第143話 古い神の核片
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第143話 古い神の核片

第5章 名の漂い

霧列車きりれっしゃは一区画だけ走り、白い野の真ん中で停まった。線路はそこで途切れていた。  降り立ち、行灯あんどんの点滅を抜けた先で、空気が急に重くなった。

重くなった、という表現では足りない。吸い込んだ空気そのものが重い。肺に鉛を流し込まれるような感覚に、こよいは思わず口を手で覆った。匂いがある。石とこけと、もっと古い何か――骨を煮詰めたような、甘く重い匂いが地面から立ち上っていた。

停車場ていしゃじょうでも町でもない。  白い地面の中央に、古い石座いしざがひとつ据えられている。  周囲には割れた面の像が並び、どれも目だけが削られていた。

削られたあとは滑らかだ。破壊ではなく、丁寧にえぐり取られている。目を持つことを許されなかった像たちが、それでも何かを見ようとするかのように顔を上げていた。像は十二体。円を描くように並び、どれも石座いしざを向いている。

「古い神の寝床ねどこだ」

久遠くおんの声が低い。いつもの分析的な口調ではなく、声量そのものを絞っていた。この場所で大きな声を出してはならないという判断が、言葉より先に体に出ている。

こよいは石座いしざに近づいた。  表面には無数の引っかき傷。  人の爪ではつかない深さだ。

指先で傷の一本に触れた。冷たい。石の冷たさではない。温度を奪う冷たさだ。こよいは反射的に手を引いた。指先が白くなり、数秒経ってようやく、じわりと痛みが戻った。

あさひが剣のさやで石を軽くたたく。  返ってきた音が二重だった。

「中が空洞くうどうだな」

あさひはさやの位置を変え、石座いしざの別の面をたたいた。音の質が変わる。何かが中に詰まっている。

その直後、石座いしざの裂け目から淡い光がにじんだ。  白ではない。  古い琥珀色こはくいろ

蜂蜜はちみつを陽にかしたときの色に似ている。だがもっと濁りがあり、光の中に微細な粒が漂っていた。時間そのものが結晶化して溶け出しているような、そんな色だった。こよいの靴先に触れた光は、微かに温かかった。

地鳴りが一つ。  像の影が同じ方向へ倒れ、空気の層がずれる。

こよいの足裏に振動が伝わった。地鳴りは一度きりだったが、その余韻よいん石畳いしだたみの下を長く走り、像の台座を一つずつ揺らして遠ざかっていった。空気が白くくもり、匂いがいっそう濃くなった。

こよいは無意識に巾着きんちゃくを抱いた。  神々が熱い。  雨の神の拍と、別の拍が重なる。

二つの拍は同期していない。速い拍と遅い拍が不規則に重なるたび、巾着きんちゃくの中で温度が跳ね上がる。こよいは布越しに感じるその熱を、歯をみしめてやり過ごした。

石座いしざが開いた。  中から現れたのは、巨大な体ではなく、てのひらに収まるほどの核片かくへんだった。  表面に古いもんが浮かび、脈のように光る。

もんの線は途切れ途切れだ。かつては完全な円を描いていたのかもしれないが、今は欠けたがいくつも重なり、壊れた時計の文字盤のように見えた。

「……目を覚ましたのは本体じゃない。欠けた意識だ」

久遠くおんが言う。目録もくろくは閉じたまま、核片かくへんから目を離さない。記録よりも観察を優先している。それだけで、この状況の危うさが分かった。

核片かくへんは宙に浮き、こよいたちの周囲をゆっくり巡った。  敵意は感じない。  だが、触れれば戻れない種類の力だと分かる。

核片かくへんが近づくたび、空気の質感が変わった。こよいの右頬みぎほお産毛うぶげが逆立ち、左の耳の奥で低い音が鳴る。

あさひが一歩前に出る。

「斬るか?」

「斬れば拡散かくさんする。収まらない」

久遠くおん目録もくろくを胸元へ引き寄せ、代わりにこよいを見る。義眼ぎがん蒼光そうこうがいつもより細く絞られ、瞳の奥に何かを計算する動きがあった。

「神々の力で包めるか」

こよいはうなずいた。  巾着きんちゃくを開き、てのひらを差し出す。  神々の温度が空気へ広がり、小さな輪を作る。

輪は目に見えない。だがてのひらの上の空気が震え、こよい自身の呼吸と同じ速さで膨張と収縮を繰り返しているのが分かった。集中のあまり呼吸が止まりかけた。あさひが背後から肩に手を置き、息を吐けと小さく促す。

