列車は迷宮駅で停止した。
駅舎は四角い。外壁は灰色の石で組まれ、角は正確に直角を保っている。入口の石段は磨り減り、中央が浅く窪んでいた。何千もの足が同じ場所を踏んだ痕跡だ。だが、入った瞬間に通路の角度が変わる。直進しているのに、同じ柱へ戻ってくる。足元の石の色が微妙に違うことで、自分が動いたことだけは確かにわかる。なのに、景色が同じだった。壁の傷も、天井の染みも、寸分たがわず繰り返される。
「八重の迷宮だ」
久遠が案内板を見上げる。同じ矢印が四方向を指していた。文字はかすれ、墨が滲んで読めない。矢印の先だけが妙に鮮明で、すべてが正解のふりをしている。板の角は丸く削れ、多くの手が触れたことを示していたが、誰も答えにたどり着けなかったのだろう。 天井は低い。こよいが手を伸ばせば指先が届くほどだ。石の継ぎ目から乾いた風が吹き、頬を撫でる。風の向きも四方に分かれていて、どこが外に繋がっているのかわからない。空気に湿り気はなく、石と埃の匂いだけが薄く漂っている。
こよいは巾着の紐を握る。神々の脈が、右へ行けと告げる。風の神の渦が右を指し、雨の神の温もりがその方向へ傾いた。だが右へ進むと、最初の改札へ戻ってしまった。同じ柱の同じ傷を、こよいの目が捉える。二度目の帰還に、胸の奥がざわついた。迷宮は怒らない。罰も与えない。ただ黙って、元の場所に戻す。その無感情な繰り返しが、こよいの焦りを静かに削った。
あさひが舌打ちする。
「足で解くと日が暮れる」
久遠は床に膝をつき、石目を指でなぞった。目地の幅が一定ではない。狭い列だけが、わずかに温かい。指の腹に伝わる微熱を追うように、久遠は三列先まで手を這わせ、そこで止まった。目を閉じ、指先だけで石の温度を読んでいる。
「迷宮そのものが生きてる。訪問者の選択を記録して、道を組み替えてる」
こよいが問う。声が通路に反響し、二重三重に重なって返ってきた。
「八重って、人の名前?」
「そうだ。元設計者の一人。逃げるためじゃなく、追手を遅らせるために作った」
あさひが笑う。乾いた笑いだが、声には感心の色がある。剣の柄を叩いて、立ち上がった。
「じゃあ攻略法は単純だ。追われる側の動きをすればいい」
三人は役割を入れ替えた。先頭をこよい、中を久遠、後尾をあさひにする。追手に見せる動きではなく、守る動きで進むためだ。あさひが背後を固め、久遠が中央から全体を把握し、こよいが道を切り拓く。これまでとは逆の隊列が、迷宮の期待を裏切る。 先頭に立った瞬間、こよいの視界が変わった。守られる位置から、選ぶ位置へ。一歩ごとの判断が三人の行き先を決める。その重さに足が竦みかけたが、背後にあさひの足音が聞こえた。等間隔の、落ち着いた足音。任せたぞ、と言わなくても伝わる音だった。こよいは前を向いた。
こよいは神々の脈ではなく、壁の反響で角を選んだ。拍は誘導、反響は構造。足音が石壁に当たって返ってくる音の長さが、通路ごとに違う。短い反響は行き止まり。長い反響は奥がある。両方を重ねると、偽の通路が見えてくる。神々の脈が右と告げても、反響が短ければ進まない。壁に耳を近づけ、自分の息の反射を聞く。暗い通路の中で、こよいは目ではなく耳と指先で進んだ。石壁に触れると冷たさの中に微かな振動がある。迷宮が道を組み替えるたびに、石が軋む音が壁の奥で鳴っていた。
二十数分歩いたところで、行き止まりに鏡が現れた。高さはこよいの背丈ほど。枠は黒い木で、角が丸く削れている。長い年月、多くの手が触れた痕跡だ。鏡面には八つの扉が映っている。実際には扉は一つしかない。残りの七つは鏡の中だけに存在する虚像で、光の角度を変えても消えなかった。どの扉も同じ形、同じ大きさ、同じ色。完璧な均一が、選択を不可能にしている。
久遠が低く言う。
「ここが中枢だ。八重の最終鍵は『一つを選ばない』こと」
