第142話 名前の洪水
142

第142話 名前の洪水

第5章 名の漂い

停車の衝撃(しょうげき)で、車内の油灯が細く鳴った。

硝子(ガラス)の管が軋(きし)み、橙(だいだい)の光が一拍だけ揺らぐ。天井の影が伸び、三人の足元で一瞬だけ交差した。こよいは座席の背もたれに手を突き、体勢を立て直す。列車が走っているあいだずっと底に敷かれていた振動がなくなり、耳の奥がきんと冷えた。

扉が開く。  白い停車場(ていしゃじょう)に、文字が降っていた。

紙片ではない。  文字そのものが、雨みたいに落ちてくる。  触れれば形を変え、足元へ積もる。

楷書(かいしょ)もあれば、崩し字もある。仮名の一文字が風に乗ってゆっくりと漂い、石畳(いしだたみ)の隙間に吸い込まれた。空気が湿っていた。紙と墨(すみ)を混ぜた匂いではなく、もっと古い――誰かの吐息を煮詰めたような、甘くて苦い湿り気だった。一文字が頬のすぐ横をかすめ、微かな風圧(ふうあつ)を残して落ちる。触れてはいない。それでも通り過ぎる質量があった。

「名前の洪水(こうずい)……」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。  白紙の頁(ページ)に、降る文字と同じ語が一時的に貼りついては剥(は)がれていく。革の器に残る経蔵(きょうぞう)の残光が、外の名前を受け止めてしまうのだ。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が忙しなく明滅(めいめつ)し、情報の流量に処理が追いついていない。

こよいはホームへ降りた。  石畳(いしだたみ)の目地に、細かな文字が流れ込んでいる。  読めるものと読めないものが半々だった。

足裏に伝わる振動が細かい。文字が目地を流れるたび、石の表面がかすかに脈打つ。生きていたものの残響(ざんきょう)だ。拍の間隔は不規則で、どこか心臓の鼓動(こどう)に似ていた。だが人のものではない。もっと大きく、もっと古い生き物の脈だった。  そして、耳の奥にあの歌が戻ってきた。列車の中で聞いた、三つの音を行き来する単純な旋律(せんりつ)。歌っていたのは、人ではなかった。流れる名前たちが、擦(す)れ合いながら唱和していたのだ。

母の名に似た音があった。  村の古い井戸(いど)の呼び名もあった。  胸が跳ねる。

指先がひとりでに伸びかけた。拾えば、もう一度あの声が聞けるかもしれない。懐かしさが理性の壁を押し広げようとしていた。

次の瞬間、それらは別の字へ崩れた。

「拾うな」

あさひがこよいの手首を掴(つか)む。乾いた掌(てのひら)の圧が骨に伝わる。強いが、痛くはない。指の腹にある古い剣胼胝(けんだこ)の硬さが、かえってこよいを現実に引き戻す。

「今ここで拾うと、あとで手放せない」

こよいは拳を閉じたまま頷(うなず)いた。  巾着(きんちゃく)の中で神々が速く脈打つ。  温度が上がっていた。雨の神の脈が跳ね、風の神が渦(うず)を巻く。名前の洪水(こうずい)に共鳴するように、布越しの熱が腰骨のあたりまで広がっていく。

久遠(くおん)は屈(かが)み、石畳(いしだたみ)に指先を当てる。  蒼い光が目地の奥へ潜り、流れの方向を可視化した。光の筋は一本ではなく、数十の細い糸となって石畳(いしだたみ)の下を走っている。枝分かれした糸がまた合流し、最終的に太い一筋(ひとすじ)へ収束していく構造が浮かび上がった。

「上から落ちてるように見えるが、実際は下から吸い上がってる。核(かく)側で名前を濾(こ)してるんだ」

「濾(こ)した先は?」

「まだ分からん。だが、余った名前は町を壊す」

久遠(くおん)は指を離し、蒼光(そうこう)の残った指先を軽く振った。石畳(いしだたみ)の光が消え、目地がまた暗い溝に戻る。こよいは、一瞬だけ見えた流れの全体図を頭に焼きつけた。あの収束点の先に、何がある。問いが喉(のど)まで上がったが、飲み込んだ。今は走るときだ。

風が吹いた。  文字の雨が渦(うず)を巻き、三人の周囲だけ流れを変える。  こよいの肩に一文字が触れ、熱を残して消えた。

読めなかった。でも、その一瞬だけ、誰かの記憶が胸の奥をかすめる。

泣き声。  灯り。  濡れた木の匂い。

記憶の断片は自分のものではない。けれど体は反応した。胸の奥がきゅっと縮み、鼻の奥に涙の気配が立つ。他人の名前が運んでくる記憶に、自分の感情が引きずられる。それがこの場所の罠(わな)なのだと、こよいはようやく理解した。

