第144話 影が先行く町
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第144話 影が先行く町

第5章 名の漂い

石座(いしざ)からの帰り道、来たときには途切れていたはずの線路が霧の奥へ細く伸びていて、霧列車(きりれっしゃ)が音もなく三人を待っていた。

次の町では、影が先に歩いていた。

列車を降りた瞬間に分かった。足を踏み出す前に、石畳(いしだたみ)の上に自分の影が現れていた。まだ体は車内にある。なのに影だけが先にホームに立っている。

人の輪郭(りんかく)は後からついてくる。  石畳(いしだたみ)に映る影だけが半歩先に進み、曲がり角の手前で一拍止まる。

町に入った瞬間から、光の質が違った。空に光源はない。石畳(いしだたみ)そのものが淡く発光し、影を上から落とすのではなく、足元から押し上げるように作っていた。だから影の方向が逆だ。影が先を行き、体が追いかける。発光する石畳(いしだたみ)は白ではなく、薄い青灰色(せいかいしょく)をしていた。踏むたびに光が少し強くなり、足を離すと元に戻る。まるで石そのものが呼吸をしているようだった。

「定義(ていぎ)が反転(はんてん)してる」

久遠(くおん)が呟(つぶや)く。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が薄く揺れた。

「本体より影を先に決める理(ことわり)だ。ここで遅れると、自分の影に置いていかれる」

こよいは足元を見た。  たしかに自分の影が、体より先に靴先を出している。影の足は自分の足より少し細く、少し長い。こよいの体型とは微妙にずれた輪郭(りんかく)が、石畳(いしだたみ)の上を半歩先に滑っていく。  おたまだけは、違った。  猫の影は先行していない。四つの足の真下に、本体とぴったり重なったまま付いてくる。この町の理(ことわり)が、猫にだけ効いていないのか。それとも、影に先を譲る必要が最初からないのか。久遠(くおん)が一度だけ、猫と影とを見比べた。

あさひは試すように立ち止まった。  体は止まったまま、影だけが一歩進む。  次の瞬間、あさひの肩が強く引かれた。

「っ……本当に引っ張られる」

久遠(くおん)が冷静に言った。

「だから間を空けるな」

あさひが引かれた方向を睨(にら)む。影との距離は一歩分だったが、その一歩が生む引力(いんりょく)は予想以上だった。足裏が石畳(いしだたみ)から浮きかけるほどの力。あさひは剣の重さで体を安定させ、踏みとどまった。

三人は距離を詰め、同じ歩幅で進むことにした。  影同士が重なると、引きは弱まる。

三人分の影が石畳(いしだたみ)の上で一つに溶けるとき、引力(いんりょく)は三分の一まで落ちた。単独でいれば引きずられる。だが重なれば耐えられる。こよいはあさひと久遠(くおん)の歩幅に呼吸を合わせ、三人の影が離れないよう神経を張った。肩が触れ合う距離だ。あさひが背負う剣の柄(つか)がこよいの肩をかすめ、久遠(くおん)の目録(もくろく)の角が肘(ひじ)に触れた。窮屈(きゅうくつ)だったが、離れるよりましだった。

通りの壁には黒い札が貼られていた。  どれも同じ文言だ。

影を名乗るな

こよいは読み上げず、目だけで追った。  口にすると、その言葉が定義(ていぎ)になる気がした。この町では言葉が現実を規定する。声に出した瞬間、その言葉通りの法則が体に刻まれる。そういう場所だと、肌が告げていた。

通りの空気は乾いている。湿度がほとんどない。唇がすぐに渇き、喉(のど)の奥がかすかに痛んだ。建物の壁は灰色の石で統一され、窓はあるが硝子(ガラス)がない。黒い四角い穴が、通りの両側にずらりと並んでいた。どの窓の奥も暗く、何かが見ているのか何も見ていないのか判別がつかない。

交差点で、向こうから旅人の影だけが来た。  本体は見えない。  影は三人の前で止まり、頭を下げるように揺れて、霧(きり)へ溶けた。

溶ける瞬間、影の足元に文字が浮かんだ。読めたのは一語だけ。名前だった。もう本体のいない影が、それでも名前だけは保っていた。こよいの胸が軋(きし)む。あさひが横から肘(ひじ)で軽くこよいを突いた。考えるな、と言わんばかりの短い接触だった。

