第150話 連鎖の分岐
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第150話 連鎖の分岐

第5章 名の漂い

列車が走り出してすぐ、久遠(くおん)の指先が止まった。

目録(もくろく)の頁(ページ)で、別々だった記号が同じ列へ並び始める。  遠い区画同士を結ぶ線が、勝手に増えていく。  久遠(くおん)の義眼(ぎがん)が淡い光を帯び、その瞳孔(どうこう)の奥で何かが高速に回転していた。光の点滅が不規則に加速し、久遠(くおん)の横顔を青白く照らす。

「連鎖(れんさ)が始まった」

久遠(くおん)が低く言う。  声に力みはないが、指先が目録(もくろく)の縁(ふち)を白くなるほど押さえていた。革の表紙に爪の跡が食い込み、細い皺(しわ)が扇状に広がる。

「どの連鎖(れんさ)?」

こよいが問うと、久遠(くおん)は窓の外を示した。

白い流れの中に、点滅する停車場(ていしゃじょう)の影が複数見える。  一本道のはずの線路が、瞬間ごとに枝分かれしていた。分岐のたびに空気が軋(きし)み、耳の奥に細い金属音が残る。窓硝子(まどがらす)が微かに振動し、こよいの前髪が額に貼りついた。振動は骨に伝わり、歯の根がじんと痺(しび)れる。喉の奥に鉄の味がした。

「名前、影、共鳴……ここまで拾った要素が相互(そうご)に呼び合ってる。どれか一つが崩れると、他も巻き込まれる」

あさひが舌打ちする。  座席の肘掛けを握り込み、膝で体を支える姿勢に切り替えていた。肩の筋が浮き上がり、重心を低くとる体の動きに、戦場で培(つちか)った反射が透けて見える。

「つまり、どこで失敗しても全部に響く」

「その通りだ」

車内の行灯(あんどん)が暗くなる。  蝋燭(ろうそく)の炎が萎(な)えるように、光が芯へ引き戻されていく。闇が車内の隅から滲(にじ)み出し、座席の輪郭が曖昧になった。こよいの足元に影が溜まり、靴先が見えなくなる。  次いで、窓硝子(まどがらす)に薄い文字が浮かんだ。

戻れ

進め

待て

短い命令が重なり、読みにくくなる。文字の筆圧がそれぞれ違う。戻れは太く、進めは細く、待ては掠(かす)れていた。どれも切迫している。どれも本気だ。文字が浮かぶたびに窓硝子(まどがらす)が冷え、こよいの吐く息がうっすらと白くなった。  こよいは目を細めた。車内の温度が一段下がったのを肌で感じながら、巾着(きんちゃく)を胸元へ引き寄せる。布越しに神々の脈を確かめると、風の神の渦(うず)が穏やかに回り、温かさだけが変わらずに脈打っていた。

「誰の声?」

久遠(くおん)は即答しない。  義眼(ぎがん)の光だけが強まる。目録(もくろく)の頁(ページ)を繰る手が止まり、代わりに人差し指で窓の文字をなぞった。指先が触れると文字が揺れ、別の文字と入れ替わる。文字の残像が指に絡みつくように尾を引き、空気中に燐光(りんこう)の筋を残した。

「単一じゃない。複数の記録が同じ窓を取り合ってる」

あさひは座席の背を掴(つか)み、体勢を低くした。  剣の柄(つか)に手をかけ、足裏で床板の振動を読んでいる。振動の周期が乱れるたび、あさひの眉が微かに動いた。唇が薄く開き、何かを数えている。

「来るな」

床下から衝撃(しょうげき)が突き上げる。  列車が一瞬、別の線路へ跳んだ感覚。横方向の力が体を持っていこうとし、こよいの肩が窓枠にぶつかった。  耳の奥で鈍い痛みが走った。空気の圧が変わり、鼓膜(こまく)が押し込まれるような重さだ。座席の金具が甲高い悲鳴を上げ、天井板の隙間から埃(ほこり)が一筋降ってくる。

こよいは巾着(きんちゃく)を開き、神々に意識を合わせる。  温度は安定している。  それだけが判断基準だ。  車内の何もかもが揺れている中で、掌の中の温度だけが変わらない。その一点を握り締めて、こよいは呼吸を整えた。乱れた心臓の拍を、神々の静かな律動に寄せていく。三拍目で息が揃い、視界の揺れが収まった。

「久遠(くおん)くん。どの線が本線?」

久遠(くおん)は目録(もくろく)に三本の線を描き、そのうち一本を指した。  最も細く、最も色の薄い線。他の二本は赤と金に光っていたが、指された線だけが墨(すみ)の灰色だった。赤い線は脈打つように明滅し、金の線は常に一定の輝きを保っている。どちらも目を引く。だからこそ疑わしい。

