第137話 市場の空白
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第137話 市場の空白

第5章 名の漂い

列車が「市場(いちば)の空白(くうはく)」に止まった。

窓の外は、白だった。  何かが見えそうで、何も掴(つか)めない白。  その奥に、削り取られた市場(いちば)の骨組みだけが並んでいる。白は均一ではなかった。濃い場所と薄い場所があり、薄い箇所にだけ石柱の輪郭(りんかく)が浮かんでいる。

車輪が最後に金属音を残して静まり、車内に重い圧(あつ)が降りた。  空気の重さそのものが変わったみたいで、息を吸うたび胸の内側が冷える。肺に入る空気に質量(しつりょう)がない。吸っているのに吸えていないような、奇妙な息苦しさだった。

こよいは窓硝子(まどがらす)の煤(すす)を手のひらで拭(ぬぐ)った。掌(てのひら)に黒い跡が残り、硝子(ガラス)の向こうがわずかに透ける。  白い膜(まく)の向こうを見ようとしても、輪郭(りんかく)はすぐ崩れる。

石柱が等間隔に立っていた。  灯はひとつもない。  表面には文字の跡(あと)が残っているが、ほとんど削られて読めなかった。削られた面は滑らかで、風化ではなく何かの力で一様に均(なら)されたように見えた。名前があった場所だけが、わずかに窪(くぼ)んでいる。

ここは、名前ごと廃棄(はいき)された場所だ。  こよいの喉が乾く。唾(つば)を飲み込もうとしたが、喉の奥が張り付いて音がした。名前を失った石柱が並ぶ景色は、書庫(しょこ)の棚を思い出させた。ここには、記録すら残れなかった場所の残骸(ざんがい)がある。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を押さえ、低く言った。

「……見ろ。ここは理(ことわり)によって『廃棄(はいき)』された場所だ。市場(いちば)も営みも、空白の穴に吸い込まれた」

蒼光(そうこう)が指の隙間から漏れる。  痛みを堪(こた)えているのが分かった。  この密度は、義眼(ぎがん)の処理限界を削ってくる。情報がない場所では、義眼(ぎがん)は読むべきものがなく、代わりに自分自身の構造を読み始めてしまう。空転する歯車のように、内側から軋(きし)んでいた。

それでも久遠(くおん)は目を逸らさない。  見なければ取りこぼすと知っているからだ。

経蔵(きょうぞう)の残光を宿した目録(もくろく)の革の器が共鳴し、頁(ページ)の隙間から黒い霧(きり)が薄く吐き出された。  霧(きり)は床に落ちると広がり、三人の足元を覆う。冷たくはなかった。だが重い。  黒い霧(きり)と白い空白の境界で、細い火花みたいな干渉が走った。黒と白が触れる線が明滅し、そのたびに床の石が微かに震えた。

あさひは無言で剣を構える。  刃先は外の白へ向いていた。  斬る対象が見えないまま、身体だけが先に戦闘へ入っている。左腕の傷が痛むはずだが、構えに揺らぎはなかった。

巾着(きんちゃく)の中で神々が速く脈打った。  風の神の気配が尖(とが)り、雨の神の温度が不安定に揺れる。  四柱(よはしら)がこよいの輪郭(りんかく)を守ろうとしているのが伝わった。神々の力が薄い膜のようにこよいの肌の上を這い、外の空白から隔てようとしている。

「……廃棄(はいき)って、ここにいた神さまたちは、もう救えないの?」

こよいの声は掠(かす)れていた。  問いながら、自分で首を横に振りたくなる。でも、問わずにはいられない。目の前の白が、答えを持っていないことは分かっていた。分かっていて、それでも声に出さなければ、自分の中にある何かが黙り込んでしまう。

白の中で、何かがちらついた。  こよいは目を凝らした。  少女だった。  淡い着物に、短い羽織。白の中に膝を折り、何かを一粒ずつ拾っている。拾ったものを、肩に掛けた鞄へ丁寧に落としていく。その手つきには迷いがなかった。空白に怯(おび)えてもいない。ずっと昔から、そこで同じ仕事を続けてきたような背中だった。

