霞見台の急な石段を下り切ると、道は広場へ吸い寄せられるように曲がっていた。 石畳の継ぎ目から草が出ている。けれど色がない。灰白い茎が地面に張りつき、踏むと乾いた繊維の感触だけが残った。
道の両側には低い石壁が続き、灯籠は倒れたまま折れている。 誰かが壊したのではない。壊れるほど長く、ここで支えが抜け落ちたのだ。灯籠の断面は滑らかだった。力で折れたのではなく、石の内側から粘りが消えて、自重に耐えられなくなったのだろう。こよいは折れた灯籠の笠を避けて歩いた。笠の裏側に、何か刻まれていた痕跡があった。文字だったのか紋様だったのか、灰に埋もれて判別できない。
こよいは前を行くあさひの背を追って、広場へ入った。あさひの肩幅の広い背中が、灰色の景色の中で唯一はっきりとした輪郭を持っていた。その背を見失わないように、こよいは歩幅を合わせた。
入った瞬間、空気が変わる。
それまで均一に冷えていた空気に、温度の斑が生まれた。右の頬は冷たいのに左の頬は僅かに温い。鼻腔に入る匂いも混じり合い、灰の乾いた粉臭さの下に、古い墨と、蝋が溶けたときの甘い匂いがかすかに漂っていた。
屋台が並んでいた。 幟が風もないのに揺れ、湯気のようなものが細く立ち上っている。 だが近づくと、それは湯気ではない。理の継ぎ目から漏れた、欠片みたいな情報だった。
屋台の奥に立つ影は、顔が見えない。 見ようとするほど輪郭が滲み、視線から逃げるように薄くなる。影の手元で何かが動いている。道具を使う仕草だが、道具そのものが見えない。手だけが宙を掴む動作を繰り返していた。名前を失った後も、動作だけが残っている。記憶の残滓が、主のいない身体を動かし続けているのだ。
「……ここ、居るのに居ないな」
あさひが低く言った。言葉の端に、苛立ちではなく困惑が滲んでいた。斬れる敵なら身構えればいい。だがここにあるのは、存在の残滓だった。
久遠は答えず、義眼を灯し、広場の地面を走査する。 蒼光が石畳を撫でると、灰が一瞬だけ散り、すぐまた降り積もって隠した。
蒼光が照らす石畳の表面に、薄い溝が走っているのが見えた。水の流れた跡ではない。文字が刻まれ、刻まれた文字が風化し、溝だけが残ったものだった。何が書かれていたのか、もう誰にも読めない。
広場の中央に、低い井戸があった。 黒く変色した石の縁に、無数の掌の跡が残っている。 大きい手、小さい手。こよいの手より小さな跡もあった。石の表面が掌の形に僅かに凹んでいる。一度や二度触れたのではない。何度も何度も、同じ場所に同じ手が触れ続けたのだ。
こよいは思わず、自分の手を重ねそうになる。
巾着の中で神々が冷たく震えた。 触るな、と言われた気がして、こよいは指先を止めた。指が井戸の縁から三寸のところで宙に浮いている。石から立ち上る冷気が指の腹に触れ、皮膚の下の血が引くのが分かった。
井戸の縁には、円を描くような刻みが並んでいる。 けれど最後のひとつだけが欠け落ち、そこから冷気が、一定の間隔で吐き出されていた。 欠けた断面は鋭い。噛み千切られたみたいに。
こよいは井戸の中を覗き込んだ。底は見えない。蒼光の青い光が届かないほど深く、闇がとろりとした質感で蠢いている。闇というより、記録が溶け合って液体のようになったものに見えた。
久遠が呟く。
「……中心が定まってない。だから欠ける」
こよいの胸に、重い石が置かれたみたいに沈んだ。 原初の術式に足りない第三の条件——その手がかりが、こんな底のない場所に沈んでいるのだとしたら。 中心が動くなら、足場はいつまでも落ち着かない。こよいは灯見町の穴を思い出した。あの穴は深かったけれど、底はあった。名前が並び、守られていた。けれどこの井戸には底がない。守るものも、守られるものも、全てが沈み続けている。
久遠は井戸の縁から一歩離れ、記憶から座標を書き戻した頁を胸の高さに掲げた。 義眼の蒼光が井戸の底へ伸びる。光は反射せず、闇に吸い込まれていった。
頁の上で座標が点滅する。 値が跳ねる。結論に収束しない。蒼光が明滅し、久遠の眉間に縦皺が刻まれた。目録の頁が風もないのに捲れ、文字が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。読むべき情報が定まらないのだ。
あさひが舌打ちする。
「……ここが中心だって? 理が、嘘を吐いてる」
握った柄が軋み、金属が小さく鳴った。 あさひの目は井戸ではなく、周囲の建物の影を睨んでいる。 影が不自然に伸び縮みし、広場の輪郭が揺れた。屋台の影が長く伸び、石畳の上を這い、三人の足元に触れようとしている。あさひが一歩踏み出すと、影は水溜まりのように退いた。
こよいは二人のやり取りを聞きながら、井戸の縁の掌の跡を見つめていた。この跡を残した人たちも、何かを取り戻そうとしていたのだろうか。何度も何度も手を伸ばし、届かないまま、それでも触れ続けた。 こよいは井戸へ一歩近づいた。 冷気が足首から這い上がってくる。 神々が脈打ち、冷たさと温もりが身体の中でぶつかった。胸の中心で二つの温度がせめぎ合い、こよいの呼吸が浅くなる。
「……嘘でもいい」
こよいは言った。声は小さかったが、芯があった。広場の空気が声を吸い込もうとしたが、今度は奪い切れなかった。
「この底から、本当の『名前』を、引き上げればいい」
久遠がすぐに言い返す。
「呼ぶな。名を呼んだ瞬間、こっちが先に削られる」
警告は二度目だった。 昨夜も聞いた。 それでも、もう一度言ったということは、久遠自身が禁忌の縁に立っている証でもある。久遠の声にも、僅かな揺れがあった。義眼の蒼光が一瞬だけ瞬く。疲労か、それとも迷いか。
こよいは唇を結ぶ。唇の裏側で、呼びかけたい名前が幾つも渦を巻いている。雨の神、風の神、月の神、硝子の神。あの神々の本当の名前を、こよいはまだ知らない。知らないのに、取り戻したいと思っている。
呼ばない。 けれど、取り戻す。
その両方をやる方法を、この井戸の底で見つける。矛盾していると分かっている。それでも、諦めるという選択肢は、こよいの中にはなかった。
風が止まった。 広場が静まり返る。屋台の幟が糸を切られたように垂れ、影が足元から遠ざかる。
灰が降る音が、耳の底で微かに聞こえた気がした。気のせいかもしれない。けれど、広場が一段深い静けさに沈んだのは確かだった。 三人の影が石畳の上で重なり、ひとつの形になった。 薄くても、それはまだ、確かに在った。
おたまが、音もなく井戸の縁に跳び乗った。 神々が触るなと震えた石の上に、猫は平然と座り、底を覗き込んでいる。
井戸の底から、微かな風が吹き上がった。 こよいの前髪が揺れる。
冷たくない。 どこか懐かしい温もりが混じっていた。巾着の中で、沈黙していた神々が一つ、ほんの微かに脈打った。井戸の底の風に応えたのか、それとも、こよいの覚悟に応えたのか。
名前を持たないものが、最後に吐いた息みたいだった。 こよいはその風を吸い込み、胸の奥に留めた。
