社を抜けた先の路地で、こよいは立ち止まった。
路地は狭い。三人が横に並べば肩が壁に触れるほどだ。足元の石畳は濡れていた。雨の痕ではない。壁から滲み出した水が、目地を伝って薄い膜を作っている。
壁に、見慣れた筆跡があった。 墨が乾き切る前の艶まで、記憶と一致している。
しおりの字だった。
『急がないで。まっすぐ来て』
短い一文。 それだけで、胸の奥が強く引かれる。
こよいは壁の前で立ち尽くした。字を見た瞬間、しおりの横顔が浮かんだ。筆を持つとき、右手の小指が少し浮く癖。この字はその癖をそのまま写し取っている。
あさひが先に動いた。 壁へ手を伸ばし、指先で墨を擦る。
「新しい。けど……匂いがない」
墨の粒子が指の腹に乗った。あさひはそれを鼻に近づけ、眉を寄せた。本物の墨なら、松煙か油煙の微かな匂いがあるはずだ。だがこの墨は無臭だった。形だけを複製した文字。あさひは指先の墨を親指で擦り合わせ、粒の大きさを確かめた。均一すぎる。手で摺った墨には必ずばらつきがある。
久遠も確認し、首を振った。
「筆跡は本物に近い。だが、書いた『瞬間』が欠けてる。記録だけを移植した痕だ」
こよいは壁を見つめたまま問う。
「しおりがここを通った可能性は?」
「ゼロじゃない。けど、これ単体では証拠にならない」
久遠の声は冷たくはなかった。事実を述べているだけだ。だがその事実が、こよいの胸に小さな棘として刺さる。信じたい。でも、信じることと確かめることは違う。こよいは唇を噛んだ。だからこそ、冷静でいなければならなかった。
路地の先へ進むと、同じ字がまた現れた。 今度は長い。
『灯の少ない道を選んで。右は嘘が濃い』
矢印まで付いている。 丁寧すぎる。
こよいは矢印の先を見た。左の路地は暗い。壁に灯りはなく、石畳の継ぎ目すら見えない。右の路地は行灯が三つほど並び、橙の光が壁を暖かく照らしている。だからこそ、この案内は右を避けろと言っている。
あさひが苦い顔をした。
「親切すぎる案内は、だいたい罠だ」
こよいは頷いたが、足は止まらない。 字を見るたび、しおりの呼吸の癖まで思い出す。句読点の打ち方。行の折り返し位置。しおりは文章を書くとき、必ず一行を短く区切る癖があった。長い文を嫌うのではなく、読む相手の呼吸に合わせている。この壁の文字にも、その間合いがあった。
久遠が目録を開き、壁ごとの層を照らした。 蒼光の下で、墨の下に別の文が浮かぶ。
『ここで振り向くな』
文字が蒼い光に照らされた瞬間、壁の表面が透けた。石の下に、古い漆喰の層がある。その漆喰の上にも文字が書かれていた。さらにその下にも。壁は何層もの文字で構成されていた。
さらに下層には、掠れた線。 誰かが書き換えた跡だ。
「上書きが三層。最初の一文だけ、筆圧が違う」
久遠は壁から離れ、路地全体を見渡す。蒼光を広げると、左右の壁のそこかしこに文字の痕跡が浮かんだ。数十、いや百を超える文字群が、幾重にも塗り重ねられている。
「最初の一文は、しおりの可能性がある。残りは誘導だ」
風が吹いた。 壁の墨がわずかに滲み、文字の端がほどける。
路地を抜ける風は冷たく、湿っていた。こよいの頬を撫で、首筋を通り、背中へ抜けていく。風に乗って微かな音が聞こえた。筆が紙に触れる音に似ている。書いている者がいるのか。それとも、書かれた文字が音を発しているのか。
こよいは巾着に触れた。 神々の脈は一定。四柱とも揃って静かに脈を刻んでいる。 嘘に反応していない。
壁の文字は嘘ではない。だが真実でもない。嘘と真実のあいだにある、もっと曖昧なものだ。
「最初の一文だけ信じる。急がないで、まっすぐ」
こよいが言うと、あさひが剣の柄を軽く叩いた。
「了解。右は切らない。真ん中を押し通る」
久遠が目録を閉じる。
「文字は道具だ。道そのものじゃない。道は足で決める」
三人は路地の中央を進んだ。 左右の壁で、しおりの筆跡が増えたり消えたりする。 呼ばれているようで、試されているようでもある。
歩を進めるたび、石畳の湿り気が靴底から染み上がった。壁の高い場所にも文字がある。こよいは足元を確かめながら、背筋を伸ばして歩いた。
こよいは視界の端で文字を追いながら、正面だけを見た。目を向ければ読んでしまう。読めば立ち止まる。立ち止まれば、この路地は三人を離さない。そういう仕組みだと、体が分かっていた。
こよいは一度も振り向かなかった。 振り向けば、あの字に引き戻されると分かっていた。 先を行くおたまも、一度も壁を見なかった。文字が増えても減っても、猫の歩調は変わらない。それが、こよいの支えになった。
路地の出口に出たとき、最後の壁だけに、短い字が残っていた。
『来てくれて、ありがとう』
こよいは読んだだけで、手を触れなかった。 それが本物でも偽物でも、今は前へ進む。
しおりの筆跡は、道標ではなく誓いとして胸にしまった。道標は疑える。でも誓いは自分のものだ。誰にも書き換えられない。 しおりが残したかった言葉の中に、第三の条件への手がかりがあったのかもしれない。原初の術式を完成させる鍵は、まだどこかにある。
路地を抜けた先に、小さな水場があった。石を刳り抜いた盥のような形で、底から水が湧いている。水は透明で、匂いはなかった。路地の中の湿った空気とは違い、水場の周囲だけ空気が清んでいた。 こよいは、あさひが確かめた壁の墨に自分でも触れてみてから、水場で指先を洗った。
冷たい水が指の間を通り抜け、黒い粒子が渦を巻いて流れていった。墨が溶けていくのを見ながら、こよいは自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。怖かったのだ。しおりの字が本物であることも、偽物であることも、どちらも同じくらい怖かった。 震えた字を、こよいは以前にも見たことがあった。峠の茶屋で見つけた手紙。『山を越えて姉の元へ行きます』と書かれた、最後の行で途切れた文字。あの字も、こうして震えていた。 水面に映る顔を見ながら、胸に静かな問いが生まれた。あの茶屋の遺影の老女。深い瞳が、しおりの目と重なる。 こよいは問いを声にしなかった。巾着を握り、水を最後まで流した。
水面に映る顔は少し疲れていたが、目は澄んでいた。
あさひが壁にもたれて言う。
「本物の筆跡って、結局何で分かるんだろうな」
こよいは指を拭きながら答えた。
「文字の形じゃなくて、迷い方かな。しおりの字は、急いでてもどこか躊躇いがある」
スムーズすぎる字は、逆に怪しい。こよいは自分の手を見た。まだ少し震えている。震えそのものが、書いた者の証になる。
久遠が義眼の光を落とす。
「形は複製できる。躊躇いは履歴がないと複製できない。いい視点だ」
あさひが腕を組み、水場の縁に腰を下ろした。
「俺には字の違いなんか分からねえけどな。でも、あいつの字を見たときのおまえの顔は、嘘じゃなかった。それだけは分かる」
こよいは少し笑った。
こよいは壁から拭い取っておいた墨を指に移し、水場の端に小さく書き残した。 『字だけで決めるな』。
しおりに届くかは分からない。 それでも、次の誰かには届くかもしれない。
