第145話 壁の筆跡
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第145話 壁の筆跡

第5章 名の漂い

社を抜けた先の路地で、こよいは立ち止まった。

路地は狭い。三人が横に並べば肩が壁に触れるほどだ。足元の石畳(いしだたみ)は濡れていた。雨の痕(あと)ではない。壁から滲(にじ)み出した水が、目地を伝って薄い膜(まく)を作っている。

壁に、見慣れた筆跡(ひっせき)があった。  墨(すみ)が乾き切る前の艶(つや)まで、記憶と一致している。

しおりの字だった。

『急がないで。まっすぐ来て』

短い一文。  それだけで、胸の奥が強く引かれる。

こよいは壁の前で立ち尽くした。字を見た瞬間、しおりの横顔が浮かんだ。筆を持つとき、右手の小指が少し浮く癖。この字はその癖をそのまま写し取っている。

あさひが先に動いた。  壁へ手を伸ばし、指先で墨(すみ)を擦(こす)る。

「新しい。けど……匂いがない」

墨(すみ)の粒子が指の腹に乗った。あさひはそれを鼻に近づけ、眉を寄せた。本物の墨(すみ)なら、松煙(しょうえん)か油煙(ゆえん)の微かな匂いがあるはずだ。だがこの墨(すみ)は無臭だった。形だけを複製(ふくせい)した文字。あさひは指先の墨(すみ)を親指で擦り合わせ、粒の大きさを確かめた。均一すぎる。手で摺(す)った墨(すみ)には必ずばらつきがある。

久遠(くおん)も確認し、首を振った。

「筆跡(ひっせき)は本物に近い。だが、書いた『瞬間』が欠けてる。記録だけを移植(いしょく)した痕(あと)だ」

こよいは壁を見つめたまま問う。

「しおりがここを通った可能性は?」

「ゼロじゃない。けど、これ単体では証拠にならない」

久遠(くおん)の声は冷たくはなかった。事実を述べているだけだ。だがその事実が、こよいの胸に小さな棘(とげ)として刺さる。信じたい。でも、信じることと確かめることは違う。こよいは唇を噛(か)んだ。だからこそ、冷静でいなければならなかった。

路地の先へ進むと、同じ字がまた現れた。  今度は長い。

『灯の少ない道を選んで。右は嘘(うそ)が濃い』

矢印まで付いている。  丁寧すぎる。

こよいは矢印の先を見た。左の路地は暗い。壁に灯りはなく、石畳(いしだたみ)の継ぎ目すら見えない。右の路地は行灯(あんどん)が三つほど並び、橙(だいだい)の光が壁を暖かく照らしている。だからこそ、この案内は右を避けろと言っている。

あさひが苦い顔をした。

「親切すぎる案内は、だいたい罠(わな)だ」

こよいは頷(うなず)いたが、足は止まらない。  字を見るたび、しおりの呼吸の癖まで思い出す。句読点の打ち方。行の折り返し位置。しおりは文章を書くとき、必ず一行を短く区切る癖があった。長い文を嫌うのではなく、読む相手の呼吸に合わせている。この壁の文字にも、その間合いがあった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開き、壁ごとの層を照らした。  蒼光(そうこう)の下で、墨(すみ)の下に別の文が浮かぶ。

『ここで振り向くな』

文字が蒼い光に照らされた瞬間、壁の表面が透けた。石の下に、古い漆喰(しっくい)の層がある。その漆喰(しっくい)の上にも文字が書かれていた。さらにその下にも。壁は何層もの文字で構成されていた。

さらに下層には、掠(かす)れた線。  誰かが書き換えた跡(あと)だ。

「上書きが三層。最初の一文だけ、筆圧が違う」

久遠(くおん)は壁から離れ、路地全体を見渡す。蒼光(そうこう)を広げると、左右の壁のそこかしこに文字の痕跡(こんせき)が浮かんだ。数十、いや百を超える文字群が、幾重にも塗り重ねられている。

「最初の一文は、しおりの可能性がある。残りは誘導(ゆうどう)だ」

風が吹いた。  壁の墨(すみ)がわずかに滲(にじ)み、文字の端がほどける。

路地を抜ける風は冷たく、湿っていた。こよいの頬(ほお)を撫(な)で、首筋を通り、背中へ抜けていく。風に乗って微かな音が聞こえた。筆が紙に触れる音に似ている。書いている者がいるのか。それとも、書かれた文字が音を発しているのか。