核片かくへんがその輪に触れ、激しく明滅めいめつした。  石像の割れ目が一斉にきしみ、古い声が四方から押し寄せる。

聞き取れる言葉はない。  ただ、祈りに似た方向だけがあった。

声の圧がこよいの胸を押す。後ずさりしそうになる足を、こよいは石畳いしだたみに踏みしめた。膝が震えた。それでもてのひらだけは動かさなかった。神々の力の輪が揺れれば、すべてが崩れる。だから手だけは、絶対に。

こよいは一歩も退かなかった。  神々の力の輪を保ち続ける。あさひが半歩だけ前に出て、こよいの横に立った。斬るためではない。壁になるためだ。久遠くおん目録もくろくを盾のように掲げ、蒼光そうこうで古い声の方向をさえぎった。三人がそれぞれの方法で、同じ瞬間を支えている。

やがて明滅めいめつが落ち着き、核片かくへんてのひらの上に降りた。  熱も冷たさもない、奇妙な重みだけが残る。てのひらに乗せた小石ほどの感触なのに、腕全体がずしりと沈む。重さではなく、存在の密度だった。

久遠くおんが短く息を吐く。

「これで暴走は一旦止まる。だが、起きた事実は消えない」

あさひが周囲を警戒したまま言った。剣のつかに手をかけ、石像の一つひとつに視線を走らせている。目のない像が動く気配はない。

「なら急ぐぞ。寝返ねがえりを打った神は、また目を開ける」

こよいは核片かくへんを布で包み、巾着きんちゃくへ戻した。神々と核片かくへん巾着きんちゃくの中で並び、二つの拍が重なった瞬間だけ、布の表面が淡く光った。

石像の影が元の位置へ戻る。像たちが元の姿勢に収まると、空間に張り詰めていた圧が一段下がった。  おたまが石座いしざに近づき、空になった裂け目を一度だけいで、離れた。  重かった空気が、少しだけほどけた。こよいは深く息を吸った。肺の底まで空気が届く感覚が、ようやく戻った。

古い神は眠りに戻ったわけではない。  こちらを覚えたのだと、こよいは理解した。見えない視線が背中に触れている。目を削られた像たちの、あの空洞くうどうの奥から。

移動の前に、こよいは石座いしざふちへ布切れを結んだ。

白い布に、すみで短く書く。  『眠りは浅い』。

筆は持っていない。久遠くおんの書き戻し用の墨壺すみつぼを借り、指先にすみを含ませて布の上を滑らせた。五文字。それだけで十分だ。余計なことを書けば、文字が場所にまれる。短く、正確に。この旅で覚えた書き方だった。

あさひが言う。

「標識か」

「うん。次に来る人が、ここを安全地帯だと思わないように」

久遠くおんは布の結び目を確認し、強くうなずいた。

「いい。観測者かんそくしゃは地図を独占する。俺たちは現場を共有する」

三人は石座いしざに背を向け、歩き始めた。こよいは歩きながら巾着きんちゃくの重さを確かめた。神々と核片かくへん、二つの異なる力が布一枚を隔てて共存している。不思議と反発はない。ただ、巾着きんちゃくの温度が以前より揺れやすくなった気がした。

石像の間を抜ける時、琥珀色こはくいろの光が一度だけ明滅めいめつした。  警告なのか、了承なのかは分からない。

こよいは振り返らなかった。けれど背中に残る視線の重さを、巾着きんちゃくの中の核片かくへんが小さく震えることで確かめた。白い布だけが、薄暗い石の間で揺れ続けていた。

術式じゅつしきの第三条件——還す者のとは、こうして触れてはならないものに手を伸ばす覚悟のことだろうか。

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