夜の停車場で、あさひが線路の向こうを睨んだ。
白い霧の中から、もう一人のあさひが歩いてくる。背丈も癖毛も、剣の傷まで同じ。足音さえも同じ間隔で、砂利を踏む音の粒が重なった。停車場の灯が霧に滲み、二つの輪郭を同じ色に塗っている。 違うのは目だった。向こうの瞳には、迷いが一切ない。黒々とした確信だけが光っていて、それがかえって人の目に見えなかった。生きている目は揺れる。揺れない目は、どこかが欠けている。
「遅いな、本物」
偽物が笑う。口の端の上げ方まで、あさひの癖をなぞっていた。だが笑い皺の深さが足りない。表面だけを写した笑みだった。砂利の上に落ちる偽物の影は、本物より薄い。月明かりが霧を通して二つの姿を照らしている。
こよいの背筋が冷えた。同じ声だ。だが、声の底にあるはずの揺らぎが、ごっそりと抜き取られている。こよいは巾着の紐を握りしめた。神々が冷たく脈打ち、風の神が鋭い震えで警告を返した。 足元で、おたまが低く唸った。この旅で、初めて聞く声だった。名の残滓にも古い神にも動じなかった猫が、あれにだけは牙を見せている。
久遠は義眼の蒼光で輪郭を測る。薄い光の線が偽物の体を上から下へ走り、数値は久遠の視界の中だけに流れた。眉がわずかに寄る。数値の並びに、何か引っかかるものがあるのだろう。
「外形一致率は高い。だが、記録の深度が浅い。最近作られた写しだ」
偽物あさひは肩をすくめた。その動きも本物そっくりだが、肩が下りる速度が均一すぎる。本物のあさひは右肩が少し遅れる。古い傷の癖だ。偽物にはそれがない。
「深度? そんなもの、勝つには要らない。斬る理由が一つなら十分だ」
あさひ本人が剣を抜く。鞘を走る金属音が停車場に反響し、線路の錆が微かに震えた。冷たい鉄の匂いが霧に混じり、こよいの鼻先を掠める。こよいは一歩退いた。あさひの背中が、いつもより大きく見える。肩甲骨の間に力が入り、呼吸が深くなっている。
「その一つって何だ」
「迷わないことだ」
偽物は即答し、間合いを詰めた。斬撃は速い。無駄がない。刃が空気を裂く音は鋭く、霧の粒が弾けて白い線を描いた。振り抜いた軌跡が、しばらく光の筋として残る。 だが、速すぎる。相手の呼吸を見ない速度だ。こよいにはわかった。あの剣は相手を見ていない。ただ斬ることだけを最短距離で実行している。生身の人間が持つ躊躇いの間が、丸ごと削り取られた動きだった。
あさひは受け流し、距離を戻す。足元の砂利が崩れ、線路の枕木に踵が当たった。受けた手首が痺れ、指の感覚が一瞬遠のく。冷たい夜気が二人の間を抜ける。霧が渦を巻き、偽物の足元で白い煙のように舞った。
「迷いを捨てた剣は、味方も斬る」
偽物の笑みが僅かに歪んだ。初めて表情に乱れが走ったように見えた。口元は笑っているのに、目の奥が固い。
「それで守れるなら安い代償だ」
こよいは叫ぶ。声が喉の奥から弾けるように出た。考えるより先に、体が動いていた。巾着の紐を握る手に力が入り、神々が掌の中で強く脈打つ。
「違う! 守るって、置いていかないことだよ」
偽物がこよいへ視線を向ける。その瞳は冷たく、こよいの言葉を理解してはいても受け入れる気配がない。その隙に、あさひは踏み込まない。逆に半歩引いた。隙を突かない。こよいは一瞬あさひの横顔を見た。唇が引き結ばれている。怒りではない。何かを堪えている顔だった。顎の筋が浮き、奥歯を噛みしめているのがわかる。
「なぜ斬らない」
