次に降りた町には、人が多かった。
だが、その全員がどこか不自然だ。 笑う角度、歩幅、手を上げる癖。 どれも、誰かの写しのように揃いすぎている。 市場の売り子が同時に声を張り、路地の掃き掃除が左右対称に進む。すべてが鏡合わせだった。あまりにも均一な動きの中に立つと、自分の不揃いな呼吸だけが浮き上がって聞こえた。
「鏡写しの住民だ」
久遠が低く言った。 義眼が忙しなく動き、住民の一人ひとりを追っている。瞳の中で数字のような記号が明滅し、情報を読み取る速度が上がっていた。
「原像を一つ決めて、それを複製してる。個体差がほぼない。……これが、渓守町で言った反転の残響だ。あそこで裏返った引力の記録が、ここでは鏡になって働いてる」
こよいは路地の子どもを見た。 同じ背丈、同じ髪留め、同じ転び方。 三人が同時に起き上がり、同じ方向へ走っていく。足が石畳を蹴る音まで揃っていて、残響が一つしか返らない。三人分の足音なのに、一人分にしか聞こえない。こよいは思わず自分の足音を確かめた。不揃いで、左右の重さが違う。それが妙に安心できた。
あさひが顔をしかめた。
「気持ち悪いな。人形芝居みたいだ」
住民の一人が近づき、丁寧に頭を下げた。 動作は滑らかで、一分の隙もない。頭を下げる角度、手の位置、目を伏せるまでの間。すべてが型通りだった。口元には笑みが浮かんでいるが、目尻は動かない。笑っているのではなく、笑いの形を作っているだけだ。
「旅の方、ようこそ。ご案内します」
声は柔らかい。 だが、語尾の揺れまで隣の住民と一致している。声の高さ、息継ぎの場所、唇の開き方。こよいの肌が粟立ち、腕の毛が逆立った。
久遠は答えず、目録の頁をめくる。 同じ台詞が、別人の口から同時に聞こえた。
「ご案内します」
「ご案内します」
「ご案内します」
三つの声が重なるのではなく、完全に一致する。和音にならない。単音が増幅されただけの、不気味な斉唱だった。町の空気が圧縮されるように重くなり、こよいの耳の奥がきゅっと詰まった。
こよいは巾着を押さえた。 神々の脈が不規則になる。雨の神が跳ね、風の神が渦を乱す。まるで閉じ込められることを嫌がる小さな生き物のようだった。 拒否反応だ。神々は同一化を嫌っている。
「案内はいらない。ぼくたちで歩く」
こよいが言うと、住民たちは一斉に微笑みを消した。 消え方まで同じだった。口角が同時に下がり、目の光が同時に引く。 次いで、同じ歩調で後退し、道の両脇に整列する。靴音が一つも重ならず、完璧な間隔で並んだ。壁際に立つ姿が街灯の影と重なり、人なのか柱なのか区別がつかなくなる。
道の先に大きな鏡が立っていた。 枠は黒木、表面は曇りなし。磨き上げられた面が周囲の空気を吸い込むように光る。鏡の前だけ風が止まっていた。 空も町も正確に映している。屋根の瓦の一枚一枚、路地に落ちた影の形まで、寸分の狂いもない。
ただし、映っている三人は微妙に遅れていた。
こよいが右手を動かすと、鏡の中のこよいが一拍遅れて右手を動かす。ほんの僅かな遅延だが、見ていると気持ちが悪い。自分が自分でないもう一人に操られているような感覚が、喉元に込み上げた。 おたまの鏡像だけは、遅れなかった。猫と像は寸分の狂いもなく同じ瞬間に尾を振り、同じ瞬間に瞬きをした。鏡が観測するまでもなく、猫はすでに猫として定まっているのだ。
「この鏡が原像を作ってる」
久遠が言う。
「映ったものを基準に、町全体を同期してるんだ」
あさひは剣を抜きかけて止めた。 柄を握る手が一瞬迷い、それから慎重に鞘へ戻す。
「斬れば壊せるか?」
「壊せる。だが住民の同期が外れて暴走する」
