第141話 色の奔流
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第141話 色の奔流

第5章 名の漂い

列車が加速した瞬間、窓の外に色があふれた。

赤、青、すすけた金、名のない緑。  どれも一瞬で形を持ち、次の瞬間には砕けて流れる。  色そのものが情報として走っている。窓硝子まどがらすかして車内にまで色の反射が届き、天井の木目を赤く、久遠くおんほおを青く、こよいのひざの上の巾着きんちゃくを金色に染めた。色は一秒ごとに入れ替わり、三人の影が壁の上で絶え間なく色を変える。座席の木肌にまで色が染みて、触れると指先に微かな振動が残った。

「見続けるな」

久遠くおんの声が飛ぶ。

「同じ色を長く追うと、意識を持っていかれる」

こよいは視線を窓から外し、ひざに手を置いた。  それでもまぶたの裏に色が残る。  にじんで、脈打って、呼吸に合わせて明滅した。目を閉じているのに色が見える。赤は怒りに似た熱を持ち、青は寂しさに似た冷たさを帯びている。金は誰かの笑い声みたいに明るく弾け、緑は古いたたみの匂いに似た郷愁きょうしゅうを引き出す。色に感情があるのか、それとも色がこよいの感情を引き出しているのか。その区別がつかないことが、一番怖かった。

あさひはあえて窓際に立った。  剣の反りに映る色の流れを確認し、方向だけ拾っている。刃を鏡代わりにすることで、直接見ることを避けていた。映り込んだ色は刃の上でゆがみ、本来の彩度さいどが半分に落ちる。それでも十分だと判断したのだろう。あさひらしい、実戦の知恵だった。刃の表面で色が滑るたび、鉄の上を水が流れるようなかすかな音がした。

「速いな。町一つ分の景色が、心拍ひとつで通り過ぎる」

「景色じゃない。塗り替えの残滓ざんしだ」

久遠くおん目録もくろくを開く。  記憶から書き戻したページの上でも色が揺れ、文字のすみを食っていく。色が文字を消すのではなく、文字の意味だけを抜き取っていく。久遠くおんは色が通る前に行を読み直し、意味を頭へ引き上げる。追い越されたら終わりだという速度の勝負を、無言でこなしていた。

こよいは巾着きんちゃくひもを握り、神々の温度を確かめた。雨の神の温もりと風の神のかすかな震えが、重なるように手のひらへ伝わる。  温かい。  色にまれかけた意識が、そこで戻る。神々の温もりには色がない。白でも銀でもない、ただの温度だけがある。その無色の確かさが、こよいの意識を車内につなぎとめた。色の洪水こうずいのなかで、唯一色を持たないものが一番頼りになる。こよいはその逆説を、手のひらで理解した。  隣の座席では、おたまが丸くなって眠っていた。世界の嘘に付き合う気のない、規則正しい寝息だった。

車体が大きく跳ねた。  行灯あんどんが一度消え、すぐにく。  その短い暗転で、こよいは別の音を聞いた。

歌だ。  誰かが遠くで、同じ節を繰り返している。旋律せんりつは単純で、三つの音を行ったり来たりするだけ。子どもが覚えたての歌を何度も繰り返すときの、あの無邪気さと執拗しつようさが混じった調子だった。繰り返すたびに音程がわずかにずれ、ずれるたびに胸の奥がきつく締まる。

「聞こえた?」

こよいが問うと、あさひが即答した。

「聞こえた。子守歌こもりうたみたいで、刃物みたいなやつ」

的確だった。優しい旋律せんりつなのに、聞いていると胸の奥が薄く切れる。懐かしさの形をした刃が、記憶の柔らかい場所を探り当てようとしている。こよいは唇を引き結び、旋律せんりつを追いかけないよう意識を巾着きんちゃくの温度に固定した。追いかければ、歌の主のところまで意識が引っ張られる。それだけは避けなければならない。