「共鳴の残響が最も薄い線。ここは誘惑(ゆうわく)が強いから、音の派手な線ほど罠(わな)だ」

あさひが短く笑う。

「派手なほうを切り捨てるのは得意だ」

列車の前方で分岐器(ぶんきき)が鳴る。  金属音が三度続き、最後に大きな衝撃(しょうげき)。  天井の行灯(あんどん)が一瞬消え、闇の中であさひの呼吸だけが聞こえた。短く吸い、長く吐く。戦う前の呼吸だ。

車体が左へ傾いた。  こよいは手すりへ肩をぶつけながらも、巾着(きんちゃく)を落とさない。巾着(きんちゃく)の紐が手首に食い込み、痛みが走る。だが指は開かない。歯を食いしばった顎(あご)の筋が張り、痛みの先にある確かさだけを掴んでいた。

窓の文字が一斉に崩れ、灰(はい)のように流れ去る。  行灯(あんどん)の明るさが戻った。柔らかな橙色の光が車内を満たし、三人の顔に色を返す。久遠(くおん)の義眼(ぎがん)の回転が徐々に減速し、瞳孔の奥の光が穏やかな灯に落ち着いた。

久遠(くおん)が息を吐く。長い、静かな息だった。

「抜けた。予兆段階は越えた」

「本番はこれからって顔だな」

あさひの言葉に、久遠(くおん)は苦く頷(うなず)いた。  目録(もくろく)を膝の上に伏せ、両手の指を組む。珍しい仕草だった。祈りにも見えるし、考えを閉じ込める蓋にも見える。

「連鎖(れんさ)は止まってない。つながり方が見えただけだ。次は断つか、繋ぎ替えるかを選ばされる」

原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)に必要な第三の条件も、この連鎖(れんさ)のどこかに埋もれているはずだ。還す者の手(て)——その意味を、まだ誰も掴(つか)めていない。

こよいは窓に手を当てた。  冷たい窓硝子(まどがらす)の向こうで、細い灯がまた点(つ)く。  遠い停車場(ていしゃじょう)の灯だろうか。それとも、連鎖(れんさ)の端にいる誰かの灯だろうか。

戻れでも進めでもない。  ただ、ここにいるという灯だ。

「選ぶよ」

こよいは静かに言った。  声は小さかったが、車内の空気が僅かに温まった気がした。巾着(きんちゃく)の中で神々が一度だけ強く脈打ち、行灯(あんどん)の炎が応えるように揺れた。

「誰かに決められた連鎖(れんさ)じゃなくて、ぼくたちが背負える連鎖(れんさ)を」

こよいは身を乗り出して目録(もくろく)の灰色の線に指を重ねた。二本の派手な線が光を放って指を弾くが、灰色の線だけがこよいの体温に応えて明るくなり、掌に微かな脈動が伝わった。

列車は速度を上げると、床の振動が変わった。今までの横揺れが、上下に引かれるような脈動へ移る。  次の区画の気配が、既に車内へ入り始めていた。窓の外の白が薄くなり、代わりに鉄錆(てつさび)の匂いが車内へ流れ込む。金属と湿気が混じった匂いだ。線路の先で何かが朽(く)ちている、そんな気配がする。

分岐を抜けたあと、車内の時計が三種類の時刻を示した。  壁の時計、久遠(くおん)の懐中時計(かいちゅうどけい)、窓に映る駅時計。  全部違う。  壁の時計は進みすぎ、懐中時計(かいちゅうどけい)は止まりかけ、駅時計は逆回りしていた。三つの時間が車内で交錯し、空気に薄い眩暈(めまい)を残す。こよいの視界が一瞬泳ぎ、壁の木目が揺れて見えた。  おたまだけが、いつも通りの時間で毛づくろいをしていた。

こよいは壁の時計の針を止めた。指で文字盤を押さえると、硝子(ガラス)越しに冷たい振動が伝わる。秒針の抵抗が指の腹に食い込み、やがて動きが止まった。

「時間まで連鎖(れんさ)に巻き込まれてる。基準は神々の脈で取る」

久遠(くおん)が頷(うなず)く。

「賛成だ。外部時刻は信用しない」

久遠(くおん)は懐中時計(かいちゅうどけい)を閉じ、鞄(かばん)へしまった。  蓋を閉める音が、妙に大きく響く。車内の静寂が深まったからだろう。金属の反響がしばらく空気に留まり、余韻が消えるまで誰も口を開かなかった。

「旅の途中で時計を捨てるとは思わなかったな」

こよいは小さく笑う。

「捨てるんじゃない。あとで合う時刻に戻す」

連鎖(れんさ)を断つとは、全部を壊すことじゃない。  繋ぎ直すために、一度手放すことだ。

窓の外に星のような光が一つずつ戻り始める。まだ遠い。だが光は地平の下からも湧き上がっていて、上からも下からも、同じ数だけ近づいてきている。

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