第157話 おたまの変異
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第157話 おたまの変異

第5章 名の漂い

出口を抜けると、川沿いの集落(しゅうらく)だった。

川は幅が広く、流れは緩い。水面が夕暮れの光を受けて鈍く光り、対岸の木立(こだち)がぼんやりと影を落としている。川風が運ぶ湿気は生温く、草と泥の匂いが混じっていた。  家々の軒先に、丸い木桶(きおけ)が並んでいる。どの家も三つか四つ。中には透明な水ではなく、淡い金色の液が満ちていた。液面は静かだが、よく見ると微かに明滅している。呼吸するように。家の中に人の気配はあるが、誰も桶のそばには近寄らない。

「……変異区域。義眼(ぎがん)の仮分類では、そうとしか呼べない。土地の名は、どこにも残っていない」

久遠(くおん)が集落(しゅうらく)を見渡す。蒼光(そうこう)の走査(そうさ)が一箇所で止まり、眉が寄った。

「本来は雨水を溜(た)める桶(おけ)だが、ここでは情報液として機能してる」

こよいが桶(おけ)を覗(のぞ)くと、水面に自分の顔ではなく、知らない景色が映った。雪の坂道、崩れた祠(ほこら)、誰かの背中。見つめていると目の奥が引き込まれそうになり、こよいは慌てて顔を上げた。自分の記憶と桶の映像の境目が、一瞬わからなくなった。

あさひが手を伸ばしかけ、久遠(くおん)が止める。腕ではなく、目録(もくろく)を閉じる音で制した。乾いた紙の音が、あさひの手を止めるには十分だった。

「素手で触るな。記憶同化が起きる」

その時、集落(しゅうらく)の奥から少女が走ってきた。裸足で、足の裏が泥に汚れている。袖(そで)をまくり、両手に木杓子(きしゃくし)を持っている。息が荒く、額に汗が光っていた。

「旅の人? 桶(おけ)が暴れてるの。手伝って」

少女の名は、おしず。この集落(しゅうらく)で桶守(おけもり)をしていると言う。歳はこよいより少し下に見えたが、杓子を握る手の皮は厚く、指先にいくつも火傷(やけど)の痕がある。液に触れた痕だろう。痕の色はそれぞれ違い、古いものは白く、新しいものは赤い。

案内された広場では、十数個の桶(おけ)が泡立っていた。液面から細い光の糸が噴き出し、空中で絡み合う。こぼれた液が草を金色に染めていた。泡が弾けるたびに甘い匂いがして、それが鼻ではなく頭の中に直接届く感覚があった。

「今朝から止まらないの」

おしずが唇を噛(か)む。下唇を噛む力が強く、皮が白くなっている。

「いつもは決まった記録だけ映るのに、別の町の映像まで混ざってる」

久遠(くおん)は一つの桶(おけ)を計測し、すぐに判断した。数値は義眼(ぎがん)の視界の中を流れ、それを追う目が厳しい。想定より深刻なのだろう。

「連鎖(れんさ)の余波だ。上流から別系統の記録液が逆流している」

あさひが杓子(しゃくし)を受け取り、桶(おけ)の縁(ふち)を押さえる。液が飛び散り、あさひの腕に金色の斑(まだら)が散った。熱いはずだが、あさひは顔色を変えない。歯を食いしばり、桶の縁を両手で押さえつける。  こよいは巾着(きんちゃく)を開き、神々の温度で液面を落ち着かせた。雨の神の温もりが波を抑え、月の神の冷光が泡を鎮(しず)める。冷たさが液の表面に触れると、泡立ちが鈍り、光の糸が短くなる。液面に広がる冷気が金色の明滅を押し返し、静かな領域がゆっくりと広がっていく。

だが、中央の大桶(おおおけ)だけは収まらない。液面が盛り上がり、人影に似た形を作る。液の塊が胸から上だけ浮き上がり、頭を垂れた姿勢で静かに揺れていた。顔はない。だが、背中の丸みには確かに人の輪郭があった。肩の落ち方、首の傾きに、生前の癖が残っている。記録が形を借りて、最も近い姿を取ろうとしているのだ。

おしずが震え声で言う。

「これ、昨日亡くなった祖父の背中に似てる……」

こよいは一歩前へ出た。おしずの手が伸びかけるのを、自分の体で遮る。おしずの目が液面の人影に吸い寄せられている。その目に涙はなかったが、渇いた悲しみが光っていた。呼べば返事があるかもしれない。でもそれは返事ではない。

