第134話 失敗の書庫
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第134話 失敗の書庫

第5章 名の漂い

広場の裏手に、小さな書庫(しょこ)があった。  石造りの壁は霧(きり)に半ば溶け、木の扉の漆(うるし)は罅割(ひびわ)れている。

取っ手の金具だけが不釣り合いに新しい。  誰かが最近まで使っていた痕跡(こんせき)だ。金具の表面には指の脂(あぶら)の跡が薄く残り、何度も同じ手が同じ場所を掴(つか)んだことを伝えている。

あさひが扉の枠を叩(たた)き、木の厚みを確かめた。  乾いた音が霧(きり)に吸われ、すぐに消える。敵意のある気配はない。

あさひは顎(あご)で、こよいに先を促す。  扉を押すと、古い紙の匂いが溢(あふ)れ出した。  黴(かび)と墨(すみ)と、ほのかに甘い蝋(ろう)の匂い。  夜を徹して記録と格闘した者たちの気配が、匂いとなって澱(よど)んでいる。こよいは思わず息を浅くした。

書庫(しょこ)の中には、失敗の記録が山のように積まれていた。  棚は天井近くまで届き、棚板が紙の重みで撓(たわ)んでいる。板と板の隙間から、白い埃(ほこり)の筋が幾重にも垂れていた。

巻物(まきもの)、綴(つづ)じ本、貼り合わせた紙片の束。  分類されることなく、諦めの果てに放り込まれたように詰め込まれている。  こよいは一冊の綴(つづ)じ本を手に取った。紙は乾ききって軽い。

表紙には名前が書かれていたはず。  だが、その部分だけが焼けたように消失し、茶色い染みだけが残っていた。名前のあった場所を指でなぞると、紙の凹凸(おうとつ)だけがかすかに残っている。筆圧の跡だ。名前を書いた人の力加減が、紙に刻まれたまま消えずにいた。  頁(ページ)をめくると、最初の数枚には几帳面(きちょうめん)な筆跡で座標(ざひょう)と方角が記されていた。

だが途中から字が乱れ始め、最後の頁(ページ)には「もう」とだけ書かれて途切れていた。  こよいは綴(つづ)じ本をそっと棚に戻した。  指先に紙の粉が付いた。払おうとして、やめた。この粉は、誰かの記録の欠片(かけら)だ。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を広げ、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)で書庫(しょこ)の記録を走査(そうさ)していた。  光が棚の間を這(は)い、積まれた記録の束を一つずつ撫(な)でていく。

「……全て、欠けている」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。声に感情はなかったが、蒼光(そうこう)の揺らぎがわずかに乱れていた。

義眼(ぎがん)が指し示す先には、棚の奥に押し込まれた記録の束があった。  頁(ページ)の端が内側から焼失し、穴が空いている。  理(ことわり)の力で座標(ざひょう)を固定(こてい)しようとした者たちの記録だった。

固定(こてい)を試みた数だけ、頁(ページ)に穴が開いている。

「この書庫(しょこ)にある記録は、全て同じ結末だ。理(ことわり)の中心を定めようとした者たちが、一人残らず欠けに呑(の)まれている」

「欠け……」

「見たとおりだ。中心は動く。固定(こてい)しようとすれば、固定(こてい)しようとした者のほうが壊れる」

こよいは棚を見回した。

天井に届くほどの記録の山。  その全てが失敗の記録だった。  何十人、何百人もの人がここで同じことを試み、同じように消えていった。棚の一つ一つが墓標(ぼひょう)のようだった。こよいの胸に、鈍い痛みが広がる。この記録を残すために最後の力を振り絞った誰かがいた。その事実が、紙の重さとなって書庫(しょこ)の空気を押し下げている。

「……この人たちも、理(ことわり)を直そうとしたんだ」

「ああ。ここに残っているのは、その敗者たちの日記だ」

久遠(くおん)は一本の巻物(まきもの)を広げた。  蒼光(そうこう)が文字を照らすと、行間に小さな穴が無数に見えた。  穴の縁(ふち)は焦げていた。蒼光(そうこう)が穴を通り抜け、棚の奥の壁に小さな光の点を落とした。星のようだった。けれどその光は、誰かが消えた跡(あと)だ。