こよいは息を吐いた。  受け取らないと決めても、流れ込んでくる。

「出口は?」

あさひが問う。声は低く、短い。余計なものを口にすれば、それすらも文字の渦(うず)に取り込まれかねない。

久遠(くおん)が線路の先を指した。  遠くで行灯(あんどん)が三つ、縦に並んで点滅している。その間隔は、誰かの呼吸に合わせたようだった。

「名前の流量を越える前に、あの点滅まで行く」

三人は走り出した。  足元で文字が跳ね、踵(かかと)にまとわりつく。  読もうとすれば遅れる。  読まなければ抜けられる。

あさひが先頭を切った。剣を低く構え、文字の塊を鞘(さや)で払いながら道を開く。久遠(くおん)は目録(もくろく)を片手に抱え、もう片方の手で蒼い光の壁を薄く張った。光の膜(まく)が文字の直撃を和らげる。こよいは二人の間を走った。

こよいは歯を食いしばった。走るたびに石畳(いしだたみ)が弾け、文字が膝の高さまで舞い上がる。一つひとつが誰かの名前だ。拾わなくても、すれ違うだけで重さが乗る。肩が重い。呼吸が浅くなる。視界の端を、見覚えのある字形がよぎった。父の名の一部。こよいは首を振り、視線を前に固定した。今は見ない。今は走る。

こよいは神々の脈だけを聞いた。  一定の拍が、洪水(こうずい)の騒音を切り分ける。

行灯(あんどん)が近づく。三つの橙(だいだい)が白い靄(もや)の中で脈打ち、走る三人の輪郭(りんかく)を交互に照らした。  背後では、積もった名前が小さな丘となり、静かに崩れ始めていた。崩れた文字が新たな文字を巻き込み、雪崩(なだれ)のように広がっていく。音はない。無音の崩壊が、かえって恐ろしかった。

行灯(あんどん)の点滅地点に着くと、石柱の裏に古い札が貼られていた。

『名は持ち帰るな。呼吸だけ持ち帰れ』

達筆(たっぴつ)ではない。  急いで書いた太い字だ。墨(すみ)が紙の端からはみ出し、乾く前に指で触れた跡(あと)がある。書いた者も、今の三人と同じように走ってきたのだと分かった。札の角が黄ばみ、糊(のり)が半ば剥がれている。それでも文字だけは鮮明だ。どれだけの時間が経っても、残すべき言葉は残る。

こよいは札を剥(は)がさず、その場で覚えた。  この場所に残すべき言葉だと思ったからだ。名は持ち帰るな。呼吸だけ持ち帰れ。短い文だった。けれどその短さのなかに、書いた者の切迫と覚悟が圧縮されている。

あさひが肩で息をしながら笑う。

「昔の誰かも、同じ目に遭ったんだな」

久遠(くおん)は頷(うなず)く。

「区画が違っても、罠(わな)の型は似る。残した言葉は次の旅人の武器になる」

こよいは一度だけ後ろを見た。  文字の洪水(こうずい)はまだ続いている。白い停車場(ていしゃじょう)が文字で埋め尽くされ、さっき降りた場所がもう見えない。丘がまた一つ崩れ、文字の波が線路を呑(の)み込みかけていた。  けれど、飲まれないための文が確かに残っていた。

霧列車(きりれっしゃ)へ飛び乗る直前、こよいは掌(てのひら)を握り、開いた。  何もない。読めなかった一文字は、もう形を失っている。  扉の内側では、おたまが当たり前の顔で待っていた。

それでも皮膚の奥に、微かな温度だけが沈んでいた。  名を持ち帰らなくても、通り過ぎた重さは身体が覚える。

「……名前の器(うつわ)、水脈(すいみゃく)の記憶。目録(もくろく)が二つの核(かく)に与えていた呼び名だ。器は、お前の巾着(きんちゃく)と四柱(よはしら)。水脈の記憶は、風庭(かぜにわ)で雨の神が水に還(かえ)した、あの一滴の記憶。……二つは、もう揃ってる」

久遠(くおん)が窓の外を見たまま言った。

「還す者の手(て)だけが、まだ見つからない」

扉が閉まる瞬間、ホームの文字がいっせいに静まった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます