停車場で列車を待つあいだ、あさひは一度も座らなかった。
線路の先を見たまま、剣の柄に親指をかける。 抜かない。 けれど、いつでも抜ける角度に手を置いている。 その姿勢だけで周囲の空気が張りつめ、停車場の薄い壁板が微かに軋む。木の繊維が湿気を吸い、膨張する音なのか、あさひの気配が壁まで押しているのか。こよいには区別がつかなかった。
こよいはその横顔を見ていた。 いつもなら迷いなく前を向く目が、今日は細く揺れている。瞳の奥で何かを量っているような、答えの出ない問いを繰り返しているような。風が吹くたび、あさひの前髪が頬にかかり、そのたびに視線の揺れが隠された。 停車場には霧が低く這っている。線路の継ぎ目から冷えた鉄の匂いが立ち昇り、木製のベンチには朝露とも夜露ともつかない水滴が粒になって光っていた。遠くで何かが軋む音がする。列車なのか、この区画そのものの音なのか、判別がつかない。
「腕、まだ痛む?」
こよいが訊くと、あさひは短く笑った。
「痛みは平気。問題は、斬る理由のほうだ」
久遠が目録から顔を上げる。 右目の瞳は、いつもより深い色をしていた。頁を押さえていた指が止まり、開いたままの目録の上で小さく拳を作る。
「理由?」
あさひは線路を見たまま続けた。顎の角度が少しだけ下がる。柄にかけた親指の腹が白くなるほど力が入っている。
「ここ数区画、敵と味方の境目が薄い。斬れば道が開く相手もいれば、斬った瞬間に取り返しがつかなくなる相手もいる」
こよいは巾着を抱え直した。 神々は一定の拍を刻んでいる。風の神だけが僅かに渦を巻き、残りの三柱は沈黙していた。布越しに伝わるその温度が、今はかえって手のひらを冷たく感じさせた。斬るか、斬らないか。その判断を引き受けているのは、いつもあさひだけだった。
「迷うのは、悪いことじゃないと思う」
「戦う側にとっては、致命傷になることもある」
あさひの返事は平坦だった。 それが、かえって重い。声の裏にある疲労を、こよいは聞き取った。あさひは怒っているのでも嘆いているのでもない。ただ、自分の手がこれから何を為すのか、その輪郭がぼやけることに耐えている。
風が変わった。 霧の密度が増し、線路の先が白く呑まれる。湿った冷気が三人の首筋を撫で、こよいは思わず肩をすくめた。壁板の隙間から霧が糸のように入り込み、足元の石畳を白く染めていく。 白の向こうから、人影が一つにじむ。 顔のない輪郭。 衣の皺だけが異様に精密だ。袖の折り返し、帯の結び目、裾の擦れ——生きていた痕跡だけが残り、本体が抜け落ちたような存在だった。
「観測者の残滓だ。接触するな」
久遠が即座に警告した。目録を胸の前に構え、半歩下がる。その声が硬い。義眼の蒼光を絞る間さえ惜しんで、視線だけで影を追っている。
影は三人の前で止まり、首を傾げるように揺れた。 おたまは逃げなかった。毛も逆立てず、ただ静かに影を見上げている。 影は、あさひの剣を見た。 正確には、剣の刃ではなく柄を。斬ってほしいのか、握らないでほしいのか、その視線の意味をこよいは読み取れなかった。影の足元は地面に接しておらず、石畳との間に薄い隙間がある。浮いているのではない。沈みきれないのだ。
「……斬ってくれ」
声がした。 男とも女ともつかない、薄い声。空気の振動というより、霧そのものが言葉の形に凝ったような声だった。声が通り過ぎたあとに、微かな湿り気が耳の縁に残る。
あさひの肩が強張る。 柄にかけた親指が動かない。迷いではなく、判断の最中だ。唇が薄く開いて閉じ、喉の奥で言葉を飲み込んだのがこよいには見えた。