「書くことで理(ことわり)に干渉し、干渉した分だけ自分の記録を消費している。書けば書くほど自分が減っていく。だが書かなければ何も変えられない」

あさひは棚に背を預け、腕を組んでいた。  組んだ腕の下で、剣の柄(つか)に指が触れている。考えるときの癖だった。

「……じゃあ、俺たちも同じなのか」

「同じ轍(てつ)を踏むかどうかは分からん。だが、この書庫(しょこ)が警告しているのは確かだ」

こよいはさっき手に取った綴(つづ)じ本のことを思い出した。「もう」と書いて途絶えた最後の頁(ページ)。  あの人は、書くことの代償(だいしょう)に耐えられなくなったのだろう。

けれど書くのを止めることもできなくて、最後に残った力で二文字だけを紙に刻んだ。「もう」の後に続くはずだった言葉を、こよいは想像しない。想像すれば、その重さに足を取られる。  巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が微かに脈打った。  中陵(ちゅうりょう)に来てからほとんど動かなかった神々が、書庫(しょこ)の中で反応している。

失敗の記録の中に、神々が感じ取る何かがあるのかもしれなかった。あるいは、同じように消えていった存在への共鳴だろうか。こよいには分からない。けれど掌(てのひら)に伝わる脈拍は、確かに速くなっていた。

おたまが、棚の一角で足を止めた。  低い段の奥を見つめて動かない。こよいが屈(かが)んで覗くと、綴(つづ)じ紐の切れた薄い帳面が一冊、他の記録の下敷きになっていた。引き出すと、表紙に名前はなく、ただ一行だけ書かれていた。

『固定は要らない。拾う手が、まだ残っている』

筆跡は柔らかく、迷いがなかった。失敗の記録の山の中で、それだけが敗北の匂いをまとっていなかった。

「……久遠(くおん)くん、これ」

久遠(くおん)が蒼光(そうこう)を紙面に落とし、僅かに眉を上げた。

「……墨が新しい。この書庫(しょこ)の記録より、ずっと後に書き足されたものだ。拾う手、か。……拾うだけでは、還(かえ)せない。だが還す前には、誰かが拾っていなければならない」

灯見町(とうみまち)の穴の、新しい彫り口。こよいの胸の奥で、二つの痕跡(こんせき)が静かに重なった。  久遠(くおん)は、記憶から書き戻した頁(ページ)と書庫(しょこ)の記録を照合し続けていた。  蒼光(そうこう)が頁(ページ)を走るたびに、書き戻した文字と書庫(しょこ)の文字が一瞬だけ重なり、すぐに離れる。

一致する記録を探しているのだ。こよいは久遠(くおん)の横顔を見つめた。蒼光(そうこう)に照らされた頬は青白く、まるで書庫(しょこ)の紙のように色がなかった。

「……灯見町(とうみまち)の穴の名前との関連は?」

こよいが訊(き)いた。

「まだ分からん。だが、この書庫(しょこ)の記録と灯見町(とうみまち)の名前は、同じ時代のものだ。この場所に記録を残した者たちは、灯見町(とうみまち)のことを知っていた可能性が高い」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。

蒼光(そうこう)が消え、書庫(しょこ)は薄暗がりに戻った。紙と黴(かび)の匂いだけが、変わらずそこにあった。

「ここだけでは足りない。もっと深い場所に、核になる記録があるはずだ」

「深い場所?」

「回廊(かいろう)の先だ。中陵(ちゅうりょう)の最果てに、理(ことわり)の継ぎ目そのものが露出している場所がある」

こよいは書庫(しょこ)の入口に向かいながら、もう一度だけ棚を振り返った。  何百もの失敗が積み上げられた場所。  空白だらけの頁(ページ)。

欠け落ちた文字の跡(あと)。

この場所は墓であり、同時に、ここまでの地図でもあった。敗者たちが身を削って残した記録が、後から来る者への道標(みちしるべ)になっている。その皮肉が、こよいの胸に重く沈んだ。  先は、自分たちの足で歩くしかない。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の第三条件——還す者の手(て)も、この敗者たちの記録の先にあるはずだ。

三人は書庫(しょこ)を出た。  広場の霧(きり)が、冷たく頬を打った。書庫(しょこ)の中に籠(こも)っていた古い空気が背中から剥がれ、代わりに湿った冷気が肌を包んだ。こよいは一度だけ深く息を吸い、指先に残った紙の粉を見つめた。

まだ、ここにある。

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