列車が山裾の町へ滑り込んだ瞬間、体が軽く浮いた。
停車したはずなのに、足裏の感覚が定まらない。 床を踏んでいるのか、床に踏まれているのか。その区別が溶けていくような、奇妙な浮遊感だった。内臓がふわりと持ち上がり、胃の底が空洞になったような不快さが胸まで昇る。 扉の外を見ると、家並みが上下逆さまに立っていた。
屋根が下、井戸が上。 空は石畳の下にある。 煙突の煙が足元へ流れ落ち、洗濯紐の布は上に向かって垂れていた。風鈴の音が地面の下から聞こえる。脳が景色を正しく処理できず、こめかみの奥がじんと痛んだ。
「逆さまの町……」
こよいが呟く。声が自分の口から上へ抜けたのか下へ沈んだのか、一瞬わからなかった。唇の振動だけが確かで、音の行方は宙に溶けた。 停車場の柱には、逆さまの木札で「渓守町」とあった。谷を守る町。その名だけは、天地が引っくり返っても揺らがずにそこにあった。
あさひは扉の縁を握って体勢を保った。 指の関節が白くなるほど力を込めている。足が床を探るように小刻みに動いた。靴底が板の上を滑り、かかとを打つ音が不規則に響く。
「見た目だけじゃない。重力ごと反転してる」
久遠は目録を開き、頁を抑え込む。 紙が上ではなく下へ垂れた。インクが頁の表面を滑り、文字の端が崩れかける。久遠は目録を裏返して胸に押し当て、記号の流出を止めた。
「中心線を越えると引力が切り替わる。境目で躓くと、両側から引かれて裂ける」
こよいの背筋に冷たいものが走った。裂ける。その一語が、空気の中に残った。首筋の産毛が逆立ち、肩が無意識にすくんだ。こよいは自分の体の中心を意識した。胸骨の裏、神々の温度が届くぎりぎりの場所。そこだけは引き裂かれたくない。
三人はロープ代わりに帯布を結び、互いの腰へ回した。 あさひが結び目を二重にし、強く引いて確かめる。布が軋む音がした。繊維が擦れ合う乾いた音の中に、確かな強度がある。帯布は旅の荷から出した古い木綿で、汗と埃の匂いが薄く染みついていた。 先頭はあさひ、中はこよい、最後尾は久遠。
町へ一歩踏み込む。 最初の十歩は普通だった。石畳の感触が靴底に伝わり、湿った苔の匂いが鼻をかすめる。路地の両側には低い板塀が続き、塀の隙間から小さな庭が覗いていた。軒先に干された草履が上向きに置かれている。それが逆さなのか正しいのか、もう分からなかった。どこにでもある山裾の町だ。 十一歩目で、突然、体が天井へ持ち上がる。
胃が浮いた。視界が反転し、空だったはずの場所に石畳が広がる。こよいの髪が逆立ち、巾着の紐が顔に掛かった。血が頭に集まり、視界の端が赤く滲む。 だが帯布が張り、転倒を防ぐ。あさひの体重が錨のように効いて、こよいの体が途中で止まる。腰に食い込む帯布の圧が、逆に安心だった。
「呼吸を合わせろ!」
あさひの声に合わせ、三人は同じ拍で歩く。 吸う、踏む。吐く、踏む。その繰り返しが体の軸を作り直す。 反転した路地でも、歩幅が揃うと揺れが小さくなる。三人の足音が一つに聞こえる瞬間、重力の引き合いが和らいだ。こよいは前を歩くあさひの背中を見た。汗で貼りついた服の布地が、呼吸のたびに膨らんでは縮む。その動きに自分の息を重ねた。
家々の窓から、逆さの住民がこちらを見ていた。 髪が上へ垂れ、湯気だけが下へ落ちる。 食卓を囲む家族の箸が天井に向かって動き、茶碗の中身はこぼれない。子供が逆さのまま走り回り、笑い声を上げている。障子の桟が影を落とす方向も逆で、光と闇の帯が天地を入れ替えていた。 奇妙なのに、誰も驚いていない。