「誰だ」
「消え残った記録だ。立ったまま、終われない」
影はそう言って、もう一歩近づいた。足音はない。地面との接点が曖昧で、石畳に影の影が重ならない。近づくほどに輪郭の衣の皺が鮮明になり、袖口の縫い目まで見えた。生前の仕立ての良さが、今はかえって痛々しい。 こよいは反射的に前へ出る。胸の奥が熱くなった。斬られたいと願う声を、斬る前に聞かなければならない。それが、ぼくにできることだ。
「待って。神々に触れさせて」
影は立ち止まった。 こよいが巾着を開くと、温度が空間へ広がる。淡い光が霧を押しのけ、影の足元まで届いた。光の縁が霧の粒子を照らし、小さな虹が一瞬だけ宙に浮かぶ。 影の輪郭が少し柔らかくなり、顔の位置に淡い線が現れた。目も鼻もない。けれどそこに、かつて表情があった名残がある。口元にあたる部分が僅かに緩み、安堵とも諦観ともつかない形を作った。
短い沈黙のあと、影が囁く。
「……わたしは、斬られたいんじゃない。名前を返してほしいだけだ」
久遠が目録を閉じ、頷く。眉間に深い皺が寄っていた。
「座標が崩れて、自己参照を失っている。あさひ、斬るな。こよい、名を仮置きする」
こよいは頷き、低く告げた。
「あなたは、ここを通った旅人。今はそれでいい」
影の輪郭が安定し、深く礼をして霧へ溶けた。消える瞬間、衣の皺が一瞬だけ伸び、まるで背筋を正したように見えた。霧の中へ戻っていく影の残像が、行灯の光にほどけて薄れる。
あさひは長く息を吐いた。柄から指を離し、掌を開いて閉じる。握りの跡が白く残っていた。
「……助かった。今のを斬ってたら、たぶん引きずってた」
こよいは小さく笑う。笑いながら、自分の手が微かに震えていることに気づいた。怖かったのではない。間に合ったことへの安堵が、遅れて体に届いたのだ。
「迷いは、刃を鈍らせるだけじゃない。刃を間違えないための時間にもなるよ」
遠くで車輪音が立つ。 列車が来る。鉄と蒸気の匂いが霧を押し分け、停車場の灯が一段明るくなった。
あさひは剣の柄から手を離し、改めて握り直した。 さっきより深く、確かな握りだ。指の関節が一つずつ噛み合うように、柄の革紐に沿って落ち着いた。
「次は迷っても進む。止まらないやり方を選ぶ」
霧列車の扉が開く。 蒸気が足元を白く巻き、車内から薄い灯が漏れた。 三人は同時に乗り込んだ。
迷いを残したまま、前へ行く。
列車が動き出したあと、あさひは珍しく自分から話し始めた。窓の外を見ながら、声だけをこよいのほうへ向ける。
「昔は、迷ったら先に振ってた。考えると遅れるから」
こよいは静かに聞く。列車の振動が座席の木枠を通じて背骨に伝わる。あさひの声はその振動の隙間に落ちるように、低く、ゆっくりだった。
「でも、今日みたいに斬らずに済む相手がいるって分かると、同じ振り方はできない」
久遠が窓の曇りを指で払った。指の跡から外の白い景色が覗き、すぐにまた曇る。
「戦い方が変わる時は、勝率が一時的に落ちる。だが長期では上がる」
あさひが肩をすくめる。
「数字で慰めるなよ」
「慰めじゃない。事実だ」
こよいは笑った。 車内の空気が少し和らぐ。窓の外では霧が流れ、列車の速度に合わせて白い線を引いていた。
迷いは消えない。 けれど共有できるなら、重さは分散できる。 こよいは巾着をそっと膝の上に置いた。神々の脈は穏やかだった。影に名を仮置きした余韻が、まだ掌の中心に温かく残っている。 還す者の手——その条件の意味が、今日ほど近くに感じられたことはなかった。
