第136話 月の峡へ
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第136話 月の峡へ

第5章 名の漂い

理(ことわり)の回廊(かいろう)を渡り終えた三人は、中陵(ちゅうりょう)の外れの停車場(ていしゃじょう)で列車を待った。  あさひの左腕には掃除屋の一撃で裂けた傷があり、布で巻いたが血が滲(にじ)んでいる。

あさひは痛みを顔に出さず、停車場(ていしゃじょう)の柱に背を預けていた。こよいは手当てをしたかったが、あさひの横顔に触れてはいけない硬さがあった。痛みと向き合うときの、あさひなりの作法だ。

柱の石は灰(はい)に覆われ、触れると粉が衣に付いた。  停車場(ていしゃじょう)には屋根がなかった。かつてはあったのだろう。支柱の上端に、梁(はり)を受けていた金具の痕(あと)だけが残っている。灰(はい)の空が頭上に広がり、遠くで何かが崩れる微かな音がした。中陵(ちゅうりょう)の建物がまた一つ、自重に負けたのかもしれなかった。  霧列車(きりれっしゃ)が来た。車体に灰(はい)が積もり、行灯(あんどん)の火が弱々しく揺れている。  扉が開き、冷気と共に鉄の匂いが流れ出した。古い金属の錆(さび)と、軸受(じくうけ)の油が焼けた匂いが混じっている。

乗り込むと、車内は空だった。座席が四列、向かい合わせに並んでいる。窓硝子(まどがらす)は曇り、外の灰色が一様に滲(にじ)んで見えた。

座席の木が冷え切っていたが、座ると背中に安堵(あんど)が広がった。  回廊(かいろう)の細い石の上を歩き続けた足が、ようやく休まる。身体が止まることを許された瞬間、溜めていた疲労が一度に押し寄せてくる。  列車が動き始めた。車輪が軋(きし)み、振動が座席の木を通じて背骨に伝わった。

中陵(ちゅうりょう)の灰色の町が窓の外に流れ、やがて霧(きり)に呑(の)まれた。建物の影が一つ、また一つと霧(きり)の奥へ沈んでいく。こよいはそれを見送りながら、書庫(しょこ)で触れた紙の粉のことを思い出していた。あの粉はまだ、指の腹にかすかに残っている。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を膝(ひざ)に広げたが、すぐに顔を歪(ゆが)めた。頁(ページ)の角が焦げて丸くなり、蒼光(そうこう)を当てると紙の奥から細い煙が立ち昇った。

「……回廊(かいろう)の戦闘で、記憶から書き戻したばかりの頁(ページ)が数枚やられた。書き直しの利かない座標(ざひょう)もある」

「大丈夫なのか」

「大丈夫ではない。……経蔵(きょうぞう)へ直に向かう座標(ざひょう)も、失われた頁(ページ)の中だ。だが書庫(しょこ)で照合した記録と合わせれば、道はまだ見える。月(つき)の峡(きょう)を経由して、核の側から回り込む」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の損傷した頁(ページ)を一枚ずつ確かめていた。焦げた端を慎重に捲(めく)り、残った文字を蒼光(そうこう)で読む。使える情報と失われた情報を、頭の中で仕分けているのだろう。その横顔には焦りはなかったが、義眼(ぎがん)の明滅がいつもより速い。  あさひは右手だけで剣の紐(ひも)を調整していた。左腕は動かさない。紐(ひも)を歯で噛(か)んで引き締め、鞘(さや)の位置を右腰に寄せた。左が使えないなら右だけで戦う。その切り替えに迷いはなかった。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)の上に置いた。  中陵(ちゅうりょう)を離れるにつれて、神々の気配が少しずつ戻り始めていた。還す者の手(て)の答えは、まだこよいの掌(てのひら)の中にない。  雨の神が微かに脈打ち、その律動が手のひらに伝わる。律動は不安定だったが、途切れてはいない。中陵(ちゅうりょう)の奥にいたときは指先を当てても分からないほど弱かった脈が、いまは掌(てのひら)全体で感じ取れる。

中陵(ちゅうりょう)ではほとんど沈黙していた神々が、距離と共に目を覚まし始めている。こよいは掌(てのひら)を巾着(きんちゃく)に重ね、温もりの戻りを確かめ続けた。  窓の外の景色が変わった。  灰色の霧(きり)が薄くなり、代わりに白い光が滲(にじ)み始めた。  霧(きり)の向こうに、行灯(あんどん)のようなものが一つ、二つと見え始める。