あさひが低く言う。

「歓迎か、警告か」

「両方だろう」

久遠(くおん)は角を曲がりながら、目録(もくろく)に新しい記号を書き込んだ。蒼い光で照らされた頁(ページ)の上に、見たことのない記号が並ぶ。影の動き方、引力(いんりょく)の強さ、消滅パターン。すべてを記録している。

「この町では、影は役職(やくしょく)だ。本体は後から割り当てられる」

「人じゃなくても、先に役職(やくしょく)があるってこと?」

こよいの問いに、久遠(くおん)は頷(うなず)く。

「そうだ。だから『誰がやるか』より『何をやるか』が先に固定(こてい)される。観測者(かんそくしゃ)の好む構造だ」

こよいの背筋に冷たいものが走った。名前より先に役割が決まる世界。選んだつもりが、最初から選ばれていた。その問いは飲み込むしかなかった。足が止まれば、影に追い抜かれる。

通りの先に、小さな社(やしろ)が見えた。  屋根の影だけが濃く、柱の色は薄い。  影の再定義の中心点だと直感できる。

社の屋根は瓦(かわら)ではなく、磨かれた黒い石で覆われていた。その石の表面に三人の姿が映り込み、映像のほうが本体より半拍早く動いている。鳥居(とりい)はない。代わりに、入口の両脇に細い石柱が立ち、柱の表面に刻まれた文字がゆっくりと回転していた。

こよいは巾着(きんちゃく)を押さえた。  雨の神は静かだ。雨の神も、風の神も、月の神も、硝子(びいどろ)の神も、息を潜めて動かない。  静かすぎて、逆に心細い。

この町に入ってから、神々の脈が鈍い。巾着(きんちゃく)越しの温度がいつもより低く、核片(かくへん)の拍もまた沈黙していた。二つの力がともに息を潜めている。

社の前で、三人の影がぴたりと重なった。  その瞬間だけ、引力(いんりょく)が消える。

体が軽くなった。肩から荷を下ろしたときのような開放感が、一瞬だけ全身を巡る。

久遠(くおん)が短く指示した。

「今だ。本体側から名前を入れ直す。こよい、先に声を」

こよいは息を整え、はっきりと言った。

「ぼくは、こよい。ここにいる」

声が石畳(いしだたみ)を伝い、社の黒い屋根に反射して戻ってきた。自分の声が自分の耳に届くまでの短い間に、影が動いた。遅れて、同じ形を取る。石畳(いしだたみ)に深く定着する。足元の影がこよいの輪郭(りんかく)をなぞり直し、ようやく体と影が同じ位置に収まった。影が自分のものに戻る感覚は、冷えた手を温い水に浸したときに似ていた。じわりと、体の端まで自分が行き渡る。

あさひ、久遠(くおん)も順に名を告げた。

あさひの声は低く太く、石畳(いしだたみ)を叩(たた)くように響いた。久遠(くおん)の声は静かだが、空気の層を一枚ずつ通り抜けるような透明さがあった。三人の声が重なった場所に、空気の結び目ができたような気がした。

社の屋根の影が、ようやく柱に追いつく。  町全体のずれが、わずかに戻った。

ここはまだ不安定だ。通りの奥では、建物の影が未だに本体より先に揺れている。町全体を正すには、三人の声だけでは足りない。  それでも三人の輪郭(りんかく)だけは、取り戻せた。

社を離れる直前、こよいは石畳(いしだたみ)に足跡が二重で残っているのを見つけた。

影が先に残した跡(あと)と、本体が後から踏んだ跡(あと)。  二本のずれた線が、しばらく並走している。

「完全には戻ってないね」

こよいの言葉に、久遠(くおん)はしゃがみ込んで目地を指した。

「戻す必要はない。ずれを把握(はあく)できていれば事故は減る」

目地の中に、蒼い光が細く流れた。久遠(くおん)の指先が石畳(いしだたみ)に触れ、ずれの幅を測っている。その所作は丁寧で、壊れものを扱うときの手つきだった。

あさひが笑う。

「全部まっすぐにするより、曲がってるって知ってるほうが強いってことか」

こよいは自分の足跡を見た。  まだ二重だ。  けれど最初より幅は狭い。

影の跡(あと)と本体の跡(あと)が、少しずつ寄り合っている。ずれは傷ではない。ずれは情報だ。

原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の欠けた条件もまた、ずれの中にこそ隠れているのかもしれない。

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