第132話 灰の朝
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第132話 灰の朝

第5章 名の漂い

朝は来なかった。  正確には、夜が明けたのかどうかが分からなかった。

窓の外の灰色が、ほんの少しだけ明るい灰色に変わる。  それが中陵(ちゅうりょう)の朝だった。

こよいは目を開けた。

椅子に凭(もた)れたまま眠っていたらしく、首の右側が強張っている。首を傾けると筋が軋(きし)み、鈍い痛みが肩甲骨(けんこうこつ)の裏まで走った。  巾着(きんちゃく)は胸に抱えたままだ。  中の神々は、昨夜と変わらず沈黙していた。

それでも雨の神だけが、ごく微かに息のような律動を刻んでいる。触れている胸の皮膚越しに、拍の間隔を数えた。遅い。だが途切れてはいない。こよいは唇を引き結び、巾着(きんちゃく)を少しだけ強く抱いた。

久遠(くおん)は机の前に座ったまま起きていた。  眠った形跡がない。  目の下に薄い隈(くま)が浮いているのに、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)はもう灯っていた。右目は閉じている。義眼(ぎがん)だけが仕事をしている。一晩中、目録(もくろく)を閉じたまま何かを考え続けていたのだろうか。

「……行くぞ」

あさひも、すでに立っていた。  剣を背に負い、扉の前で待っている。  いつ起きたのか分からない。  音もなく立ち上がったのだろう。壁に凭(もた)れていた場所には、あさひの体温が染みた痕跡(こんせき)すら残っていなかった。

外へ出た。  扉を開けた瞬間、灰(はい)の冷たい空気が顔を打った。昨夜、建物の中で薄れていた灰(はい)の匂いが、一歩踏み出しただけで鼻腔(びこう)を満たす。

灰(はい)はまだ降っていたが、昨夜より薄い。  吐く息が白くなった。

衣の襟(えり)を掻(か)き合わせても、首の後ろから冷気が忍び込む。灰(はい)が肌に触れるたびに、体温を一層ずつ剥がされていくような心地がした。

中陵(ちゅうりょう)の町は、薄明(はくめい)の中で輪郭(りんかく)だけを見せていた。  低い石造りの建物が並び、通りは広い。  それでも、色という色が抜け落ちている。

壁も屋根も道も、同じ灰色だ。  唯一の色は、久遠(くおん)の義眼(ぎがん)の蒼(あお)と、巾着(きんちゃく)の奥の銀光だけだった。こよいは歩きながら、巾着(きんちゃく)の布越しに銀の微光を確かめた。灰色に染まった視界の中で、その光だけが別の世界のものだった。

通りを歩く。  足跡が灰(はい)に残る。

昨夜の三人の足跡は、もう埋もれて消えていた。一晩の灰(はい)が全てを覆い直した。ここでは立ち止まることが許されない。痕跡は残さず埋まり、存在は削られ続ける。歩くことだけが、まだここにいるという証明だった。

通りの両脇に並ぶ建物の壁に、こよいは目をやった。どの壁も均一な灰色で、窓は開いているのか閉じているのかさえ判らない。生活の痕跡がまるでなかった。洗濯物も、看板も、植木鉢も。人が暮らした形跡を灰(はい)が全て均(なら)してしまったのだ。

北東へ向かうと、通りの先に丘が見えた。  町の中にぽつんと盛り上がった小さな丘。  頂上付近は霧(きり)に隠れている。  斜面に沿って、急な石段が上へ伸びていた。

「あれが霞見台(かすみだい)だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細め、丘を走査(そうさ)した。  蒼光(そうこう)が石段の上を這(は)い、途中で霧(きり)に吸い込まれて消える。

「……頂上まで何段ある」

「数えるな。数えると長く感じる」

あさひが先に足をかけた。

こよいは石段を見上げた。段の一つ一つが灰(はい)に覆われて境目が曖昧(あいまい)で、滑りやすい。  あさひは大剣の重みでバランスを取り、一段ずつ確実に踏みしめて登っていく。  久遠(くおん)が続き、こよいが最後に足を乗せた。

冷たい。  靴底を通して、石の冷気が足裏に伝わってくる。  凍りかけた石は、踏むと微かに湿って滑った。

石段の左右には背の低い石灯籠(いしどうろう)が並んでいた。  等間隔に、丘の上まで続いている。  火は入っていない。灯籠(とうろう)の火口を覗き込むと、中には灰(はい)が稠密(ちゅうみつ)に詰まっていた。火を入れる空間すら残されていない。

