第133話 霞見台の井戸
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第133話 霞見台の井戸

第5章 名の漂い

霞見台(かすみだい)の急な石段を下り切ると、道は広場へ吸い寄せられるように曲がっていた。  石畳(いしだたみ)の継ぎ目から草が出ている。けれど色がない。灰白い茎(くき)が地面に張りつき、踏むと乾いた繊維の感触だけが残った。

道の両側には低い石壁が続き、灯籠(とうろう)は倒れたまま折れている。  誰かが壊したのではない。壊れるほど長く、ここで支えが抜け落ちたのだ。灯籠(とうろう)の断面は滑らかだった。力で折れたのではなく、石の内側から粘りが消えて、自重に耐えられなくなったのだろう。こよいは折れた灯籠(とうろう)の笠(かさ)を避けて歩いた。笠(かさ)の裏側に、何か刻まれていた痕跡があった。文字だったのか紋様(もんよう)だったのか、灰(はい)に埋もれて判別できない。

こよいは前を行くあさひの背を追って、広場へ入った。あさひの肩幅の広い背中が、灰色の景色の中で唯一はっきりとした輪郭(りんかく)を持っていた。その背を見失わないように、こよいは歩幅を合わせた。

入った瞬間、空気が変わる。

それまで均一に冷えていた空気に、温度の斑(むら)が生まれた。右の頬は冷たいのに左の頬は僅かに温い。鼻腔(びこう)に入る匂いも混じり合い、灰(はい)の乾いた粉臭さの下に、古い墨(すみ)と、蝋(ろう)が溶けたときの甘い匂いがかすかに漂っていた。

屋台が並んでいた。  幟(のぼり)が風もないのに揺れ、湯気のようなものが細く立ち上っている。  だが近づくと、それは湯気ではない。理(ことわり)の継ぎ目から漏れた、欠片(かけら)みたいな情報だった。

屋台の奥に立つ影は、顔が見えない。  見ようとするほど輪郭(りんかく)が滲(にじ)み、視線から逃げるように薄くなる。影の手元で何かが動いている。道具を使う仕草だが、道具そのものが見えない。手だけが宙を掴む動作を繰り返していた。名前を失った後も、動作だけが残っている。記憶の残滓(ざんし)が、主(あるじ)のいない身体を動かし続けているのだ。

「……ここ、居るのに居ないな」

あさひが低く言った。言葉の端に、苛立(いらだ)ちではなく困惑が滲(にじ)んでいた。斬れる敵なら身構えればいい。だがここにあるのは、存在の残滓(ざんし)だった。

久遠(くおん)は答えず、義眼(ぎがん)を灯し、広場の地面を走査(そうさ)する。  蒼光(そうこう)が石畳(いしだたみ)を撫(な)でると、灰(はい)が一瞬だけ散り、すぐまた降り積もって隠した。

蒼光(そうこう)が照らす石畳(いしだたみ)の表面に、薄い溝が走っているのが見えた。水の流れた跡ではない。文字が刻まれ、刻まれた文字が風化し、溝だけが残ったものだった。何が書かれていたのか、もう誰にも読めない。

広場の中央に、低い井戸(いど)があった。  黒く変色した石の縁(ふち)に、無数の掌(てのひら)の跡が残っている。  大きい手、小さい手。こよいの手より小さな跡もあった。石の表面が掌(てのひら)の形に僅かに凹(くぼ)んでいる。一度や二度触れたのではない。何度も何度も、同じ場所に同じ手が触れ続けたのだ。

こよいは思わず、自分の手を重ねそうになる。

巾着(きんちゃく)の中で神々が冷たく震えた。  触るな、と言われた気がして、こよいは指先を止めた。指が井戸(いど)の縁(ふち)から三寸のところで宙に浮いている。石から立ち上る冷気が指の腹に触れ、皮膚の下の血が引くのが分かった。

井戸(いど)の縁(ふち)には、円を描くような刻みが並んでいる。  けれど最後のひとつだけが欠け落ち、そこから冷気が、一定の間隔で吐き出されていた。  欠けた断面は鋭い。噛み千切られたみたいに。

こよいは井戸(いど)の中を覗き込んだ。底は見えない。蒼光(そうこう)の青い光が届かないほど深く、闇がとろりとした質感で蠢(うごめ)いている。闇というより、記録が溶け合って液体のようになったものに見えた。

