通りの奥で、石畳が途切れた。
その先には、線路が一本だけ伸びていた。 錆の浮いた二本の轍鉄が、白い霧の中へ真っ直ぐに消えている。枕木は古く、木目が浮き上がって毛羽立っていた。枕木の間に詰められた砂利は白く乾き、踏むと粉になりそうなほど脆い。 屋根も椅子もない停車場。 二本の石柱が、ここが境目だと示している。柱の表面には細い亀裂が走り、かつて彫られていた文字の跡が影のように残っていた。指先で触れると、亀裂の底にかすかな温度があった。石が記憶を手放しきれずにいるのかもしれない。
こよいは柱の間に立ち、白い先を見た。 何もない。 視界の端まで白が広がり、奥行きの感覚が消える。十歩先なのか百歩先なのか、距離の目盛りが存在しなかった。白は単なる色ではなく、空間そのものが未記入の状態だった。ここにはまだ何も書き込まれていない。あるいは、書き込まれたものが全て消された。 それでも、耳の奥には鉄の軋みが薄く残っている。遠い場所で車輪が線路を噛む音。近づいているのか遠ざかっているのか分からない、方向を持たない振動だった。音は空間を伝うのではなく、線路の鉄を伝って足裏に直接届いている。
「ここで合ってる」
久遠が目録を閉じる。 表紙を閉じるとき、頁の間から薄い光が一筋漏れ、すぐに消えた。最後の座標を封じ込めたみたいだった。目録の表紙には読み取りの負荷で細い焦げ跡が残り、紙の端が少し縮れている。 義眼の蒼い明滅が、さっきより遅い。負荷が落ちたのか、それとも目が疲弊して反応が鈍っているのか。どちらにせよ、久遠の声には確信があった。
「あとは待つだけだ。長くはかからない」
あさひは線路の脇で膝を折り、左腕の布を締め直した。 血は止まっているが、指先の動きはまだ硬い。布の端を歯で引き、結び目をきつく作る。結び終えると、左手を開いたり閉じたり、指の感覚を確かめている。剣を握る右手は問題ない。それで十分なのだろう。
「待つのは苦手だ」
「走り続けてきたからな」
久遠が短く返す。 こよいは少しだけ肩の力を抜いた。二人が言葉を交わせるなら、まだ大丈夫だ。
白い空間では、時間の輪郭が薄い。 拍を数えても、すぐにずれる。十を数えたつもりが七だったり、三拍しか経っていないのに身体は十拍分の疲労を感じたりする。 こよいは巾着に触れ、神々の鼓動を基準にした。四柱の脈が寸分の狂いもなく揃っている。
一定だった。 けれど、一定すぎて怖かった。まるで生きている鼓動ではなく、仕掛けの振り子みたいに正確で、こよいは巾着を握る手に少しだけ力を込めた。神々の鼓動が一定なのは、揺るがない意思があるからだ。振り子ではない。こよいはそう信じることにした。
遠くで金属が鳴る。 高い音ではない。低く、地面を伝って足裏に届く鈍い振動。線路が共鳴しているのだと分かった。枕木の一本一本が順番に震え、音が近づいてくる。白い砂利が微かに跳ね、鉄の振動が空気を揺らす前に地面を揺らした。 次いで、低い震えが足裏に届いた。
「あさひ、立てるか」
「問題ない」
三人が線路際に寄る。 あさひは立ち上がるとき、一瞬だけ左腕を庇った。こよいはそれを見たが、何も言わなかった。黙ってあさひの右側に並ぶ。剣を抜く腕を邪魔しない位置だ。久遠は左側に立ち、三人は線路に沿って横一列になった。
白の奥から、蒼白い行灯をひとつ掲げた車両が現れた。 行灯の光は弱く、車両の輪郭を描くには足りない。白い霧のなかに蒼い点だけが浮かび、それが近づくにつれて鉄の車体が霧から剥がれ出てくる。車体は黒ずんだ鉄で、表面に細かい傷が無数にある。長い距離を走ってきた証拠だった。
