎ、固定(こてい)の残渣(ざんさ)を焼き切って回した。こめかみに汗が浮く。義眼(ぎがん)を制御盤の読み取りと固定解除に同時に使っている。負荷が重い。

「こよい、回廊(かいろう)の灯を見ろ。三つ目が消えたら伏せろ!」

叫びが風に混じる。  こよいは住民を押し流しながら進める。西回廊(かいろう)の天井に灯が並んでいた。古い誘導灯だ。ひとつ、ふたつ、みっつ。順番に消えていく。消えるたびに、その区画の固定(こてい)が外れる合図だった。

三つ目が消えた。

「伏せて!」

こよいは前の人の肩を掴(つか)んで引き倒し、自分も膝をついた。

直後、背後で爆ぜるような崩落音。  石片が雨みたいに降る。背中に小さな破片が当たり、痛みが散った。巾着(きんちゃく)を庇(かば)うように胸の前で抱える。

あさひは主梁(しゅばり)の継ぎ目へ剣を打ち込み、ずれた力を逃がしていた。  一打。  梁(はり)が軋(きし)み、剣が跳ね返される。衝撃が腕を伝い、肩まで痺(しび)れる。  二打。  ひびの入った刃が唸(うな)る。亀裂(きれつ)が広がるのが、振動で分かる。仮補強の帯が青白く光り、裂けかける鋼(はがね)を繋(つな)ぎ止めている。

三打目で、剣が甲高い音を立てた。  完全には折れない。  だが芯(しん)の帯が裂け、火花が散る。封入された師匠の文字が、一瞬だけ火花の中に浮いた。

それでも主梁(しゅばり)は持ちこたえた。  崩落(ほうらく)の向きが変わり、西回廊(かいろう)側の倒壊だけは免(まぬが)れる。

避難が終わる頃、天都(てんと)の上層は半分失われていた。  空に浮かぶ街だった場所が、白い霧(きり)へ沈む。残った半分も無傷ではない。壁に亀裂(きれつ)が走り、石橋は途中で途切れ、空中に断面を晒(さら)している。崩れた石が下へ落ちていく音が、何秒かおきに遠い底から返ってきた。

西回廊(かいろう)の出口に、人が溜まっていた。座り込む者、壁に寄りかかる者、子どもを抱いて動かない者。全員が生きている。それだけが、今この場所の確かな事実だった。

こよいは膝に手をつき、息を整えた。掌(てのひら)に石の粉がついている。誰かの腕を掴(つか)んだ時の、汗の感触がまだ残っていた。  住民の泣き声、怒声、祈り。  全部が混ざる。けれどその混ざった音の底に、生きている人間の体温がある。

久遠(くおん)が静かに言う。

「守れたのは一部だ。でも、全滅は避けた」

あさひは欠けた剣先を見て、短く笑った。

「三回で足りたな」

仮補強の帯は焼け落ち、刃は根元から先が大きく欠けていた。もう強打はできない。それでもあさひの手は柄(つか)を離さなかった。欠けた刃先が地面に転がり、夕方の光を受けて鈍く光っている。あさひはそれを拾い、懐(ふところ)にしまった。

こよいは崩れた空を見上げる。  天都(てんと)は落ちた。  原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)が完成していれば、こんな崩落(ほうらく)も止められたのだろうか。第三の条件——還す者の手(て)。その答えは、まだ遠い。  それでも、降りてきた人々の手には、まだ名前が残っている。

崩落(ほうらく)は終わりじゃない。  地上で続けるための始まりだ。

おたまも、こよいの足元を離れずに進んだ。

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