あさひが眉を上げる。
「選ばないで、どう進む」
こよいは鏡の前で深呼吸した。石の匂いと、どこからか漂う水気を吸い込む。肺の奥まで冷たい空気が届き、意識が澄む。八つの扉を順番に見ず、同時に視界へ入れる。焦点をぼかし、輪郭ではなく光の強弱を拾う。 一つを選ぼうとするたびに、他の七つが揺れて誘う。だから選ばない。すべてを等しく見る。その状態を数秒保つと、視界の質が変わった。扉の輪郭が薄れ、光の明暗だけが浮かび上がる。目の使い方を変えるのではなく、見る姿勢を変える。答えを探す目から、ただ受け取る目へ。
すると、中央の暗部だけが脈打って見えた。扉と扉の間にある、何もないはずの空間。そこだけが微かに呼吸している。暗がりの奥で、薄い光の膜が揺れるのが見えた。
「扉じゃない。扉の間だ」
こよいが鏡の中央へ掌を当てる。冷たい鏡面が、指の熱で曇った。神々の温度が広がり、鏡面が水のように揺れた。表面の固さが溶け、掌が数ミリだけ沈む。指先に吸い込まれるような感触があり、こよいは思わず力を込めた。
あさひがこよいの肩を支え、久遠が白紙の頁へその場で固定式を書き、義眼で起動して位相を固定する。蒼い光が鏡の枠を走り、揺れが一定のリズムに収まった。三人の呼吸が自然に揃う。三人同時に踏み込む。
鏡の向こうは短い回廊だった。天井が高く、足音が遠くまで届く。壁は磨かれた石で、触れると指先に細かな彫りの感触がある。彫りの一つ一つが文字なのか模様なのか判別できないが、指先で追うと規則的な間隔を感じる。突き当たりに、古い木札が一枚。釘ではなく、細い紐で石壁に結ばれていた。紐も木札も同じ色に褪せている。
『迷うことを禁ずるな』
八重の手で書かれた文字だと、久遠が言った。墨は褪せているが、筆の勢いは残っていて、最後の一画だけが長く伸びている。書き終えるのを惜しんだような筆致だった。こよいはその一画を指で追った。筆を持つ手の迷いが、線の揺れに残されている。
「迷宮は迷いを消す装置じゃない。迷いを抱えたまま、最短ではなく最善を選ぶ訓練場だった」
こよいは札に触れ、静かに頷く。木の表面はざらつき、指先に年輪の凹凸が伝わった。迷うことは止まることではない。迷いながら進むことが、ここでは唯一の正解だった。 あさひも何も言わず、剣の柄を軽く叩いた。乾いた音が回廊に響き、壁の彫りに吸い込まれるように消えた。
回廊の先に出口の灯が見える。温かい色の光が石壁を染め、三人の影を長く伸ばした。影が重なる部分だけが濃く、三人がここにいることを石の上に刻んでいる。 その灯の下に、おたまが座っていた。迷宮には一歩も入らなかったはずの猫が、当たり前の顔で出口から三人を見ている。迷いを試す場所は、迷わないものを試せないのだ。
三人は振り返らず進んだ。迷いを持ったまま進むことが、ここを抜ける唯一の条件だと分かっていた。足音が回廊に響き、壁の彫りが音を吸い込む。出口に近づくほど空気が温かくなり、石の匂いに混じって草と土の気配がした。
出口の手前で、こよいは木札の言葉を帳面に写した。迷うことを禁ずるな。筆を走らせる手が少しだけ震えたのは、寒さのせいではなかった。書き写すことで、文字が自分の中に入ってくる感覚があった。
あさひが覗き込む。
「そんなの、昔の俺に読ませたかったな」
久遠は苦笑した。珍しく柔らかい表情で、帳面の文字に目を落としている。
「今のあなたが覚えていれば十分だ。過去は書き換えなくていい」
こよいは札の下に一行付け足した。『迷いは遅さではなく、選別の時間』。墨が乾く前に、風が頁を揺らした。
八重の迷宮に、ほんの小さな返歌を残してから、三人は駅舎を出た。外の空気は石の匂いがしなかった。こよいはそれだけで、深く息を吸い直した。 選ばずに進む手があるなら、還す者の手もまた、一つに決めない手なのだろうか。
