朝、空は曇っていた。 重い雲が、境の里を覆っている。
長と数人の里人が、見送りに来てくれた。
「気をつけて行け。道は険しいが、迷うことはない」
長の言葉に、こよいは頷いた。
「……ありがとうございました」
「礼は、戻ってきてから言え」
食料と水を少しだけ持ち、こよいは歩き出した。 巾着を腰に下げる。 重い。昨日より、確実に重くなっている。
「……いこう」
祠の神の声が聞こえた。
「……うん」
空き地の神の声も。 声は穏やかだった。でも、どこか張り詰めている気がした。
森の中の道を歩いた。 道は細く、落ち葉が積もっている。木の根が地面から浮き上がり、何度も足を取られそうになる。 光は少ない。木々が頭上を覆い、曇り空と相まって、昼なのに薄暗い。
一時間ほど歩いた頃から、巾着が肩に食い込み始めた。 紐が、鎖骨の上を圧迫している。
「……大丈夫?」
小声で聞いた。
「……うん」
祠の神の声。でも、少し途切れた。
「……すこし、くるしい」
足を止めた。 巾着を見下ろす。 見た目は変わらない。でも、重さが違う。 昨日まで片手で持てたものが、今は両手で支えないと持ち上がらない。
「……ごめん」
空き地の神の声が、かすれて聞こえた。
「……せまい、よ」
「……ぼくたち、おもい」
こよいは、首を振った。
「謝らなくていい。ぼくが、届けるから」
巾着を握りしめて、また歩き出した。
二時間が過ぎた。 腰が痛い。肩が痺れている。 足取りが、どんどん重くなっていく。 神々の声は、ほとんど聞こえなくなっていた。時々、かすかな呻き声のようなものが漏れるだけ。
膝の裏が痺れ、趾の感覚が遠い。下り坂で足を取られ、樹の幹に肩をぶつけてようやく体を保った。息が浅い。唇が乾いてひび割れ、舌が上顎に張り付く。
長の言葉が、頭をよぎった。
「抱え込むと、お前も神も壊れる」
「『まだ大丈夫』は、危険な言葉だ」
分かっている。でも、足を止めるわけにはいかない。 ここで立ち止まれば、神々はきっと余計に苦しむ。それだけは、避けたかった。
三時間目に入った頃、崩れた石積みが見えた。 道の脇、木々の間に、かつて何かだったものの残骸がある。 苔に覆われた石が積み重なり、その上に雑草が生い茂っている。 境界標だったのだろうか。それとも、小さな祠だったのか。 こよいは、足を緩めながら石を見つめた。この道を通る人は、いつからいなくなったのだろう。
足を止めた。 何かを感じた。
巾着が、震えている。 冷たい。急に冷たくなった。
石積みの隙間から、かすかな光が漏れていた。 消えかけの、弱々しい光。
こよいは、石に近づいた。 膝をついて、隙間を覗き込んだ。
何かがいる。 光の塊のような、小さな何か。 神だ。
「……だれ、か……」
声が聞こえた。 かすれて、途切れて、今にも消えそうな声。
「……みち、まもる、もの……」
「……わすれ、られた……」
道標の神だ。 旅人を守る、小さな神。 忘れられて、崩れた石の下で、消えかけている。
巾着の中から、祠の神の声が聞こえた。
「……こよい、だめ」
「……もう、いっぱい」
空き地の神の声も。
「……これいじょう、は」
分かっている。 分かっているのに。
こよいは、手を伸ばした。 石をどけて、光に触れた。 冷たかった。氷のように冷たい。でも、そこには確かに、生きようとしている何かがあった。
「……助けて」
その声が、胸を突き刺した。
こよいは、巾着の口を開けた。
「入って」
光が、ゆっくりと動いた。 巾着の中へ、滑り込んでいく。 布地が引っ張られ、こよいの指が痙攣した。冷たさが掌から腕へ、腕から肩へと這い上がる。
「……ありがとう」
かすかな声が聞こえた。
その瞬間、こよいの体に、重さが落ちてきた。
膝が、ガクンと折れた。 地面に手をついた。 呼吸ができない。胸が圧迫されている。 巾着が、鉛のように重い。
「……くるしい」
祠の神の声が、悲鳴のように響いた。
「……せまい」
空き地の神の声も。
「……はやく、おいて」
新しい声も、苦しそうに加わった。
こよいは、立ち上がろうとした。 足が震えている。全身が震えている。 なんとか立ち上がった。でも、一歩踏み出すのがやっとだった。
道を歩いた。 いや、歩くというより、引きずるように進んだ。 巾着の紐が、肩の肉に食い込んでいる。 頭がぼんやりする。視界が揺れる。 足元の落ち葉を踏むたびに、膝が折れそうになる。手で幹をつかんでは体を支え、また数歩を進める。それの繰り返しだった。
渓谷が見えてきた。 道が開けて、崖の縁に出た。 遠くで、水の音がする。 風が強くなっていた。崖の向こうから湿った空気が吹き上げ、頬と手の甲を冷やす。
こよいは、その場に座り込んだ。もう、一歩も動けない。
巾着を見下ろした。 三柱の神が、その中にいる。 祠の神。空き地の神。そして、道標の神。 みんな、苦しそうだった。
「……ごめん」
こよいは、呟いた。
「……ぼくが、欲張ったから」
「……ちがう」
祠の神の声が、途切れ途切れに聞こえた。
「……きみは、わるくない」
「……でも、はやく」
空き地の神の声。
「……このまま、だと」
新しい声が、小さく付け加えた。
「……みんな、こわれる」
こよいは、空を見上げた。 曇り空。重い雲。 どこにも、光は見えない。 崖の下から吹き上がる風が、濡れた髪を額に張り付かせる。
早く置かないと。 早く届けないと。 このままでは、全部壊れる。
巾着が、氷のように冷たい。 神々の声が、もう聞こえない。
こよいは、震える足で立ち上がった。 一歩。また一歩。 体が悲鳴を上げている。でも、止まれない。
置き場所は、もうすぐのはずだ。 そこに届けば、少しは楽になる。 そこに届けば、神を一柱、置いていける。でも、本当に間に合うのか。 本当に、このまま歩き続けられるのか。
巾着の中から、かすかな声が聞こえた気がした。
「……はやく」
それは、祈りのようだった。
