第135話 理の回廊
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第135話 理の回廊

第5章 名の漂い

書庫(しょこ)を出た三人は、中陵(ちゅうりょう)の最果てにある「理(ことわり)の回廊(かいろう)」へ辿り着いた。

ここまで来るあいだに、霧(きり)の密度は一歩ごとに増していた。  視界は腕の長さほどしかない。  足元の石畳(いしだたみ)さえ、霧(きり)の底へ沈んで見えなくなる瞬間がある。自分の足がどこを踏んでいるのか、感覚だけが頼りだった。石の冷たさが靴底を突き抜け、足裏に染みる。

あさひが先頭を歩き、剣の鞘(さや)の先で地面を叩いて道を確かめた。  乾いた打音だけが、三人を繋ぐ糸になる。三歩目で音が僅かに高くなれば、石の材質が変わった合図だ。あさひは言葉にしないが、音で全てを伝えていた。

久遠(くおん)は最後尾で目録(もくろく)を胸に抱え、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を最小限に絞っていた。  この濃さでは、蒼光(そうこう)が霧(きり)の粒に乱反射し、かえって周囲が見えなくなるのだ。

こよいは、あさひの背中と久遠(くおん)の気配を頼りに歩いた。  巾着(きんちゃく)の中で雨の神が細く脈打つ。雨の神の温もりが揺れ、風の神が低い渦(うず)を立てている。脈の間隔が、歩くごとに短くなっている。  この先に、何かが待っている。

霧(きり)が不意に晴れた。一歩を境に、白い壁が左右に割れる。  回廊(かいろう)は、深淵(しんえん)の上に掛かった細い橋だった。  幅は三人が並んで歩ける程度。  左右に欄干(らんかん)はあるが、その向こうは底の見えない闇だ。

欄干(らんかん)の灯籠(とうろう)が不自然に明滅するたび、光の粒が雪のように降る。  風鈴の音は、世界の終わりを告げる細い悲鳴みたいに響いた。

近づいたと思った音が遠ざかり、遠いと思った音がすぐ耳元へ戻る。  回廊(かいろう)そのものが、奥行きを偽(いつわ)っていた。こよいは距離を測ることを諦め、あさひの鞘(さや)が石を打つ音だけを信じることにした。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開き、座標(ざひょう)を拾おうとした。だが自分で書き戻した文字さえ、蒼光(そうこう)に触れた端から紙の奥へ沈んでいく。

光の筋さえ、途中で屈折してあらぬ方角へ曲がった。  真っ直ぐ進めない場所だ。こよいは足元を見た。自分の影が、灯籠(とうろう)の光で二つに割れている。一つは前へ、もう一つは欄干(らんかん)の向こうの闇へ伸びていた。どちらが本物の影なのか、一瞬だけ分からなくなる。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の出力を上げる。  蒼光(そうこう)が一瞬だけ強まり、回廊(かいろう)の先に何かの輪郭(りんかく)を捉えかけた。  だが次の瞬間、闇がそれを呑(の)み込んだ。久遠(くおん)の肩が僅かに強張(こわば)る。

こよいは欄干(らんかん)に手をかけ、前を見通そうとした。  灯籠(とうろう)の青白い光は点々と続き、ある地点から先で闇に呑(の)まれていた。

あさひが足を止め、鼻先を上げる。  猟犬みたいに、空気の匂いを嗅いだ。

そのとき、風が変わる。

それまでの湿った風ではない。  横殴りの、刃みたいに鋭い風が三人の頬を打った。肌の表面が切れたかと思うほどの冷たさだった。こよいの髪が横へ流れ、巾着(きんちゃく)の紐(ひも)が首筋に食い込む。

灯籠(とうろう)の炎がいっせいに傾き、いくつかは吹き消える。  回廊(かいろう)の闇が一段深くなった。

足元から冷気が噴き上がる。  深淵(しんえん)が息を吸い込んでいる。  そして、その息と一緒に、何かが底から這(は)い上がってくる。地鳴りとも唸りともつかない低い振動が石を伝い、こよいの足裏を痺(しび)れさせた。

神々が巾着(きんちゃく)の中で急速に脈を速め、警告を打つ。四柱(よはしら)の鼓動がばらばらに乱れ、こよいの胸の奥で不協和音のように軋(きし)んだ。

「……来やがった」

あさひが低く吐き捨てた。剣が鞘(さや)の中で、微かに鳴る。

久遠(くおん)が続けた。「掃除屋だ。理(ことわり)が記録を削るために放つ、最も容赦のない風」

あさひの姿勢が変わる。  足先から頭のてっぺんまで、一本の鉄線(てっせん)が通ったように。  こよいが何度も見てきた、「本気」の構えだった。あさひの呼吸が深くなり、吐く息が白く霧(きり)に溶けた。

