余白の灯の前で、こよいは膝をついた。
どれほどの間そうしていたのか、ふ、と鼓膜に世界が戻ってきた。 最初に届いたのは、チリン、という小さな鈴の音だった。おたまが首を振ったのだ。凍っていた音のかたちが、解けて落ちた。それを合図に、風の音、衣擦れ、三人の呼吸——奪われていた音が、ひとつずつ手元に返ってくる。
銀の火は相変わらず冷たく、熱を持たない。 それでも、降ってくる粒子の質が少し変わっていた。さっきまでは乾いた砂粒みたいに素通りしていた光が、今は肌に触れると微かな湿り気を残す。髪の先に粒子が触れるたび、静電気に似た微弱な引っ張りを感じる。身体の表面にある何かを、粒子が読み取ろうとしているみたいだった。
白い情報の雨の中に、名前の残響が混じる。 耳を澄ませると、声になりきれない断片だけが触れてきた。呼びかけの語尾、名を呼ぶときの抑揚、応える側の息遣い。どれも途中で途切れ、最後まで聞き取れない。文字にすれば一文字か二文字。それだけで、胸の奥が疼く。知らない名前なのに、呼ばれたことのある温度がそこにある。
拾おうとした瞬間、砂みたいに散る。 掴めない。でも、そこに確かに在る。
風鈴の音が歪み始めた。 澄んだ音に、割れた鉄の不協和が混ざる。ひとつの音が二つに裂け、耳の奥で別々の方向へ引っ張られる。こよいは思わず片耳を押さえたが、音は頭蓋の内側を回って反対の耳から抜けていった。 石畳の文様が薄く浮かび、線が別の形へ組み替わろうとしていた。足元の石と石の継ぎ目が呼吸するように広がり、隙間から薄い銀の光が漏れる。光は冷たく、足の裏を這い上がろうとする。
理の継ぎ目が、閉じる。
こよいは足を固定し、姿勢を低くした。 巾着の中で神々が速く脈打つ。 何かが近づいているのか、何かが終わろうとしているのか、その区別がつかない。脈の速さだけが上がり、温度も揺れる。神々自身が迷っているのか、それともこよいの不安を映しているのか。
久遠は目録を開いたまま動かない。 記憶から書き戻した数行が、また消えかけていた。指が紙を押さえるたびに文字が残り、離すと霧散する。義眼の明滅が速い。限界を超えている。それでも止めない。この数行だけが、次へ進む唯一の座標だった。
「……ここでは声を出すな。この密度で名を呼べば、お前の中の名ごと灯に吸い上げられる」
その声に反応するように、降っていた粒子が一瞬だけ静止した。 三人の周囲に、光の箱ができたみたいだった。粒子が止まった空間は妙に透明で、自分たちの影だけが足元にくっきりと落ちている。鮮明すぎる自分の影を見下ろすと、影のほうが本体で、自分のほうが影なのではないかという錯覚が一瞬だけ過った。 次の瞬間、また雨は落ち始める。
こよいの唇が震える。 呼びたかった。 消えかけている名前を、呼び戻したかった。でも、呼べない。 呼んだ瞬間、こよい自身の名前が滑り落ちる。胸の奥にある一番深い場所、自分が自分であるための核が溶け出す。それがどんな感覚なのか、想像しただけで膝が震えた。名前を失うのは、死ぬのとは違う。死ねばまだ、誰かの記憶に残る。名を失えば、記憶される側から消える。
こよいは心の中でだけ、三度、自分の名を唱えた。
こよい。 こよい。 こよい。
声にはしない。でも、忘れない。三度繰り返すと、胸の底にあった冷たい塊が少しだけ緩んだ。自分の名を知っている。それだけで、足の裏が地面を捉え直す感覚があった。膝の震えが止まり、背筋に芯が通る。
「……分かってる。でも、ぼくたちの手の中には思い出がある。絶対に消えない」
こよいは一歩踏み出した。 石畳の冷気が足裏から這い上がる。冷たさは足首を伝い、脛を昇り、腿まで届こうとする。骨の中を冷水が通るような痛みだった。 それでも止まらない。
神々が強く脈打ち、温もりが冷えを押し返した。掌から肘へ、肘から肩へ、温もりが広がる。冷たさと温もりが身体のなかでぶつかり、その境目がこよいの輪郭を内側から描き直していた。奪おうとする冷たさと、守ろうとする温もり。その拮抗が、今の自分の形だ。 小さな声なのに、揺れなかった。
あさひは剣の柄に手を添え、通りの最奥を見据える。 灯籠の明滅に合わせ、奥の闇がうねるように動いていた。闇は一定の間隔で膨らみ、灯籠の光を呑もうとしては吐き出す。その呼吸のリズムを、あさひの目が追っていた。 法則を読む目だった。 理解のためではなく、斬るための目だ。どこで膨らみ、どこで縮み、どの瞬間に一番薄くなるか。斬るなら、そこだ。
「……立てるなら、歩け。待っても何も変わらねえ」
あさひが言う。 理屈はない。でも、その声の太さだけで足が前を向いた。声の底にある確信が、こよいの迷いを貫通する。信じるというより、身体がもう前を向いていた。
久遠は目録を懐に仕舞い、立ち上がる。 蒼光はまだ揺れていたが、先ほどよりは安定している。 読むべきものは、もう頭に刻んだのだろう。目録を仕舞う手つきに迷いがなかった。懐に収める直前、頁の端が銀の光を反射し、最後の文字が一瞬だけ浮かんで消えた。
三人は通りを歩き始めた。 灯籠の乱れた明滅が徐々に落ち着き、不協和音は遠ざかる。三人の足音が加わったことで、通りに初めて規則正しいリズムが生まれた。こよいの軽い足音、あさひの重く確かな足音、久遠の静かだが途切れない足音。三つの音色は違うのに、間隔だけが揃っている。 石を打つ三つの足音だけが、規則正しく残った。
こよいは巾着を胸の前で握り締める。 答えが先にあるなら、取りに行く。原初の術式の第三条件も、その答えの一つだ。 最初からそれ以外の選択肢はなかった。迷いはある。怖さもある。けれど、立ち止まって安全な場所はもう後ろにもない。なら、前に進むほうがまだ自分の足で選んだ道だ。
通りの奥で、灯籠がひとつ、またひとつと灯り始める。 名の雨は細くなり、粒子は地面に届く前に霧みたいに溶けていった。溶けた粒子が灯籠の炎に吸い寄せられ、火の色がわずかに白みを帯びる。
その細くなった雨の、最後のひと粒が、こよいの手の甲に落ちた。 溶ける寸前、粒は一瞬だけ文字の形になった。
——すず。
読めたのはそれだけだった。誰の名前の、どの部分なのかも分からない。それなのに、指先がほんの少し温かくなった。
こよいは最後に一度だけ振り返る。 余白の灯の銀色の火を、目に焼き付けた。
遠ざかるほど小さくなる。 それでも、火は消えなかった。あの冷たい銀火が揺れもせずに立ち続けている姿は、不思議と心を凪がせた。奪う火なのに、見つめていると自分の中にあるものの在り処が分かる。失わせるものが照らすのは、失いたくないものの輪郭だ。 胸の奥で神々が一度、深く脈を打った。