偽物が苛立つ。声に初めてざらついた響きが混じる。足元の砂利を蹴り、一歩踏み出したが、あさひは動かない。
あさひは静かに答えた。剣先が下がり、砂利に触れるか触れないかの位置で止まっている。
「お前は俺の切り捨てた部分だ。斬るより先に、どこで捨てたか思い出す」
久遠が短く指示する。声は低いが、霧の中でもはっきり通った。
「こよい、神々の力で輪を。偽物の座標を固定する」
こよいは巾着を開き、停車場の石畳へ円を描いた。膝をついて、指先で神々の温度を引き出す。石の冷たさが膝を刺し、砂利の粒が肌に食い込んだ。冷たい石に落ちた温度が薄く広がり、線路の油と混じって鈍い光を帯びた。石畳の隙間に沿って光が走り、淡い水光の輪が二人の足元を囲む。描き終えた指先が痺れ、石の冷たさが骨まで染みていた。
偽物の動きが一瞬遅れる。足が石畳に吸いつくように止まり、表情が歪む。初めて焦りが顔に出た。あさひはその遅れに合わせ、剣を横へ払った。首も胸も狙わない。偽物の影だけを断つ。刃が石畳を掠め、火花が一つ散った。火花の光が霧を橙色に染め、一瞬だけ停車場全体が明るくなった。
影が切れた瞬間、偽物の輪郭が揺らぐ。体の端から霧に戻り始め、足元から線が解けていく。指先が薄れ、腕の輪郭が滲み、最後に胸から上だけが残った。
「……迷いは弱さだ」
薄れる声で、偽物はなお言い張る。声はもう半分ほど霧に溶けていて、反響が消えかけていた。
あさひは剣先を下げたまま返した。
「迷いは、誰を守るか毎回選び直すために要る。自動で斬るための剣じゃない」
偽物は笑いとも嗚咽ともつかない音を残し、霧へほどけた。最後に残ったのは、あさひの足元へ落ちた短い影だけ。その影は数秒だけ石畳の上で震え、やがてあさひ自身の影に吸い込まれるように消えた。影が合わさった瞬間、あさひの足元が一回だけ微かに光った。
あさひは影を見下ろし、ゆっくり剣を納める。鞘に刃が収まる音が、静まった停車場に長く響いた。金属の余韻が霧の中を伝い、遠くの線路まで届いてから消える。
こよいが近づいた。石畳に残る水光の輪が、二人の足元を薄く照らしている。あさひの肩が微かに上下していた。
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃなくても進む。さっき決めたからな」
久遠が目録を閉じ、短く言った。
「複製はまた来る。だが次からは見分けられる」
停車場の灯が揺れ、列車の音が近づく。遠くから聞こえる車輪の軋みが、霧の中を伝わってゆっくり大きくなる。レールが振動を拾い、足裏を通じて脛の骨まで伝わってくる。霧が列車の光を受けて淡く白む。
あさひは一度だけ、霧の先を振り返った。そこにもう、自分の偽物はいない。ただ白い霧が、線路の上を低く流れていた。
それでも、迷いを抱えたまま剣を握る手は、前より確かだった。
列車に乗る前、あさひは鞘を布で丁寧に拭いた。布に油の匂いが移る。使い慣れた手つきだが、いつもより丁寧だった。刃に触れず、鞘の表面だけを何度も往復させる。
こよいが見ると、あさひは少し照れた顔で言う。
「さっきの相手、俺の手癖を全部持ってた。だからこそ、次は手癖だけで振らないようにする」
久遠が短く返す。
「それでいい。技は似ていても、判断履歴は複製できない」
あさひは頷き、剣を帯に収めた。迷いを抱える剣は、重い。だが、その重さがあるからこそ、振る先を選べる。 迷いながら握る手——それこそが、術式の欠けた条件への手がかりなのかもしれない。