「……ねえ、あの子——」

言いかけた瞬間、少女が顔を上げた。  黒い髪が揺れ、大きな目がまっすぐにこよいを見た。見られている、と思うより先に、りん、と澄んだ音が白を渡ってきた。灯見町(とうみまち)の穴の底で聞いたのと、同じ音。  瞬きの間に、少女はいなかった。  残るのは、空洞(くうどう)だけだ。誰かがいた場所に、何もない穴だけが残っている。  おたまだけが、少女のいた白を、まだじっと見つめていた。

あさひが低く息を吐いた。  構えが攻撃から警戒に変わる。  目の前にいるのは斬れる敵ではない。空白そのものだ。あさひの剣が微かに下がり、刃先が床と平行になった。斬れないものに刃を向け続けることの無意味を、身体が先に悟っている。

久遠(くおん)が言い切る。

「呼ぶな。名を呼んだ瞬間、お前の中の『本当の名前』も一緒に滑り落ちる」

こよいは口を開きかけて、唇を噛(か)んだ。  ほんの一瞬、呼びかけようとしていた。あの少女に向かって、声を投げようとした。名前は分からない。けれど、何か言えば届くのではないかという衝動が、胸の底から突き上げてきたのだ。

名前が落ちる。  それは、こよいという輪郭(りんかく)が抜けることだ。  自分が自分でなくなる想像が、背骨を冷たく撫(な)でた。書庫(しょこ)で見た記録を思い出す。あの綴(つづ)じ本の最後の頁(ページ)に残った「もう」の二文字。名前を失うとは、ああなることだ。

扉の外へ出るのは、まだ早い。  こよいは扉の縁(ふち)に手をかけ、白い空間を見つめた。風はない。音もない。ただ白だけが、どこまでも均質(きんしつ)に広がっている。この白の中に踏み出したら、自分の足跡(あしあと)さえ残らないだろう。  三人は扉を閉め、座席へ退いた。

列車は動かない。窓の外の白が、じわりと車内に滲(にじ)み始めているように見えた。壁の隅(すみ)に、うっすらと白い膜(まく)が張っている。気のせいかもしれない。けれど気のせいだと断じることも、この場所ではできなかった。  停車場(ていしゃじょう)の白に呑(の)まれまいとするみたいに、車体の奥で金属が微かに軋(きし)んでいた。車体そのものが耐えている。鉄の骨組みが空白の圧(あつ)に押され、細い悲鳴を上げ続けている。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱え、座席に腰を下ろす。  手の中の温もりだけが、ここに在る実感を繋(つな)いでくれる。座席の木は先ほどより冷たくなっていた。空白の冷気が車内にも忍び込んでいる。だが巾着(きんちゃく)の温もりは変わらなかった。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を閉じ、額に手を当てていた。蒼光(そうこう)を消した顔は、ふだんより幼く見える。処理限界を超えた負荷が、義眼(ぎがん)の奥で鈍く燻(くすぶ)っているのだろう。  あさひは座席の端に座り、左腕を庇(かば)いながら壁にもたれていた。目は開いている。白い窓の外をじっと見据えていたが、何かを見ているのではなく、見えないものに備えている目だった。  風が一度だけ、車両の隙間を通り抜けて鳴いた。  胸の灯(ともしび)が小さく震える。

それでも消えない。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の答えも、この白の向こうにあるはずだ。  そして——あの少女。呼んではいけない場所で、拾うことだけをしていた、あの手。  『拾う手が、まだ残っている』。書庫(しょこ)の帳面の一行が、胸の奥で疼(うず)いた。

こよいは目を閉じなかった。  久遠(くおん)の蒼光(そうこう)と、あさひの呼吸音と、巾着(きんちゃく)の脈だけを数える。  それが、この白を越えるための、いまの三人の手順だった。

列車の鉄骨が、もう一度だけ軋(きし)んだ。  堪(こら)えている音だった。

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