霧列車は音もなく近づき、最後にだけ重い息を吐くように停まる。 車輪と線路の間で最後の軋みが鳴り、その音だけが妙に生々しく停車場に反響した。 扉が開くと、温度の違う空気が流れ出た。 月の峡の無臭とは違う、紙と油の匂いがした。古い書物を開いたときの乾いた甘さと、車軸の油の金属的な重さが混じり合っている。こよいは無意識に鼻から深く吸い込んだ。匂いがあるというだけで、ここが「在る」場所だと感じられた。
こよいは一歩、車内へ踏み込む。 先に乗り込んだ覚えのないおたまが、もう座席の上で丸くなっていた。いつ、どこから入ったのか。霧列車と猫のあいだにだけ通じる道があるのかもしれない、とこよいは思った。 床板のきしみが返ってきた。 この手応えが、妙にありがたい。足の裏が木の繊維を感じ、体重を受けて板が沈む。白い停車場では何もかもが吸い込まれていたから、押し返してくる感触がこれほど心強いとは思わなかった。板の隙間から油と埃の匂いが立ち上る。汚れた匂いなのに、安心する。
「進める」
こよいが言う。短い言葉だった。けれどその二文字に、こよいは今の自分が持っている確信を全部込めた。白い場所を越え、名の雨をくぐり、無音に耐えた。その全部を経た上で、まだ前に進めると言える自分がいる。
久遠は最後に線路の先を見て、低く頷いた。 白い霧は列車の後方で再び閉じようとしている。来た道が消えていく。それを確認してから、久遠は車内に足を踏み入れた。
「ここから先は、核に近い。記録が逆流する。見えたものを全部信じるな」
あさひが扉の縁を叩く。鉄の響きが車内に跳ね返り、天井の隅で消えた。
「なら、信じる相手を決めとく。お前ら二人だ」
列車が動き出す。 石柱はすぐ後ろへ流れ、白い停車場は輪郭ごと薄れていった。あの二本の柱が霧に呑まれ、最後に亀裂の影だけが一瞬見えて、消えた。
窓の外で、白の底に細い線が走る。 一本、また一本。 地層の断面みたいに、重なった記録が顔を出し始める。線と線の間に色の欠片が見え隠れし、それが何を記録したものなのか、こよいには分からなかった。ただ、層が深くなるほど色は濃くなり、圧も増していく。窓硝子に手を近づけると、硝子越しに圧を感じた。情報の重さが、物理的な力になっている。
こよいは巾着を抱え直した。 神々が、深く一拍だけ鳴る。
深層の核が近い。 そう告げる拍だった。還す者の手——失われた第三の条件の手がかりが、核の近くにあるかもしれない。
列車の窓に、さっきの石柱が一瞬だけ映った。 本物はもう見えないはずなのに、映像だけが追ってくる。窓硝子の表面に張りついた残像みたいに、柱の亀裂まではっきり映っている。
こよいは目を逸らさず、映り込みが薄れるまで見届けた。 置いてきた場所を曖昧にしないためだ。どこを通ってきたか、何を越えてきたか。それを忘れた瞬間、帰り道が消える。この旅で何度も思い知ったことだった。
「さっきの停車場、戻ろうと思えば戻れるかな」
こよいの問いに、久遠は少し考えてから答えた。
「戻れる。だが同じ形ではない。記録層が一段沈んでる」
あさひが座席にもたれ、目を閉じる。左腕を腹の上に置き、右手だけを剣の柄に預けたまま。眠るのではない。身体を休めながら、耳だけを開いている姿勢だった。
「なら、戻る理由を増やしておくしかないな。次に行く時は拾い忘れがないように」
こよいは頷いた。 先へ進むために、後ろを正確に覚える。