久遠(くおん)が呟(つぶや)く。

「……中心が定まってない。だから欠ける」

こよいの胸に、重い石が置かれたみたいに沈んだ。  原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)に足りない第三の条件——その手がかりが、こんな底のない場所に沈んでいるのだとしたら。  中心が動くなら、足場はいつまでも落ち着かない。こよいは灯見町(とうみまち)の穴を思い出した。あの穴は深かったけれど、底はあった。名前が並び、守られていた。けれどこの井戸(いど)には底がない。守るものも、守られるものも、全てが沈み続けている。

久遠(くおん)は井戸(いど)の縁(ふち)から一歩離れ、記憶から座標(ざひょう)を書き戻した頁(ページ)を胸の高さに掲げた。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が井戸(いど)の底へ伸びる。光は反射せず、闇に吸い込まれていった。

頁(ページ)の上で座標(ざひょう)が点滅する。  値が跳ねる。結論に収束しない。蒼光(そうこう)が明滅し、久遠(くおん)の眉間(みけん)に縦皺(たてじわ)が刻まれた。目録(もくろく)の頁(ページ)が風もないのに捲(めく)れ、文字が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。読むべき情報が定まらないのだ。

あさひが舌打ちする。

「……ここが中心だって? 理(ことわり)が、嘘を吐(つ)いてる」

握った柄(つか)が軋(きし)み、金属が小さく鳴った。  あさひの目は井戸(いど)ではなく、周囲の建物の影を睨(にら)んでいる。  影が不自然に伸び縮みし、広場の輪郭(りんかく)が揺れた。屋台の影が長く伸び、石畳(いしだたみ)の上を這(は)い、三人の足元に触れようとしている。あさひが一歩踏み出すと、影は水溜まりのように退(ひ)いた。

こよいは二人のやり取りを聞きながら、井戸(いど)の縁(ふち)の掌(てのひら)の跡を見つめていた。この跡を残した人たちも、何かを取り戻そうとしていたのだろうか。何度も何度も手を伸ばし、届かないまま、それでも触れ続けた。  こよいは井戸(いど)へ一歩近づいた。  冷気が足首から這い上がってくる。  神々が脈打ち、冷たさと温もりが身体の中でぶつかった。胸の中心で二つの温度がせめぎ合い、こよいの呼吸が浅くなる。

「……嘘でもいい」

こよいは言った。声は小さかったが、芯があった。広場の空気が声を吸い込もうとしたが、今度は奪い切れなかった。

「この底から、本当の『名前』を、引き上げればいい」

久遠(くおん)がすぐに言い返す。

「呼ぶな。名を呼んだ瞬間、こっちが先に削られる」

警告は二度目だった。  昨夜も聞いた。  それでも、もう一度言ったということは、久遠(くおん)自身が禁忌(きんき)の縁に立っている証でもある。久遠(くおん)の声にも、僅かな揺れがあった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が一瞬だけ瞬(またた)く。疲労か、それとも迷いか。

こよいは唇を結ぶ。唇の裏側で、呼びかけたい名前が幾つも渦を巻いている。雨の神、風の神、月の神、硝子(びいどろ)の神。あの神々の本当の名前を、こよいはまだ知らない。知らないのに、取り戻したいと思っている。

呼ばない。  けれど、取り戻す。

その両方をやる方法を、この井戸(いど)の底で見つける。矛盾していると分かっている。それでも、諦めるという選択肢は、こよいの中にはなかった。

風が止まった。  広場が静まり返る。屋台の幟(のぼり)が糸を切られたように垂れ、影が足元から遠ざかる。

灰(はい)が降る音が、耳の底で微かに聞こえた気がした。気のせいかもしれない。けれど、広場が一段深い静けさに沈んだのは確かだった。  三人の影が石畳(いしだたみ)の上で重なり、ひとつの形になった。  薄くても、それはまだ、確かに在った。

おたまが、音もなく井戸(いど)の縁(ふち)に跳び乗った。  神々が触るなと震えた石の上に、猫は平然と座り、底を覗き込んでいる。

井戸(いど)の底から、微かな風が吹き上がった。  こよいの前髪が揺れる。

冷たくない。  どこか懐かしい温もりが混じっていた。巾着(きんちゃく)の中で、沈黙していた神々が一つ、ほんの微かに脈打った。井戸(いど)の底の風に応えたのか、それとも、こよいの覚悟に応えたのか。

名前を持たないものが、最後に吐いた息みたいだった。  こよいはその風を吸い込み、胸の奥に留めた。

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