久遠くおんは眉を寄せる。目録もくろくページを指で押さえたまま、歌の方角を測るように首をわずかに傾けた。

「色の層と同期してる。唱和しょうわに近い。まだ距離はあるが、次の停車場ていしゃじょうでぶつかる」

窓の外で、色の流れが急に遅くなった。  赤が長く尾を引き、青がそこへ絡む。二色が混じり合うとき、一瞬だけむらさきが生まれ、それはどの色よりも重く、窓硝子まどがらすに張りついて流れなかった。むらさきは見つめると奥行きを持ち、その奥に何かの形がうごめいている気がした。  やがて二色ははいへ沈み、全体が鈍い銀に変わる。銀は色ではなく温度だった。車内の空気が一段冷え、こよいの吐く息がわずかに白んだ。

「来る」

あさひが足幅を広げ、右手がつかを握り直す。何度も見てきた構えだった。あさひが戦う準備をしているなら、まだ戦える状況だということだ。

列車の前方で、見えない壁をたたくような衝撃しょうげきが三度続いた。  一度目は鈍く、二度目は高く、三度目は音がなかった。音のない衝撃しょうげきが一番重く、車体全体がびりびりと震えた。天井の隅にまっていたほこりが落ち、行灯あんどんの炎が横に倒れかけて戻った。  床板の継ぎ目から冷気が立ち、こよいの足首を刺す。

それでも今回は、こよいは下を向かなかった。  目を閉じて、色の残像ざんぞうを一つずつ数え、呼吸の深さを戻す。恐怖はある。でも、恐怖の形を知っている。知っているものは、やり過ごせる。

外の氾濫はんらんは止まらない。  止まらないまま、列車だけが一本の線を選び続ける。

久遠くおんが低く言った。

「色はうそをつくが、揺れはうそをつかない。揺れを読め」

こよいはうなずく。  座席の振動をてのひらで受け取る。木の板を通して伝わる列車の鼓動は不規則だが、嘘がない。線路の継ぎ目を踏むたび、正直な衝撃しょうげきが返ってくる。色は幻を見せるが、揺れは物理だ。こよいは揺れのリズムに自分の呼吸を合わせ、色の洪水こうずいを意識の外へ押し出した。

色彩の洪水の向こうで、次の境界きょうかいが口を開けていた。

色の奔流ほんりゅうが少し収まった時、こよいは座席の木目に爪で小さな印をつけた。爪が木に食い込む感触が指先に伝わり、その確かさだけでこよいの心拍が一つ落ち着いた。

「何してる」

あさひがく。

基準きじゅんを作ってる。窓の外は変わり続けるから、車内に動かない印を一つ置きたい」

久遠くおんはその印を見て、短く笑った。笑ったのは口元だけで、目は依然として鋭いままだったが、その一瞬の緩みがこよいの胸にほんのり温かく届いた。

「いい判断だ。観測者かんそくしゃはいつも大きい基準きじゅんを使う。俺たちは小さい基準きじゅんで対抗すればいい」

こよいは木目の印に指を当てた。  小さな傷に触れるだけで、視界の眩暈めまいが減る。大きなものに対抗するのに、大きな武器は要らない。

色はまだ濁流だくりゅうのままだ。  それでも、印がある限り、自分がどこに座っているかを見失わない。

やがて色の濁流だくりゅうの中に、一本だけ鈍いはいの帯が現れた。  久遠くおんはそれを指し示す。

「あれが次の減速路げんそくろだ。派手じゃない道ほど、生還率が高い」

こよいは木目の印に触れた指を離し、まっすぐ窓を見る。灰の帯は色の濁流だくりゅうのなかで唯一動かない。周囲の色がうずを巻いても、灰だけが静かに横たわっている。地味で、目立たなくて、だからこそ確かだった。こよいは自分たちの旅も、そうだと思った。派手な力はない。けれど、消えない。

原初げんしょ術式じゅつしきに足りない第三の条件も、きっとこの灰の帯のように——派手ではない場所に眠っている。

「目立たないほうを選ぶ。覚えた」

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