こよいは鏡の前へ進み、映る自分を見つめた。 鏡像のこよいは、ほんの一拍遅れて巾着に触れる。指の形まで同じだが、触れ方に温度がない。表面をなぞるだけの、空の動作だった。こよいは巾着を握る力を変えてみた。鏡像は同じ力加減を真似るが、布の皺の寄り方が違う。模倣は完全ではない。
その遅れに、別の意図が見えた。
「これ、ただの遅延じゃない。選択を観測してる」
こよいの声が鏡の表面で微かに反響した。自分の言葉が、少し変質して返ってくる。母音が丸くなり、子音の角が削れている。鏡は音まで均すのだ。
こよいは鏡像より先に、左手を上げた。 鏡像は追従せず、右手を上げる。
住民たちがざわめいた。 初めて、同じではない反応が出る。ある者は口を開き、ある者は一歩退き、ある者はこよいを凝視した。揃わない動きが路地に広がり、町の空気が軋む。
久遠が即座に指示する。
「いい。分岐を作れ。原像を一つにさせるな」
あさひも動いた。 剣の鞘で鏡の枠を叩き、震動の位相をずらす。 黒木の枠が低い音を立て、その振動が鏡面へ伝わる。 鏡面に細い波が走る。反射像が揺れ、住民たちの何人かが足元を見た。
こよいは続けて、鏡像と逆の動作を選び続けた。 右を見れば左を向き、立てば座る。手を開けば拳を握り、前へ出れば後ろへ引く。 鏡像は追従できず、動きが綻ぶ。像のこよいの輪郭が二重になり、判断に迷うように震えた。こよいの額に汗が浮き、視界の端が滲む。集中が途切れそうになるたび、神々の温度を手のひらで確かめた。
やがて鏡面に白いひびが走った。 割れない。 だが、完全な反射は失われる。ひびの入った箇所だけ像が歪み、現実との誤差が生まれた。
住民たちの表情に個体差が戻った。 驚く者、怒る者、泣く者。 同じ顔でも、感情が違う。隣同士が別の方向を見ている。手の位置が揃わない。声の高さがずれる。町に、不揃いな生気が戻り始めていた。
こよいは息を吐いた。膝が震えている。鏡に向き合う間、ずっと力を入れていたのだと気づいた。額の汗が顎を伝い、石畳に一滴落ちた。その染みだけが、鏡には映らなかった。
「これで、写しじゃなくなる?」
久遠が頷く。
「少なくとも、選べる余地は戻った」
あさひが剣を納める。
「なら十分だ。全部を救えなくても、固定は崩せる」
町の鐘が鳴った。 今度の音は、誰とも揃っていなかった。鐘の残響が長く伸び、家々の窓から別々の明かりが灯る。同じ灯ではない。それぞれの灯だ。橙の灯、青白い灯、揺れる灯。町が初めて、色を持った。
出発前、鏡の町の住民が一人だけ声をかけてきた。 先ほどまで同じ顔だった青年だ。よく見ると、右の眉に小さな傷がある。他の住民にはない傷だった。かつてからあったのか、今できたのかは分からない。だがそれは、確かにこの青年だけのものだった。
「……私は、私は、という言い方がまだ慣れません」
こよいは笑って答える。
「最初は言いにくいよ。ぼくも、旅の最初はうまく言えなかった」
青年はぎこちなく頷き、胸に手を当てた。 手の位置を探るように二度置き直す。自分の胸がどこにあるのか、初めて確かめているようだった。
「ありがとうございます。次は、自分で選んでみます」
短い言葉だったが、鏡より重かった。 こよいは振り返らずに歩き出した。背中に青年の視線を感じる。初めて自分だけの目で見ている、まだ慣れない視線だ。 路地を抜けるとき、割れかけた鏡の表面がちらりと光った。映っているのは、もうこよいたちではない。町の住民が一人ずつ、別々の角度で鏡を覗き込んでいた。その不揃いな眼差しが、こよいの背中をそっと押していた。 原初の術式に欠けた第三の条件——自分で選ぶ手だけが、名を返せるのかもしれない。
