列車が「市場の空白」に止まった。
窓の外は、白だった。 何かが見えそうで、何も掴めない白。 その奥に、削り取られた市場の骨組みだけが並んでいる。白は均一ではなかった。濃い場所と薄い場所があり、薄い箇所にだけ石柱の輪郭が浮かんでいる。
車輪が最後に金属音を残して静まり、車内に重い圧が降りた。 空気の重さそのものが変わったみたいで、息を吸うたび胸の内側が冷える。肺に入る空気に質量がない。吸っているのに吸えていないような、奇妙な息苦しさだった。
こよいは窓硝子の煤を手のひらで拭った。掌に黒い跡が残り、硝子の向こうがわずかに透ける。 白い膜の向こうを見ようとしても、輪郭はすぐ崩れる。
石柱が等間隔に立っていた。 灯はひとつもない。 表面には文字の跡が残っているが、ほとんど削られて読めなかった。削られた面は滑らかで、風化ではなく何かの力で一様に均されたように見えた。名前があった場所だけが、わずかに窪んでいる。
ここは、名前ごと廃棄された場所だ。 こよいの喉が乾く。唾を飲み込もうとしたが、喉の奥が張り付いて音がした。名前を失った石柱が並ぶ景色は、書庫の棚を思い出させた。ここには、記録すら残れなかった場所の残骸がある。
久遠は義眼を押さえ、低く言った。
「……見ろ。ここは理によって『廃棄』された場所だ。市場も営みも、空白の穴に吸い込まれた」
蒼光が指の隙間から漏れる。 痛みを堪えているのが分かった。 この密度は、義眼の処理限界を削ってくる。情報がない場所では、義眼は読むべきものがなく、代わりに自分自身の構造を読み始めてしまう。空転する歯車のように、内側から軋んでいた。
それでも久遠は目を逸らさない。 見なければ取りこぼすと知っているからだ。
経蔵の残光を宿した目録の革の器が共鳴し、頁の隙間から黒い霧が薄く吐き出された。 霧は床に落ちると広がり、三人の足元を覆う。冷たくはなかった。だが重い。 黒い霧と白い空白の境界で、細い火花みたいな干渉が走った。黒と白が触れる線が明滅し、そのたびに床の石が微かに震えた。
あさひは無言で剣を構える。 刃先は外の白へ向いていた。 斬る対象が見えないまま、身体だけが先に戦闘へ入っている。左腕の傷が痛むはずだが、構えに揺らぎはなかった。
巾着の中で神々が速く脈打った。 風の神の気配が尖り、雨の神の温度が不安定に揺れる。 四柱がこよいの輪郭を守ろうとしているのが伝わった。神々の力が薄い膜のようにこよいの肌の上を這い、外の空白から隔てようとしている。
「……廃棄って、ここにいた神さまたちは、もう救えないの?」
こよいの声は掠れていた。 問いながら、自分で首を横に振りたくなる。でも、問わずにはいられない。目の前の白が、答えを持っていないことは分かっていた。分かっていて、それでも声に出さなければ、自分の中にある何かが黙り込んでしまう。
白の中で、何かがちらついた。 こよいは目を凝らした。 少女だった。 淡い着物に、短い羽織。白の中に膝を折り、何かを一粒ずつ拾っている。拾ったものを、肩に掛けた鞄へ丁寧に落としていく。その手つきには迷いがなかった。空白に怯えてもいない。ずっと昔から、そこで同じ仕事を続けてきたような背中だった。
「……ねえ、あの子——」
言いかけた瞬間、少女が顔を上げた。 黒い髪が揺れ、大きな目がまっすぐにこよいを見た。見られている、と思うより先に、りん、と澄んだ音が白を渡ってきた。灯見町の穴の底で聞いたのと、同じ音。 瞬きの間に、少女はいなかった。 残るのは、空洞だけだ。誰かがいた場所に、何もない穴だけが残っている。 おたまだけが、少女のいた白を、まだじっと見つめていた。
あさひが低く息を吐いた。 構えが攻撃から警戒に変わる。 目の前にいるのは斬れる敵ではない。空白そのものだ。あさひの剣が微かに下がり、刃先が床と平行になった。斬れないものに刃を向け続けることの無意味を、身体が先に悟っている。
久遠が言い切る。
「呼ぶな。名を呼んだ瞬間、お前の中の『本当の名前』も一緒に滑り落ちる」
こよいは口を開きかけて、唇を噛んだ。 ほんの一瞬、呼びかけようとしていた。あの少女に向かって、声を投げようとした。名前は分からない。けれど、何か言えば届くのではないかという衝動が、胸の底から突き上げてきたのだ。
名前が落ちる。 それは、こよいという輪郭が抜けることだ。 自分が自分でなくなる想像が、背骨を冷たく撫でた。書庫で見た記録を思い出す。あの綴じ本の最後の頁に残った「もう」の二文字。名前を失うとは、ああなることだ。
扉の外へ出るのは、まだ早い。 こよいは扉の縁に手をかけ、白い空間を見つめた。風はない。音もない。ただ白だけが、どこまでも均質に広がっている。この白の中に踏み出したら、自分の足跡さえ残らないだろう。 三人は扉を閉め、座席へ退いた。
列車は動かない。窓の外の白が、じわりと車内に滲み始めているように見えた。壁の隅に、うっすらと白い膜が張っている。気のせいかもしれない。けれど気のせいだと断じることも、この場所ではできなかった。 停車場の白に呑まれまいとするみたいに、車体の奥で金属が微かに軋んでいた。車体そのものが耐えている。鉄の骨組みが空白の圧に押され、細い悲鳴を上げ続けている。
こよいは巾着を胸に抱え、座席に腰を下ろす。 手の中の温もりだけが、ここに在る実感を繋いでくれる。座席の木は先ほどより冷たくなっていた。空白の冷気が車内にも忍び込んでいる。だが巾着の温もりは変わらなかった。
久遠は義眼を閉じ、額に手を当てていた。蒼光を消した顔は、ふだんより幼く見える。処理限界を超えた負荷が、義眼の奥で鈍く燻っているのだろう。 あさひは座席の端に座り、左腕を庇いながら壁にもたれていた。目は開いている。白い窓の外をじっと見据えていたが、何かを見ているのではなく、見えないものに備えている目だった。 風が一度だけ、車両の隙間を通り抜けて鳴いた。 胸の灯が小さく震える。
それでも消えない。原初の術式の答えも、この白の向こうにあるはずだ。 そして——あの少女。呼んではいけない場所で、拾うことだけをしていた、あの手。 『拾う手が、まだ残っている』。書庫の帳面の一行が、胸の奥で疼いた。
こよいは目を閉じなかった。 久遠の蒼光と、あさひの呼吸音と、巾着の脈だけを数える。 それが、この白を越えるための、いまの三人の手順だった。
列車の鉄骨が、もう一度だけ軋んだ。 堪えている音だった。
