第158話 観測者の聖歌
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第158話 観測者の聖歌

第6章 影の計量

夜半、霧列車きりれっしゃ廃聖堂はいせいどうの脇で停まった。

車輪がきしみ、石畳の上で火花を散らして静止する。蒸気が排気管から白く噴き出し、夜の闇に溶けた。車内の灯が揺れ、窓硝子まどがらすに三人の顔が映る。

扉を開けた瞬間、低い合唱が流れ込んだ。  言葉は古く、意味が取れない。だが旋律せんりつだけが骨に響く。胸骨の裏側を指先ででられるような、体内に直接触れてくる音だ。空気を通して耳に届く音ではなく、地面と壁と空気全体が振動して、身体そのものを楽器にしてしまう。

観測者かんそくしゃ聖歌せいかだ」

久遠くおんが顔を強張らせた。義眼ぎがん蒼光そうこうが、無意識に強く灯る。

「士気を上げる歌じゃない。同期どうきのための呪式じゅしきだ。聞き続けると、判断の拍が奪われる。自分の呼吸のリズムが歌に引き込まれて、思考の速度を外から制御される」

あさひは即座に布を裂き、耳栓代わりに詰めた。自分の分を詰め終わると、同じ大きさに裂いたものをこよいにも渡す。手つきは荒いが確実だった。

それでも歌は聞こえた。  音ではなく、振動として体に入ってくる。布で耳を塞いでも、足の裏から、あごの骨から、指先の爪先から。固体を伝って身体の奥へ潜り込む。

聖堂へ近づくほど、歩幅が歌の拍に引き寄せられた。三歩進み、一拍止まる。自分で選んだ歩幅ではない。歌が脚の筋肉に拍子を与え、勝手に動かしている。自分の意思で歩いている感覚が薄れ、操られている違和感が首筋をい上がる。

足元で、チリン、と鈴が鳴った。  おたまだった。猫は歌の拍とはまるで関係のない歩調で、三人の間をすり抜けていく。その鈴の音だけが、歌に呑まれずに立っていた。——ずれた拍は、呑まれない。  こよいは巾着きんちゃくを握り、神々の脈を上書きするように数えた。  一、二、三、四。  歌とは別の拍を体に刻む。神々の脈は四拍子で、聖歌せいかは三拍子。拍子がみ合わないから、引き込まれにくくなる。完全には防げないが、自分の足を自分で動かしている実感が戻る。

聖堂の内部は広く、天井が高い。石壁に蝋燭ろうそくの灯が並び、炎が同じ方向に揺れている。風ではない。歌の振動が炎の向きをそろえている。  観測者かんそくしゃが十数人、黒衣こくいの輪になっていた。全員が同じ譜面ふめんを見ている。口は動いているが、個々の声は聞き分けられない。一つの声になっている。十数人の声が完全に重なり、一人の巨大な声のように聞こえた。  輪の中央には薄い光の柱。床から天井に向かって伸びる、半透明の柱だ。光の中に細かい文字が浮遊し、うずを巻きながら上昇している。

久遠くおんささやく。声を出すのも危険だが、情報共有しなければ動けない。

「柱が同期どうきかくだ。あの柱が合唱の波形を集約し、増幅している。譜面ふめんを止めても柱が残れば再開する。柱を壊さなければ根本解決にならない」

あさひが剣を抜いた。欠けた刃が蝋燭ろうそくの光を受け、鈍く光る。

「柱を断つ」

「正面からは無理だ。歌で刃のタイミングを合わせられてる。振り下ろす瞬間に拍が入ると、力が抜ける」

こよいは輪の外側に積まれた譜面ふめんの端を見た。紙は古く、端が黄ばんでいる。ところどころすみかすれ、別人の筆跡ひっせきによる書き込みがあった。拍子の切り替え指示だ。三拍子から四拍子へ、四拍子から変拍子へ。完全同期どうきではない箇所が、複数ある。

「ここ、書き換えた人がいる。完全同期どうきじゃない。揺らぎがある」

久遠くおんがすぐに反応する。蒼光そうこう譜面ふめんの書き込みを読み取り、揺らぎの位置を特定した。

「揺らぎを使える。こよい、四拍目で逆拍ぎゃくはくを入れろ。歌の三拍子と神々の四拍子がぶつかる瞬間だ。そこに強い拍を一つ入れれば、合唱の位相がずれる」

あさひは柱の右側へ回り込む。石柱の影に隠れ、輪の外周に沿って移動した。足音を殺し、歌の拍に合わせて歩く。輪の中の観測者かんそくしゃ譜面ふめんに集中していて、外周の動きに気づかない。  久遠くおん目録もくろくを開き、白紙のページへ歌の波形を書き取っていく。波形の山と谷のタイミングを記録し、逆拍ぎゃくはくの最適な瞬間をこよいに伝える。

こよいは息を深く吸い、神々の脈に意識を合わせた。一、二、三——四拍目。

短い呼気を、声として放った。大きな声ではない。だが歌とずれた四拍目だけ、意図的に強く。風の神の震えが声に乗り、振動の質が変わる。鋭い一振が、温かい合唱の中に割り込んだ。

合唱の輪が乱れた。一人が音を外し、隣の一人も釣られてずれる。完全な一つの声が、十数人の不揃いな声に戻りかけた。

その瞬間、あさひが踏み込んだ。  剣筋は柱ではなく、床の譜線へ。床面に刻まれた記号——同期どうきの基盤となる図形を、欠けた刃で断ち切る。石が割れ、火花が散った。

柱の光が揺れた。文字のうずが乱れ、光の密度が薄くなる。  久遠くおんが、いま上書き式を書きつけたばかりのページを裂いて投げた。紙片が光の柱の根元に張りつき、蒼光そうこうで起動した式が走る。同期どうきかくに、別の式が上書きされた。

最後にこよいが巾着きんちゃくを開き、月の神の冷光を柱に重ねた。銀の光が柱の温かい光と混ざり、色が変わる。白い光が少しだけ柔らかくなり、やがて細って消えた。

合唱は止まった。  残響が石壁の間で消え、蝋燭ろうそくの炎がそれぞれ別の方向に揺れ始める。同期どうきが解けた証拠だ。  観測者かんそくしゃたちは戸惑い、互いの顔を見合った。仮面かめんの奥で目が泳いでいる。同じ歌を失った途端、彼らの歩幅はばらばらになった。

久遠くおんが短く告げる。

「撤退だ。ここで全員を敵に回す必要はない。同期どうきは解けた」

三人は聖堂を離れ、列車へ戻る。  背後で誰かが小さく、別の旋律せんりつを口ずさんだ。命令の歌ではない。個人の歌だ。合唱の中では聞こえなかった、その人だけの声。

こよいは振り返らなかったが、その旋律せんりつを覚えた。同期どうきを断ったあとに残るものが、次の時代の手がかりになると分かっていた。

車内へ戻ったあとも、こよいの耳には低い余韻よいんが残っていた。骨の奥がまだかすかに振動している。

あさひが布を外して言う。

「まだ聞こえるか」

「うん。でも命令には聞こえない。誰かの普通の歌に変わった」

久遠くおん目録もくろくへ短く記した。

『同期断絶後、個別旋律を確認。統一の歌が消えた後に、個人の歌が残る』

その記録は小さい。だが、巨大な聖歌せいかを解いたあとに残る最初の手掛かりだった。  原初げんしょ術式じゅつしきに足りない第三の条件——還す者のも、こうした小さな残響の中に隠れているのかもしれない。

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