霧列車は一区画だけ走り、白い野の真ん中で停まった。線路はそこで途切れていた。 降り立ち、行灯の点滅を抜けた先で、空気が急に重くなった。
重くなった、という表現では足りない。吸い込んだ空気そのものが重い。肺に鉛を流し込まれるような感覚に、こよいは思わず口を手で覆った。匂いがある。石と苔と、もっと古い何か――骨を煮詰めたような、甘く重い匂いが地面から立ち上っていた。
停車場でも町でもない。 白い地面の中央に、古い石座がひとつ据えられている。 周囲には割れた面の像が並び、どれも目だけが削られていた。
削られた跡は滑らかだ。破壊ではなく、丁寧に抉り取られている。目を持つことを許されなかった像たちが、それでも何かを見ようとするかのように顔を上げていた。像は十二体。円を描くように並び、どれも石座を向いている。
「古い神の寝床だ」
久遠の声が低い。いつもの分析的な口調ではなく、声量そのものを絞っていた。この場所で大きな声を出してはならないという判断が、言葉より先に体に出ている。
こよいは石座に近づいた。 表面には無数の引っかき傷。 人の爪ではつかない深さだ。
指先で傷の一本に触れた。冷たい。石の冷たさではない。温度を奪う冷たさだ。こよいは反射的に手を引いた。指先が白くなり、数秒経ってようやく、じわりと痛みが戻った。
あさひが剣の鞘で石を軽く叩く。 返ってきた音が二重だった。
「中が空洞だな」
あさひは鞘の位置を変え、石座の別の面を叩いた。音の質が変わる。何かが中に詰まっている。
その直後、石座の裂け目から淡い光が滲んだ。 白ではない。 古い琥珀色。
蜂蜜を陽に透かしたときの色に似ている。だがもっと濁りがあり、光の中に微細な粒が漂っていた。時間そのものが結晶化して溶け出しているような、そんな色だった。こよいの靴先に触れた光は、微かに温かかった。
地鳴りが一つ。 像の影が同じ方向へ倒れ、空気の層がずれる。
こよいの足裏に振動が伝わった。地鳴りは一度きりだったが、その余韻が石畳の下を長く走り、像の台座を一つずつ揺らして遠ざかっていった。空気が白く曇り、匂いがいっそう濃くなった。
こよいは無意識に巾着を抱いた。 神々が熱い。 雨の神の拍と、別の拍が重なる。
二つの拍は同期していない。速い拍と遅い拍が不規則に重なるたび、巾着の中で温度が跳ね上がる。こよいは布越しに感じるその熱を、歯を噛みしめてやり過ごした。
石座が開いた。 中から現れたのは、巨大な体ではなく、掌に収まるほどの核片だった。 表面に古い紋が浮かび、脈のように光る。
紋の線は途切れ途切れだ。かつては完全な円を描いていたのかもしれないが、今は欠けた弧がいくつも重なり、壊れた時計の文字盤のように見えた。
「……目を覚ましたのは本体じゃない。欠けた意識だ」
久遠が言う。目録は閉じたまま、核片から目を離さない。記録よりも観察を優先している。それだけで、この状況の危うさが分かった。
核片は宙に浮き、こよいたちの周囲をゆっくり巡った。 敵意は感じない。 だが、触れれば戻れない種類の力だと分かる。
核片が近づくたび、空気の質感が変わった。こよいの右頬の産毛が逆立ち、左の耳の奥で低い音が鳴る。
あさひが一歩前に出る。
「斬るか?」
「斬れば拡散する。収まらない」
久遠は目録を胸元へ引き寄せ、代わりにこよいを見る。義眼の蒼光がいつもより細く絞られ、瞳の奥に何かを計算する動きがあった。
「神々の力で包めるか」
こよいは頷いた。 巾着を開き、掌を差し出す。 神々の温度が空気へ広がり、小さな輪を作る。
輪は目に見えない。だが掌の上の空気が震え、こよい自身の呼吸と同じ速さで膨張と収縮を繰り返しているのが分かった。集中のあまり呼吸が止まりかけた。あさひが背後から肩に手を置き、息を吐けと小さく促す。
核片がその輪に触れ、激しく明滅した。 石像の割れ目が一斉に軋み、古い声が四方から押し寄せる。
聞き取れる言葉はない。 ただ、祈りに似た方向だけがあった。
声の圧がこよいの胸を押す。後ずさりしそうになる足を、こよいは石畳に踏みしめた。膝が震えた。それでも掌だけは動かさなかった。神々の力の輪が揺れれば、すべてが崩れる。だから手だけは、絶対に。
こよいは一歩も退かなかった。 神々の力の輪を保ち続ける。あさひが半歩だけ前に出て、こよいの横に立った。斬るためではない。壁になるためだ。久遠は目録を盾のように掲げ、蒼光で古い声の方向を遮った。三人がそれぞれの方法で、同じ瞬間を支えている。
やがて明滅が落ち着き、核片は掌の上に降りた。 熱も冷たさもない、奇妙な重みだけが残る。掌に乗せた小石ほどの感触なのに、腕全体がずしりと沈む。重さではなく、存在の密度だった。
久遠が短く息を吐く。
「これで暴走は一旦止まる。だが、起きた事実は消えない」
あさひが周囲を警戒したまま言った。剣の柄に手をかけ、石像の一つひとつに視線を走らせている。目のない像が動く気配はない。
「なら急ぐぞ。寝返りを打った神は、また目を開ける」
こよいは核片を布で包み、巾着へ戻した。神々と核片が巾着の中で並び、二つの拍が重なった瞬間だけ、布の表面が淡く光った。
石像の影が元の位置へ戻る。像たちが元の姿勢に収まると、空間に張り詰めていた圧が一段下がった。 おたまが石座に近づき、空になった裂け目を一度だけ嗅いで、離れた。 重かった空気が、少しだけほどけた。こよいは深く息を吸った。肺の底まで空気が届く感覚が、ようやく戻った。
古い神は眠りに戻ったわけではない。 こちらを覚えたのだと、こよいは理解した。見えない視線が背中に触れている。目を削られた像たちの、あの空洞の奥から。
移動の前に、こよいは石座の縁へ布切れを結んだ。
白い布に、墨で短く書く。 『眠りは浅い』。
筆は持っていない。久遠の書き戻し用の墨壺を借り、指先に墨を含ませて布の上を滑らせた。五文字。それだけで十分だ。余計なことを書けば、文字が場所に呑まれる。短く、正確に。この旅で覚えた書き方だった。
あさひが言う。
「標識か」
「うん。次に来る人が、ここを安全地帯だと思わないように」
久遠は布の結び目を確認し、強く頷いた。
「いい。観測者は地図を独占する。俺たちは現場を共有する」
三人は石座に背を向け、歩き始めた。こよいは歩きながら巾着の重さを確かめた。神々と核片、二つの異なる力が布一枚を隔てて共存している。不思議と反発はない。ただ、巾着の温度が以前より揺れやすくなった気がした。
石像の間を抜ける時、琥珀色の光が一度だけ明滅した。 警告なのか、了承なのかは分からない。
こよいは振り返らなかった。けれど背中に残る視線の重さを、巾着の中の核片が小さく震えることで確かめた。白い布だけが、薄暗い石の間で揺れ続けていた。
術式の第三条件——還す者の手とは、こうして触れてはならないものに手を伸ばす覚悟のことだろうか。
