朝は来なかった。 正確には、夜が明けたのかどうかが分からなかった。
窓の外の灰色が、ほんの少しだけ明るい灰色に変わる。 それが中陵の朝だった。
こよいは目を開けた。
椅子に凭れたまま眠っていたらしく、首の右側が強張っている。首を傾けると筋が軋み、鈍い痛みが肩甲骨の裏まで走った。 巾着は胸に抱えたままだ。 中の神々は、昨夜と変わらず沈黙していた。
それでも雨の神だけが、ごく微かに息のような律動を刻んでいる。触れている胸の皮膚越しに、拍の間隔を数えた。遅い。だが途切れてはいない。こよいは唇を引き結び、巾着を少しだけ強く抱いた。
久遠は机の前に座ったまま起きていた。 眠った形跡がない。 目の下に薄い隈が浮いているのに、義眼の蒼光はもう灯っていた。右目は閉じている。義眼だけが仕事をしている。一晩中、目録を閉じたまま何かを考え続けていたのだろうか。
「……行くぞ」
あさひも、すでに立っていた。 剣を背に負い、扉の前で待っている。 いつ起きたのか分からない。 音もなく立ち上がったのだろう。壁に凭れていた場所には、あさひの体温が染みた痕跡すら残っていなかった。
外へ出た。 扉を開けた瞬間、灰の冷たい空気が顔を打った。昨夜、建物の中で薄れていた灰の匂いが、一歩踏み出しただけで鼻腔を満たす。
灰はまだ降っていたが、昨夜より薄い。 吐く息が白くなった。
衣の襟を掻き合わせても、首の後ろから冷気が忍び込む。灰が肌に触れるたびに、体温を一層ずつ剥がされていくような心地がした。
中陵の町は、薄明の中で輪郭だけを見せていた。 低い石造りの建物が並び、通りは広い。 それでも、色という色が抜け落ちている。
壁も屋根も道も、同じ灰色だ。 唯一の色は、久遠の義眼の蒼と、巾着の奥の銀光だけだった。こよいは歩きながら、巾着の布越しに銀の微光を確かめた。灰色に染まった視界の中で、その光だけが別の世界のものだった。
通りを歩く。 足跡が灰に残る。
昨夜の三人の足跡は、もう埋もれて消えていた。一晩の灰が全てを覆い直した。ここでは立ち止まることが許されない。痕跡は残さず埋まり、存在は削られ続ける。歩くことだけが、まだここにいるという証明だった。
通りの両脇に並ぶ建物の壁に、こよいは目をやった。どの壁も均一な灰色で、窓は開いているのか閉じているのかさえ判らない。生活の痕跡がまるでなかった。洗濯物も、看板も、植木鉢も。人が暮らした形跡を灰が全て均してしまったのだ。
北東へ向かうと、通りの先に丘が見えた。 町の中にぽつんと盛り上がった小さな丘。 頂上付近は霧に隠れている。 斜面に沿って、急な石段が上へ伸びていた。
「あれが霞見台だ」
久遠が義眼を細め、丘を走査した。 蒼光が石段の上を這い、途中で霧に吸い込まれて消える。
「……頂上まで何段ある」
「数えるな。数えると長く感じる」
あさひが先に足をかけた。
こよいは石段を見上げた。段の一つ一つが灰に覆われて境目が曖昧で、滑りやすい。 あさひは大剣の重みでバランスを取り、一段ずつ確実に踏みしめて登っていく。 久遠が続き、こよいが最後に足を乗せた。
冷たい。 靴底を通して、石の冷気が足裏に伝わってくる。 凍りかけた石は、踏むと微かに湿って滑った。
石段の左右には背の低い石灯籠が並んでいた。 等間隔に、丘の上まで続いている。 火は入っていない。灯籠の火口を覗き込むと、中には灰が稠密に詰まっていた。火を入れる空間すら残されていない。
登るにつれて霧が濃くなる。 下の町が見えなくなり、石段と灯籠だけが視界に残った。 呼吸が白く凝り、すぐ霧に溶ける。 吐いた息と霧の区別がつかなくなる。自分の吐いた息が、自分に返ってこない。
こよいの脚が重くなった。 階段が重いのではない。 身体全体に、見えない圧がかかっている。 おたまだけが、軽かった。圧のかかる石段を、猫は何も背負っていないみたいに登っていく。
灯見町で感じた「名の重なり」とは違う。 ここでは重なるものがない。 むしろ、何もないことの重さだった。名前が削られた後に残る空白は、名前そのものよりも重い。こよいは初めて、無いものに押しつぶされるという感覚を知った。
「……息、あがってんぞ」
あさひが振り返らずに言う。
「……大丈夫。まだ、歩ける」
こよいは巾着を胸に押し当てた。 雨の神が、ほんの僅かだけ温もりを返す。 その温もりを手がかりに、次の一段を踏んだ。
石段が途切れた。 最後の一段を登り切ると、平らな石の台地が広がっている。 霞見台の頂上だった。
石畳が敷かれ、四方に低い石の手摺りが巡らされている。 手摺りの上にも灰が積もり、触れると指に冷たい粉が纏わりついた。
丘の上は風が通るらしく、霧が流されている。 下より少しだけ視界が開けていた。風は冷たかったが、灰の匂いが少し薄い。代わりに、石と苔の濡れた匂いが鼻に届いた。
こよいは手摺りに近づき、下を見下ろす。
中陵が見えた。 灰色の建物が低く広がり、通りが碁盤の目のように走っている。 どの通りにも人影はなく、どの建物からも煙が上がっていない。 町全体が、灰の下で息を止めているようだった。
町の中央に、広い空間がある。 広場だろう。 真ん中に何かがあったが、霧と距離で形が判然としない。
久遠が義眼の焦点を絞り、広場を走査した。
「……あそこだ。中陵の中心部。記録が最も厚く沈殿している場所がある」
「あの広場か」
「ああ。降りたら、まずあそこに向かう」
あさひは手摺りに片手を置き、町の全景を眺めた。 風が一度だけ丘の上を吹き抜け、髪と衣の裾を揺らす。 その風には色の匂いがしなかった。 灰と、冷えた石の匂いだけがある。
こよいは石畳の上で、自分の影を見た。 昨日までより薄い。輪郭がぼやけ、色が淡い。 あさひの影も、久遠の影も、同じように薄くなっていた。 おたまの影だけが、濃いままだった。灰の上に、切り抜いたようにはっきりと落ちている。久遠が義眼を細めて猫を見たが、何も言わなかった。
中陵に来てから、たった一晩。 三人の存在が、少しだけ削られている。 こよいは自分の手を見た。手の甲の血管が、いつもよりうっすらと透けている気がした。気のせいかもしれない。けれど影が薄くなっているのは事実だった。術式の第三条件を見つける前に、自分たちの存在が消えるわけにはいかない。 それでも、影はまだ残っていた。
久遠が目録を懐に仕舞い、石段のほうに目を向ける。
「降りるぞ。長く留まるほど削られる。必要なものを見つけたら、すぐに発つ」
こよいは頷いた。
巾着を胸に抱え、霞見台から見下ろす灰色の町を、もう一度だけ見つめる。 あの広場の底に、何が沈んでいるのか。
それを知るために、ここまで来た。 風が頬を撫で、こよいの髪の先から灰の粒が一つ、手摺りの上に落ちた。落ちた場所は一瞬だけ暗い点を作り、すぐに灰に呑まれて消えた。
