書庫を出た三人は、中陵の最果てにある「理の回廊」へ辿り着いた。
ここまで来るあいだに、霧の密度は一歩ごとに増していた。 視界は腕の長さほどしかない。 足元の石畳さえ、霧の底へ沈んで見えなくなる瞬間がある。自分の足がどこを踏んでいるのか、感覚だけが頼りだった。石の冷たさが靴底を突き抜け、足裏に染みる。
あさひが先頭を歩き、剣の鞘の先で地面を叩いて道を確かめた。 乾いた打音だけが、三人を繋ぐ糸になる。三歩目で音が僅かに高くなれば、石の材質が変わった合図だ。あさひは言葉にしないが、音で全てを伝えていた。
久遠は最後尾で目録を胸に抱え、義眼の蒼光を最小限に絞っていた。 この濃さでは、蒼光が霧の粒に乱反射し、かえって周囲が見えなくなるのだ。
こよいは、あさひの背中と久遠の気配を頼りに歩いた。 巾着の中で雨の神が細く脈打つ。雨の神の温もりが揺れ、風の神が低い渦を立てている。脈の間隔が、歩くごとに短くなっている。 この先に、何かが待っている。
霧が不意に晴れた。一歩を境に、白い壁が左右に割れる。 回廊は、深淵の上に掛かった細い橋だった。 幅は三人が並んで歩ける程度。 左右に欄干はあるが、その向こうは底の見えない闇だ。
欄干の灯籠が不自然に明滅するたび、光の粒が雪のように降る。 風鈴の音は、世界の終わりを告げる細い悲鳴みたいに響いた。
近づいたと思った音が遠ざかり、遠いと思った音がすぐ耳元へ戻る。 回廊そのものが、奥行きを偽っていた。こよいは距離を測ることを諦め、あさひの鞘が石を打つ音だけを信じることにした。
久遠は目録を開き、座標を拾おうとした。だが自分で書き戻した文字さえ、蒼光に触れた端から紙の奥へ沈んでいく。
光の筋さえ、途中で屈折してあらぬ方角へ曲がった。 真っ直ぐ進めない場所だ。こよいは足元を見た。自分の影が、灯籠の光で二つに割れている。一つは前へ、もう一つは欄干の向こうの闇へ伸びていた。どちらが本物の影なのか、一瞬だけ分からなくなる。
久遠が義眼の出力を上げる。 蒼光が一瞬だけ強まり、回廊の先に何かの輪郭を捉えかけた。 だが次の瞬間、闇がそれを呑み込んだ。久遠の肩が僅かに強張る。
こよいは欄干に手をかけ、前を見通そうとした。 灯籠の青白い光は点々と続き、ある地点から先で闇に呑まれていた。
あさひが足を止め、鼻先を上げる。 猟犬みたいに、空気の匂いを嗅いだ。
そのとき、風が変わる。
それまでの湿った風ではない。 横殴りの、刃みたいに鋭い風が三人の頬を打った。肌の表面が切れたかと思うほどの冷たさだった。こよいの髪が横へ流れ、巾着の紐が首筋に食い込む。
灯籠の炎がいっせいに傾き、いくつかは吹き消える。 回廊の闇が一段深くなった。
足元から冷気が噴き上がる。 深淵が息を吸い込んでいる。 そして、その息と一緒に、何かが底から這い上がってくる。地鳴りとも唸りともつかない低い振動が石を伝い、こよいの足裏を痺れさせた。
神々が巾着の中で急速に脈を速め、警告を打つ。四柱の鼓動がばらばらに乱れ、こよいの胸の奥で不協和音のように軋んだ。
「……来やがった」
あさひが低く吐き捨てた。剣が鞘の中で、微かに鳴る。
久遠が続けた。「掃除屋だ。理が記録を削るために放つ、最も容赦のない風」
あさひの姿勢が変わる。 足先から頭のてっぺんまで、一本の鉄線が通ったように。 こよいが何度も見てきた、「本気」の構えだった。あさひの呼吸が深くなり、吐く息が白く霧に溶けた。