色がばらばらだった。

蒼白いもの、琥珀色(こはくいろ)に滲(にじ)むもの、紫がかった光を放つもの。  行灯(あんどん)の列が線路に沿って並び、列車はその間を縫うように走っていた。光が車窓を横切るたび、車内の壁に色の帯が走り、すぐに消えた。こよいの頬にも色が映り、蒼から琥珀、琥珀から紫へと移り変わる。

「……月(つき)の峡(きょう)に入る」

久遠(くおん)は窓の外を見た。

義眼(ぎがん)が蒼光(そうこう)を細く絞り、行灯(あんどん)の列を走査(そうさ)する。一つ一つの光源を確認しているようだった。

「理(ことわり)の余白(よはく)が堆積(たいせき)した領域だ。記録がない場所。ここでは存在の定義が曖昧(あいまい)になる」

空気が変わった。

灰(はい)の匂いが消え、代わりに何の匂いもしなくなった。  匂いがないということは、この場所に記録がないということだった。  こよいは鼻をこすった。匂いがない。音も薄い。窓の外の景色は動いているのに、目が何も掴(つか)めない。五感が一つずつ空回りし始めている。身体がここに在るのに、「在る」という手応えが抜けていく。  チリン、と足元で鈴が鳴った。座席の下のおたまが、身じろぎしたのだ。記録のない白の中で、その小さな音だけが確かな手応えを持っていた。

巾着(きんちゃく)の中で、風の神が小さく震えた。  記録のない場所では、神々の存在もまた揺らぐ。  こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱え、温もりを守るように両手で包んだ。自分の体温と神々の温もりが掌(てのひら)の中で混ざり、どちらがどちらか分からなくなる。それでよかった。分けなくていい。守るものは同じだ。

車内の温度が下がった。

吐く息が白くなり、窓硝子(まどがらす)の端に霜(しも)が這(は)い始めた。霜(しも)の結晶が硝子(ガラス)の傷に沿って伸び、枝分かれしながら窓の中央へ向かっていく。  行灯(あんどん)の光が霜(しも)越しに滲(にじ)んで見える。  あさひは目を閉じ、身体を休めていた。

戦闘の後は眠れるときに眠る。  それがあさひの流儀(りゅうぎ)だった。  だが、閉じた瞼(まぶた)の下で眼球がゆっくりと動いている。

意識は落ちていない。あさひは止まっているのではなく、回復している。

行灯(あんどん)の列が密になった。  窓の外の白い空間に、石柱のようなものが見え隠れする。  かつて何かが在った場所の痕跡(こんせき)が、余白(よはく)の中に影のように残っていた。石柱の表面は滑らかだったが、根元だけが不自然にざらついている。何かが削り取られた痕(あと)だ。

こよいは窓に顔を寄せた。霜(しも)が広がる硝子(ガラス)の隙間から、白い空間を覗く。行灯(あんどん)の光が規則正しく並んでいるのに、その間隔が少しずつ狭まっている。何かに近づいている。近づいているのに、距離の感覚がない。  列車が速度を落とした。車輪の軋(きし)みが低くなり、振動の間隔が広がる。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開いた。

蒼光(そうこう)を頁(ページ)に落とすが、文字は浮かんでもすぐに薄れる。  この領域では目録(もくろく)の機能も落ちるのだろう。久遠(くおん)は頁(ページ)を読む速度を上げ、文字が消える前に情報を拾おうとしていた。蒼光(そうこう)が点滅し、頁(ページ)の上で小さな火花を散らす。

「次の停車場(ていしゃじょう)は市場(いちば)の空白(くうはく)だ。理(ことわり)が廃棄(はいき)された最初の場所。ここに、月(つき)の峡(きょう)の中枢へ続く道がある」

窓の外に、灯の消えた石柱の列が近づいていた。  かつて市場(いちば)だった場所の骨組みだけが、白い余白(よはく)の中に立ち尽くしている。柱と柱の間に屋根はなく、空だった場所にはただ白が満ちていた。  列車が止まった。

扉の向こうに、冷たい沈黙が待っていた。こよいは座席から腰を上げ、足が床に触れたとき、車内との温度差に身体が一瞬こわばった。扉の隙間から忍び込む空気には、温度も匂いも音もない。ただ、在ることの希薄さだけがあった。

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