登るにつれて霧(きり)が濃くなる。  下の町が見えなくなり、石段と灯籠(とうろう)だけが視界に残った。  呼吸が白く凝(こ)り、すぐ霧(きり)に溶ける。  吐いた息と霧(きり)の区別がつかなくなる。自分の吐いた息が、自分に返ってこない。

こよいの脚(あし)が重くなった。  階段が重いのではない。  身体全体に、見えない圧(あつ)がかかっている。  おたまだけが、軽かった。圧のかかる石段を、猫は何も背負っていないみたいに登っていく。

灯見町(とうみまち)で感じた「名(な)の重(かさ)なり」とは違う。  ここでは重なるものがない。  むしろ、何もないことの重さだった。名前が削られた後に残る空白は、名前そのものよりも重い。こよいは初めて、無いものに押しつぶされるという感覚を知った。

「……息、あがってんぞ」

あさひが振り返らずに言う。

「……大丈夫。まだ、歩ける」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。  雨の神が、ほんの僅かだけ温もりを返す。  その温もりを手がかりに、次の一段を踏んだ。

石段が途切れた。  最後の一段を登り切ると、平らな石の台地が広がっている。  霞見台(かすみだい)の頂上だった。

石畳(いしだたみ)が敷かれ、四方に低い石の手摺(てす)りが巡らされている。  手摺(てす)りの上にも灰(はい)が積もり、触れると指に冷たい粉が纏(まつ)わりついた。

丘の上は風が通るらしく、霧(きり)が流されている。  下より少しだけ視界が開けていた。風は冷たかったが、灰(はい)の匂いが少し薄い。代わりに、石と苔(こけ)の濡れた匂いが鼻に届いた。

こよいは手摺(てす)りに近づき、下を見下ろす。

中陵(ちゅうりょう)が見えた。  灰色の建物が低く広がり、通りが碁盤(ごばん)の目のように走っている。  どの通りにも人影はなく、どの建物からも煙が上がっていない。  町全体が、灰(はい)の下で息を止めているようだった。

町の中央に、広い空間がある。  広場だろう。  真ん中に何かがあったが、霧(きり)と距離で形が判然としない。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の焦点を絞り、広場を走査(そうさ)した。

「……あそこだ。中陵(ちゅうりょう)の中心部。記録が最も厚く沈殿している場所がある」

「あの広場か」

「ああ。降りたら、まずあそこに向かう」

あさひは手摺(てす)りに片手を置き、町の全景を眺めた。  風が一度だけ丘の上を吹き抜け、髪と衣の裾(そで)を揺らす。  その風には色の匂いがしなかった。  灰(はい)と、冷えた石の匂いだけがある。

こよいは石畳(いしだたみ)の上で、自分の影を見た。  昨日までより薄い。輪郭(りんかく)がぼやけ、色が淡い。  あさひの影も、久遠(くおん)の影も、同じように薄くなっていた。  おたまの影だけが、濃いままだった。灰(はい)の上に、切り抜いたようにはっきりと落ちている。久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めて猫を見たが、何も言わなかった。

中陵(ちゅうりょう)に来てから、たった一晩。  三人の存在が、少しだけ削られている。  こよいは自分の手を見た。手の甲の血管が、いつもよりうっすらと透けている気がした。気のせいかもしれない。けれど影が薄くなっているのは事実だった。術式(じゅつしき)の第三条件を見つける前に、自分たちの存在が消えるわけにはいかない。  それでも、影はまだ残っていた。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を懐に仕舞(しま)い、石段のほうに目を向ける。

「降りるぞ。長く留まるほど削られる。必要なものを見つけたら、すぐに発つ」

こよいは頷(うなず)いた。

巾着(きんちゃく)を胸に抱え、霞見台(かすみだい)から見下ろす灰色の町を、もう一度だけ見つめる。  あの広場の底に、何が沈んでいるのか。

それを知るために、ここまで来た。  風が頬を撫で、こよいの髪の先から灰(はい)の粒が一つ、手摺(てす)りの上に落ちた。落ちた場所は一瞬だけ暗い点を作り、すぐに灰(はい)に呑まれて消えた。

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