第140話 核への列車
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第140話 核への列車

第5章 名の漂い

通りの奥で、石畳(いしだたみ)が途切れた。

その先には、線路が一本だけ伸びていた。  錆(さび)の浮いた二本の轍鉄(レール)が、白い霧(きり)の中へ真っ直ぐに消えている。枕木(まくらぎ)は古く、木目が浮き上がって毛羽立(けばだ)っていた。枕木(まくらぎ)の間に詰められた砂利(じゃり)は白く乾き、踏むと粉になりそうなほど脆(もろ)い。  屋根も椅子もない停車場(ていしゃじょう)。  二本の石柱が、ここが境目(さかいめ)だと示している。柱の表面には細い亀裂(きれつ)が走り、かつて彫(ほ)られていた文字の跡(あと)が影のように残っていた。指先で触れると、亀裂(きれつ)の底にかすかな温度があった。石が記憶を手放しきれずにいるのかもしれない。

こよいは柱の間に立ち、白い先を見た。  何もない。  視界の端まで白が広がり、奥行きの感覚が消える。十歩先なのか百歩先なのか、距離の目盛りが存在しなかった。白は単なる色ではなく、空間そのものが未記入の状態だった。ここにはまだ何も書き込まれていない。あるいは、書き込まれたものが全て消された。  それでも、耳の奥には鉄の軋(きし)みが薄く残っている。遠い場所で車輪が線路を噛(か)む音。近づいているのか遠ざかっているのか分からない、方向を持たない振動だった。音は空間を伝うのではなく、線路の鉄を伝って足裏に直接届いている。

「ここで合ってる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じる。  表紙を閉じるとき、頁(ページ)の間から薄い光が一筋漏れ、すぐに消えた。最後の座標(ざひょう)を封じ込めたみたいだった。目録(もくろく)の表紙には読み取りの負荷で細い焦げ跡(あと)が残り、紙の端が少し縮れている。  義眼(ぎがん)の蒼い明滅が、さっきより遅い。負荷が落ちたのか、それとも目が疲弊して反応が鈍っているのか。どちらにせよ、久遠(くおん)の声には確信があった。

「あとは待つだけだ。長くはかからない」

あさひは線路の脇で膝を折り、左腕の布を締め直した。  血は止まっているが、指先の動きはまだ硬い。布の端を歯で引き、結び目をきつく作る。結び終えると、左手を開いたり閉じたり、指の感覚を確かめている。剣を握る右手は問題ない。それで十分なのだろう。

「待つのは苦手だ」

「走り続けてきたからな」

久遠(くおん)が短く返す。  こよいは少しだけ肩の力を抜いた。二人が言葉を交わせるなら、まだ大丈夫だ。

白い空間では、時間の輪郭(りんかく)が薄い。  拍を数えても、すぐにずれる。十を数えたつもりが七だったり、三拍しか経っていないのに身体は十拍分の疲労を感じたりする。  こよいは巾着(きんちゃく)に触れ、神々の鼓動を基準にした。四柱(よはしら)の脈が寸分の狂いもなく揃っている。

一定だった。  けれど、一定すぎて怖かった。まるで生きている鼓動ではなく、仕掛けの振り子みたいに正確で、こよいは巾着(きんちゃく)を握る手に少しだけ力を込めた。神々の鼓動が一定なのは、揺るがない意思があるからだ。振り子ではない。こよいはそう信じることにした。

遠くで金属が鳴る。  高い音ではない。低く、地面を伝って足裏に届く鈍い振動。線路が共鳴しているのだと分かった。枕木(まくらぎ)の一本一本が順番に震え、音が近づいてくる。白い砂利(じゃり)が微かに跳ね、鉄の振動が空気を揺らす前に地面を揺らした。  次いで、低い震えが足裏に届いた。

「あさひ、立てるか」

「問題ない」

三人が線路際に寄る。  あさひは立ち上がるとき、一瞬だけ左腕を庇(かば)った。こよいはそれを見たが、何も言わなかった。黙ってあさひの右側に並ぶ。剣を抜く腕を邪魔しない位置だ。久遠(くおん)は左側に立ち、三人は線路に沿って横一列になった。

白の奥から、蒼白い行灯(あんどん)をひとつ掲げた車両が現れた。  行灯(あんどん)の光は弱く、車両の輪郭(りんかく)を描くには足りない。白い霧(きり)のなかに蒼い点だけが浮かび、それが近づくにつれて鉄の車体が霧(きり)から剥(は)がれ出てくる。車体は黒ずんだ鉄で、表面に細かい傷が無数にある。長い距離を走ってきた証拠だった。