久遠も目録を左脇に挟み、義眼を戦闘解析の焦点に切り替える。 蒼光が鋭く伸び、闇を刻んだ。光の先端が闇の中で何かに触れ、弾かれた。
「……来る。もう、すぐ側まで来てる!」
こよいが叫ぶ。 巾着を抱え込み、神々の温もりを全身へ巡らせようとした。掌の中で神々が熱を持ち、腕を伝って肩まで昇る。
風が髪を乱し、光の粒が肌を叩く。 目を開け続けるだけで痛い。粒子が涙腺を刺激し、視界が滲んだ。
それでも、こよいは目を閉じなかった。 閉じれば見失う。 見失えば、自分の輪郭ごと削られる。
神々がひときわ強く脈打った。 温もりが盾のように身体を包み、風の刃を少しだけ和らげる。
あさひが大地を蹴った。 一瞬だけ、柄を握る手が止まった。風の中に名前の粒子が混じっている。斬れば、名前ごと散る。 それでも、剣が抜ける音が闇を裂いた。 白銀の軌跡が、風の壁を真っ二つに割った。
衝撃が回廊を伝い、石畳の継ぎ目から粉塵が噴き上がる。回廊の床が一瞬だけ撓み、欄干の石が細かく震えた。
だが、風は死ななかった。 断たれた風の壁が左右に分かれ、欄干を越えて回り込んでくる。削る音が両側から迫った。石が薄く削がれ、粉が舞う。こよいの袖口が風にかすめられ、布の端が音もなく解けて消えた。切れたのではない。布であったという記録ごと、削られたのだ。 背筋が凍った。 足首に、ふ、と温かいものが触れた。おたまだった。刃のような風の中で毛一本乱さず、こよいの足に身体を寄せている。その温もりで、揺れかけていた輪郭が定まった。
「こよい、温度を寄越せ!」
叫んだあさひの左腕を、回り込んだ風の別筋が掠めた。布が裂け、血が細い線を引く。それでも、あさひの声は揺れなかった。こよいは巾着を両手で掲げ、神々の熱を解き放つ。温もりが回廊に薄い膜を張り、風の刃が鈍った。その一瞬を、白銀の軌跡が二度、貫いた。
久遠の蒼光が、その隙間の向こうを読む。 あさひが切り拓き、久遠が読み解き、こよいが繋ぐ。 三人の役割が、言葉なしで噛み合っていた。
風が、ほどけた。こよいの耳に、自分の心臓の音が戻ってきた。戦いの間は聞こえなかった。心臓が鳴っている。まだ動いている。それだけのことが、深い安堵になった。
あさひが左腕の傷口を一瞥もせず、柄を握り直して笑った。
「……立てるな。なら歩ける」
こよいが頷く。唇の端が乾いていた。 久遠は目録を胸に抱えた。蒼光が再び細く灯り、三人の足元だけを照らした。
三人は回廊の奥へ歩き出す。
背後で灯籠の炎がひとつずつ遠ざかり、前方には果てない闇が続く。回廊の石が足の下で軋み、掃除屋との戦いで入った罅が靴底を通じて伝わった。橋はまだ持つ。だが永遠ではない。 それでも歩みは止まらない。
風鈴の音が薄れ、代わりに三人の足音だけが響いた。三つの足音が不揃いなまま、それでも同じ方角へ向かっている。その不揃いさが、こよいには心強かった。 こよいは巾着を胸に押し当て、神々の脈に自分の鼓動を重ねる。
温もりが指先から胸の奥へ広がった。 怖くないわけじゃない。 それでも、ここまで来た。
書庫に眠る無数の先人たちが辿り着けなかった先へ。術式の欠けた条件の答えへ。 自分たちは行く。
闇の奥に、ほんの微かな光が見えた気がした。 錯覚かもしれない。 答えの欠片かもしれない。
闇の底で、風鈴が最後にひとつだけ鳴った。