こよいは巾着(きんちゃく)に触れた。  神々の脈は一定。四柱(よはしら)とも揃って静かに脈を刻んでいる。  嘘(うそ)に反応していない。

壁の文字は嘘ではない。だが真実でもない。嘘と真実のあいだにある、もっと曖昧(あいまい)なものだ。

「最初の一文だけ信じる。急がないで、まっすぐ」

こよいが言うと、あさひが剣の柄(つか)を軽く叩(たた)いた。

「了解。右は切らない。真ん中を押し通る」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じる。

「文字は道具だ。道そのものじゃない。道は足で決める」

三人は路地の中央を進んだ。  左右の壁で、しおりの筆跡(ひっせき)が増えたり消えたりする。  呼ばれているようで、試されているようでもある。

歩を進めるたび、石畳(いしだたみ)の湿り気が靴底から染み上がった。壁の高い場所にも文字がある。こよいは足元を確かめながら、背筋を伸ばして歩いた。

こよいは視界の端で文字を追いながら、正面だけを見た。目を向ければ読んでしまう。読めば立ち止まる。立ち止まれば、この路地は三人を離さない。そういう仕組みだと、体が分かっていた。

こよいは一度も振り向かなかった。  振り向けば、あの字に引き戻されると分かっていた。  先を行くおたまも、一度も壁を見なかった。文字が増えても減っても、猫の歩調は変わらない。それが、こよいの支えになった。

路地の出口に出たとき、最後の壁だけに、短い字が残っていた。

『来てくれて、ありがとう』

こよいは読んだだけで、手を触れなかった。  それが本物でも偽物でも、今は前へ進む。

しおりの筆跡(ひっせき)は、道標(みちしるべ)ではなく誓いとして胸にしまった。道標(みちしるべ)は疑える。でも誓いは自分のものだ。誰にも書き換えられない。  しおりが残したかった言葉の中に、第三の条件への手がかりがあったのかもしれない。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)を完成させる鍵は、まだどこかにある。

路地を抜けた先に、小さな水場があった。石を刳(く)り抜いた盥(たらい)のような形で、底から水が湧いている。水は透明で、匂いはなかった。路地の中の湿った空気とは違い、水場の周囲だけ空気が清んでいた。  こよいは、あさひが確かめた壁の墨(すみ)に自分でも触れてみてから、水場で指先を洗った。

冷たい水が指の間を通り抜け、黒い粒子が渦(うず)を巻いて流れていった。墨(すみ)が溶けていくのを見ながら、こよいは自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。怖かったのだ。しおりの字が本物であることも、偽物であることも、どちらも同じくらい怖かった。  震えた字を、こよいは以前にも見たことがあった。峠の茶屋で見つけた手紙。『山を越えて姉の元へ行きます』と書かれた、最後の行で途切れた文字。あの字も、こうして震えていた。  水面に映る顔を見ながら、胸に静かな問いが生まれた。あの茶屋の遺影(いえい)の老女。深い瞳(ひとみ)が、しおりの目と重なる。  こよいは問いを声にしなかった。巾着(きんちゃく)を握り、水を最後まで流した。

水面に映る顔は少し疲れていたが、目は澄んでいた。

あさひが壁にもたれて言う。

「本物の筆跡(ひっせき)って、結局何で分かるんだろうな」

こよいは指を拭(ふ)きながら答えた。

「文字の形じゃなくて、迷い方かな。しおりの字は、急いでてもどこか躊躇(ためら)いがある」

スムーズすぎる字は、逆に怪しい。こよいは自分の手を見た。まだ少し震えている。震えそのものが、書いた者の証になる。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の光を落とす。

「形は複製(ふくせい)できる。躊躇(ためら)いは履歴(りれき)がないと複製(ふくせい)できない。いい視点だ」

あさひが腕を組み、水場の縁に腰を下ろした。

「俺には字の違いなんか分からねえけどな。でも、あいつの字を見たときのおまえの顔は、嘘(うそ)じゃなかった。それだけは分かる」

こよいは少し笑った。

こよいは壁から拭(ぬぐ)い取っておいた墨(すみ)を指に移し、水場の端に小さく書き残した。  『字だけで決めるな』。

しおりに届くかは分からない。  それでも、次の誰かには届くかもしれない。

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