霧列車(きりれっしゃ)は音もなく近づき、最後にだけ重い息を吐くように停まる。  車輪と線路の間で最後の軋(きし)みが鳴り、その音だけが妙に生々しく停車場(ていしゃじょう)に反響した。  扉が開くと、温度の違う空気が流れ出た。  月(つき)の峡(きょう)の無臭とは違う、紙と油の匂いがした。古い書物を開いたときの乾いた甘さと、車軸(しゃじく)の油の金属的な重さが混じり合っている。こよいは無意識に鼻から深く吸い込んだ。匂いがあるというだけで、ここが「在る」場所だと感じられた。

こよいは一歩、車内へ踏み込む。  先に乗り込んだ覚えのないおたまが、もう座席の上で丸くなっていた。いつ、どこから入ったのか。霧列車(きりれっしゃ)と猫のあいだにだけ通じる道があるのかもしれない、とこよいは思った。  床板のきしみが返ってきた。  この手応えが、妙にありがたい。足の裏が木の繊維を感じ、体重を受けて板が沈む。白い停車場(ていしゃじょう)では何もかもが吸い込まれていたから、押し返してくる感触がこれほど心強いとは思わなかった。板の隙間(すきま)から油と埃(ほこり)の匂いが立ち上る。汚れた匂いなのに、安心する。

「進める」

こよいが言う。短い言葉だった。けれどその二文字に、こよいは今の自分が持っている確信を全部込めた。白い場所を越え、名の雨をくぐり、無音に耐えた。その全部を経た上で、まだ前に進めると言える自分がいる。

久遠(くおん)は最後に線路の先を見て、低く頷(うなず)いた。  白い霧(きり)は列車の後方で再び閉じようとしている。来た道が消えていく。それを確認してから、久遠(くおん)は車内に足を踏み入れた。

「ここから先は、核(かく)に近い。記録が逆流(ぎゃくりゅう)する。見えたものを全部信じるな」

あさひが扉の縁(ふち)を叩(たた)く。鉄の響きが車内に跳ね返り、天井の隅で消えた。

「なら、信じる相手を決めとく。お前ら二人だ」

列車が動き出す。  石柱はすぐ後ろへ流れ、白い停車場(ていしゃじょう)は輪郭(りんかく)ごと薄れていった。あの二本の柱が霧(きり)に呑(の)まれ、最後に亀裂(きれつ)の影だけが一瞬見えて、消えた。

窓の外で、白の底に細い線が走る。  一本、また一本。  地層の断面みたいに、重なった記録が顔を出し始める。線と線の間に色の欠片(かけら)が見え隠れし、それが何を記録したものなのか、こよいには分からなかった。ただ、層が深くなるほど色は濃くなり、圧(あつ)も増していく。窓硝子(まどがらす)に手を近づけると、硝子(ガラス)越しに圧(あつ)を感じた。情報の重さが、物理的な力になっている。

こよいは巾着(きんちゃく)を抱え直した。  神々が、深く一拍だけ鳴る。

深層(しんそう)の核(かく)が近い。  そう告げる拍だった。還す者の手(て)——失われた第三の条件の手がかりが、核(かく)の近くにあるかもしれない。

列車の窓に、さっきの石柱が一瞬だけ映った。  本物はもう見えないはずなのに、映像だけが追ってくる。窓硝子(まどがらす)の表面に張りついた残像みたいに、柱の亀裂(きれつ)まではっきり映っている。

こよいは目を逸らさず、映り込みが薄れるまで見届けた。  置いてきた場所を曖昧(あいまい)にしないためだ。どこを通ってきたか、何を越えてきたか。それを忘れた瞬間、帰り道が消える。この旅で何度も思い知ったことだった。

「さっきの停車場(ていしゃじょう)、戻ろうと思えば戻れるかな」

こよいの問いに、久遠(くおん)は少し考えてから答えた。

「戻れる。だが同じ形ではない。記録層が一段沈んでる」

あさひが座席にもたれ、目を閉じる。左腕を腹の上に置き、右手だけを剣の柄(つか)に預けたまま。眠るのではない。身体を休めながら、耳だけを開いている姿勢だった。

「なら、戻る理由を増やしておくしかないな。次に行く時は拾い忘れがないように」

こよいは頷(うなず)いた。  先へ進むために、後ろを正確に覚える。

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