久遠(くおん)も目録(もくろく)を左脇に挟み、義眼(ぎがん)を戦闘解析の焦点に切り替える。  蒼光(そうこう)が鋭く伸び、闇を刻んだ。光の先端が闇の中で何かに触れ、弾かれた。

「……来る。もう、すぐ側まで来てる!」

こよいが叫ぶ。  巾着(きんちゃく)を抱え込み、神々の温もりを全身へ巡らせようとした。掌(てのひら)の中で神々が熱を持ち、腕を伝って肩まで昇る。

風が髪を乱し、光の粒が肌を叩く。  目を開け続けるだけで痛い。粒子が涙腺を刺激し、視界が滲(にじ)んだ。

それでも、こよいは目を閉じなかった。  閉じれば見失う。  見失えば、自分の輪郭(りんかく)ごと削られる。

神々がひときわ強く脈打った。  温もりが盾のように身体を包み、風の刃を少しだけ和らげる。

あさひが大地を蹴った。  一瞬だけ、柄(つか)を握る手が止まった。風の中に名前の粒子が混じっている。斬れば、名前ごと散る。  それでも、剣が抜ける音が闇を裂いた。  白銀の軌跡が、風の壁を真っ二つに割った。

衝撃が回廊(かいろう)を伝い、石畳(いしだたみ)の継ぎ目から粉塵(ふんじん)が噴き上がる。回廊(かいろう)の床が一瞬だけ撓(たわ)み、欄干(らんかん)の石が細かく震えた。

だが、風は死ななかった。  断たれた風の壁が左右に分かれ、欄干(らんかん)を越えて回り込んでくる。削る音が両側から迫った。石が薄く削がれ、粉が舞う。こよいの袖口が風にかすめられ、布の端が音もなく解けて消えた。切れたのではない。布であったという記録ごと、削られたのだ。  背筋が凍った。  足首に、ふ、と温かいものが触れた。おたまだった。刃のような風の中で毛一本乱さず、こよいの足に身体を寄せている。その温もりで、揺れかけていた輪郭(りんかく)が定まった。

「こよい、温度を寄越せ!」

叫んだあさひの左腕を、回り込んだ風の別筋が掠(かす)めた。布が裂け、血が細い線を引く。それでも、あさひの声は揺れなかった。こよいは巾着(きんちゃく)を両手で掲げ、神々の熱を解き放つ。温もりが回廊(かいろう)に薄い膜を張り、風の刃が鈍った。その一瞬を、白銀の軌跡が二度、貫いた。

久遠(くおん)の蒼光(そうこう)が、その隙間の向こうを読む。  あさひが切り拓(ひら)き、久遠(くおん)が読み解き、こよいが繋(つな)ぐ。  三人の役割が、言葉なしで噛み合っていた。

風が、ほどけた。こよいの耳に、自分の心臓の音が戻ってきた。戦いの間は聞こえなかった。心臓が鳴っている。まだ動いている。それだけのことが、深い安堵(あんど)になった。

あさひが左腕の傷口を一瞥(いちべつ)もせず、柄(つか)を握り直して笑った。

「……立てるな。なら歩ける」

こよいが頷(うなず)く。唇の端が乾いていた。  久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸に抱えた。蒼光(そうこう)が再び細く灯り、三人の足元だけを照らした。

三人は回廊(かいろう)の奥へ歩き出す。

背後で灯籠(とうろう)の炎がひとつずつ遠ざかり、前方には果てない闇が続く。回廊(かいろう)の石が足の下で軋(きし)み、掃除屋との戦いで入った罅(ひび)が靴底を通じて伝わった。橋はまだ持つ。だが永遠ではない。  それでも歩みは止まらない。

風鈴の音が薄れ、代わりに三人の足音だけが響いた。三つの足音が不揃いなまま、それでも同じ方角へ向かっている。その不揃いさが、こよいには心強かった。  こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当て、神々の脈に自分の鼓動を重ねる。

温もりが指先から胸の奥へ広がった。  怖くないわけじゃない。  それでも、ここまで来た。

書庫(しょこ)に眠る無数の先人たちが辿(たど)り着けなかった先へ。術式(じゅつしき)の欠けた条件の答えへ。  自分たちは行く。

闇の奥に、ほんの微かな光が見えた気がした。  錯覚かもしれない。  答えの欠片(かけら)かもしれない。

闇の底で、風鈴が最後にひとつだけ鳴った。

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