「似てるだけ。呼びかけないで」

久遠(くおん)が補足する。

「呼べば固定(こてい)される。記録が擬似人格(ぎじじんかく)になる」

おしずは目を閉じ、深く息を吐いた。杓子(しゃくし)を握る手は震えているが、離さない。白くなった指の関節が、覚悟の形をしていた。こよいはその手を見て、胸が詰まった。呼びたいはずだ。返事が聞きたいはずだ。それでも、おしずは呼ばない。桶守(おけもり)として、線を越えない。

「あたし、桶守(おけもり)だから。呼ばない。混ざった記録は戻す」

あさひが頷(うなず)く。

「いい覚悟だ。なら手順を合わせよう」

三人とおしずは、桶(おけ)を円形に並べ替えた。中央の大桶(おおおけ)を核(かく)にし、周囲の桶(おけ)へ順に液を移す。逆流を分散(ぶんさん)して、擬似人格(ぎじじんかく)の成長を止める手順だ。  桶は重い。底が泥に沈み、動かすたびに液が波打つ。泥に足を取られながらも、おしずの動きには無駄がない。こよいが拍を取り、久遠(くおん)が濃度を読み、あさひとおしずが移送する。液が桶から桶へ移るたび、金色の明滅が弱くなる。五巡、六巡と繰り返し、ようやく中央の泡立ちは静かになった。人影の形が崩れ、液面に沈み、やがてただの金色に戻る。

最後に残った液面には、誰の顔も映らない。ただ、淡い金の輪が一つだけ揺れている。夕暮れの光を受けて、輪はゆっくりと縮み、消えた。広場に静けさが戻り、川のせせらぎだけが聞こえる。

その静けさの中で、おたまが大桶(おおおけ)の縁(ふち)に前脚をかけた。  金色の液面に、猫の顔が映る——はずだった。  映ったのは、山だった。  雪をかぶらず、それでも高い、あたたかな稜線(りょうせん)。裾野(すその)に無数の小さな灯がともり、その一つ一つが名前のように瞬いている。景色は一拍だけ液面に留まり、おたまが瞬きをすると、ただの金色に戻った。

「……いまの、見た?」

こよいが囁(ささや)くと、久遠(くおん)は液面を計測しようとして、やめた。

「記録液は、映るものの記録を映す。……あの猫の記録は、俺の目録より深い」

おたまは素知らぬ顔で縁から降り、毛づくろいを始めた。

おしずが肩を落とし、笑った。目の縁が赤い。泣いたのか、泣くのを堪えたのか。どちらにしても、おしずはもう前を向いていた。

「助かった。これで明日も、ちゃんと桶(おけ)を見られる」

こよいは小さく頷(うなず)く。

「変異は終わってない。けど、扱える形には戻せた」

去り際、おしずは木札を渡してくれた。

『逆流時、呼ぶな』

太い字で、短く書かれている。墨が木目に染みて、指で擦っても消えないほど深い。現場で生き残る言葉は、いつも短い。

列車へ戻る道で、あさひが言った。川風が背中を押し、草の匂いが薄れていく。夕暮れの空が橙(だいだい)から紫に変わり始めている。

「さっきの子、強いな」

久遠(くおん)が答える。

「強いというより、正確だ。守るべき線を知ってる」

こよいは木札を巾着(きんちゃく)へしまった。神々が一度だけ、深く脈を打った。木札の重さが加わったことに応えるように。巾着(きんちゃく)の中で、木札が核片(かくへん)に触れ、こつ、と小さな音を立てた。旅で受け取った、最初の一枚だった。

出発の笛が鳴る直前、おしずが走ってきた。手には新しい木札。削りたての木の匂いがする。

『混ざる夜は、桶(おけ)を丸く並べる』

こよいは受け取り、礼を言う。

「また逆流したら、これで持ちこたえられる」

おしずは胸を張った。小さな体が、夕陽を背に受けて大きく見えた。

「あたしの集落(しゅうらく)は、もう記録に呑(の)まれない。呑(の)まれても、戻す手順を知ってる」

列車が動き出す。窓の外で、おしずは杓子(しゃくし)を高く掲げて見送っていた。金色の液が杓子の先から一滴こぼれ、夕暮れの光の中で星のように光った。こよいは窓枠に手をかけ、おしずの姿が見えなくなるまで見送った。  呼ばずに守る手。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)が求める第三の条件は、こういう手のことではないか。

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