「この町では、こっちが普通なんだ」
こよいが言うと、久遠が応じる。
「引力の方向は文化になる。正誤の問題じゃない」
こよいたちの世界を「逆さまだ」と思っている住民がいるのだと、初めて気づいた。
路地の中央に、丸い井戸があった。 石積みの縁は苔に覆われ、長い年月を感じさせる。石の一つ一つが手で積まれた形をしていて、指の跡が風化せずに残っていた。 井戸の水面だけは上下どちらにも属さず、空中に水平を保っている。 そこが中心線だった。水は銀色に光り、周囲の空気より冷たい。こよいの頬に水の気配が触れ、産毛が逆立つ。
あさひが剣の背で水面を軽く叩く。 波紋は円ではなく、上下へ裂ける楕円になった。上向きの波と下向きの波が交互に走り、水面が二枚の膜のように震える。
「やっぱり二重引力だな。ここを越えれば出口だ」
こよいは巾着を抱え、井戸の縁へ立つ。 神々の脈は速いが、乱れてはいない。雨の神と月の神が交互に脈打ち、恐怖ではなく反応だ。この場所の力に神々が応えているのだと、こよいは直感した。温度が掌の中で脈打つたび、指先が微かに震える。 行ける。
「せーの、で越えるよ」
三人は同時に踏み出した。 体が一瞬、空中で止まる。上からも下からも引かれ、体の中心がぐらりと揺れた。音が消え、光が消え、自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなる。腕も脚も宙に浮き、重さという概念そのものが体から剥がれ落ちた。 帯布の張力だけが、三人をつないでいた。布が限界まで伸び、繊維の一本一本が悲鳴を上げているのが掌に伝わる。 次の瞬間、引力が切り替わり、足裏の向きが戻った。
おたまは、帯布を必要としなかった。反転の瞬間、猫はくるりと宙で身を返し、当たり前の顔で向こう側の地面に降り立っていた。どちらの世界でも、猫は足から着地する。
着地の衝撃で膝が鳴る。 それでも転ばなかった。あさひが両足を踏ん張り、久遠が帯布を手繰って間合いを詰める。三人が再び一つの重力の中に立った。足の下の土が柔らかく、靴底が沈む感触に、こよいは地面の存在を全身で受け止めた。
振り返ると、逆さの町は静かに遠ざかっている。 住民の一人が、上に向かって手を振った。逆さまの手のひらが、こちらには正しく見える。不思議な一致だった。 こよいも手を返した。
「変だったけど、悪い町じゃなかったね」
あさひが笑う。頬に汗の筋が光っていた。
「敵じゃなければ、だいたい悪くない」
久遠は目録を閉じ、短く言った。
「問題は次だ。鏡面区画で、反転の残響が追ってくる」
停車場へ戻る途中も、こよいは帯布の結び目をほどかなかった。
あさひが首を傾げる。
「もう普通の重力だぞ」
「分かってる。でも、さっきみたいに境目が急に来るかもしれない」
久遠が淡く笑う。
「慎重さは過剰なくらいでいい。特に反転区画の直後はな」
こよいは手首の結び目を見た。 締め跡が赤く残っている。皮膚が軽く腫れ、脈に合わせてじんと熱い。
引かれた痛みは、三人が同時に踏ん張った証拠だ。 その痕が消えるまで、今日の町は忘れないだろう。 還す者の手もきっと、こうして誰かと繋がる手のことなのだろうか。 こよいは結び目に指を添え、そっと撫でた。ほどくのは、まだ先でいい。
霧列車の汽笛が鳴った。音が山裾に跳ね返り、二度目の響きが遅れて届く。 三人は乗り込んだ。窓の外に山裾の緑が流れ、木々の影が正しい方向へ伸びている。 逆さまの引力を越えた先で、まだ見ぬ歪みが待っていた。
