第131話 灰の降る町
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第131話 灰の降る町

第5章 名の漂い

ホームに屋根はなかった。  灰(はい)が降り続けていた。  細かく、軽く、音もなく。

こよいの肩や髪に積もり、あさひの黒い衣の上で灰色の斑(ふ)を作った。  ホームの石畳(いしだたみ)は灰(はい)に覆われて色が分からない。  踏むと、乾いた粉が靴底に纏(まつ)わりつく感触があった。重さがないのに、靴底から離れたがらない。名前の残骸(ざんがい)とはこういう質感なのか、とこよいは思った。

列車の扉が閉じた。

背後で鉄の車体が動き始め、霧(きり)と灰(はい)の中へ滑り去っていく。  車輪の音が遠ざかり、やがて完全に消えた。

静寂が降りた。  灰(はい)の降る音すら聞こえない、深い静寂だった。心臓の音と衣擦(きぬず)れの微かな摩擦だけが、世界に残された音だった。

「……何もねえな」

あさひが周囲を見回した。その声が灰(はい)に吸い込まれ、反響もなく消えていく。声を出しても、空気に刻まれる前に灰(はい)が奪っていく。そういう場所だった。

ホームの先に、低い石造りの建物が並んでいるのが霧(きり)越しに見えた。  だが窓に灯りはなく、煙突から煙も上がっていない。  建物の輪郭(りんかく)そのものが曖昧(あいまい)で、霧(きり)と灰(はい)に溶けかかっているようだった。建物が地面から生えたのか、霧(きり)が固まって建物の形を取ったのか、見ているうちに分からなくなる。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を灯した。

蒼光(そうこう)が灰(はい)の中を一筋の線になって伸び、周囲を走査(そうさ)する。  光が触れた場所の灰(はい)が一瞬だけ散り、その下にある石の地肌を露わにした。  だが光が通り過ぎると、すぐに灰(はい)が降り積もって元に戻る。読んだそばから埋まっていく文字のように、蒼光(そうこう)が照らした痕跡も、灰(はい)の町は端から呑み込んでいった。

「……中陵(ちゅうりょう)の中心部は北東だ。丘が一つある。霞見台(かすみだい)と呼ばれている。あそこに登れば町の全容が把握できる」

「今から行くのか?」

「夜に動くのは得策じゃない。灰(はい)が濃くなる。義眼(ぎがん)の視界も落ちる。朝まで待つ。……壁のある屋内なら、削れは緩い。限度の一晩は、外を歩く時間で数える」

久遠(くおん)は珍しく慎重だった。

灯見町(とうみまち)では先を急いでいた彼が、ここでは一晩を費やすことを選んだ。  中陵(ちゅうりょう)という場所が持つ何かが、久遠(くおん)の判断を変えたのだろう。こよいはその横顔を見つめた。蒼光(そうこう)を灯した義眼(ぎがん)の側の頬(ほお)が青白く照らされ、反対側は灰(はい)の暗がりに沈んでいる。

こよいは巾着(きんちゃく)を握りしめた。灰(はい)の粒が布に付き、指で払うと灰色の筋が残った。

三人はホームを離れ、最も近い建物に向かって歩いた。  灰(はい)が積もった道は足跡が一歩ごとに残り、振り返ると三人分の靴跡が一列に並んでいた。おたまの足跡だけは、どこにもない。それなのに、猫は確かに三人の先を歩いていた。

靴跡だけが、ここに人間がいる証拠だった。

建物の扉は開いていた。  鍵はかかっておらず、蝶番(ちょうつがい)が錆(さ)びて半開きになったまま固まっていた。  押すと、ぎぃ、と低い音がして動いた。錆(さ)びた鉄が石に擦れる音は、この町で聞いた最初の人工的な響きだった。

中は暗かった。

久遠(くおん)の蒼光(そうこう)が奥を照らすと、簡素な木の机と椅子が二脚、壁際に空の棚。それだけだった。かつて誰かの居場所だった名残だけが、灰(はい)の下に薄く残っていた。

灰(はい)は室内にも積もっていたが、外よりは薄い。

呼吸が少し楽になった。灰(はい)を吸い込むたびに喉の奥へ張っていた乾いた膜(まく)が、壁一枚の隔たりで和らいだ。

あさひが扉を閉めた。  剣を壁に立てかけた。

柄(つか)が壁に触れて硬い音を立てた。  その音が室内に響き、すぐに消えた。壁も天井も音を吸っている。反響を許さない部屋だった。

「……ここで朝まで」

久遠(くおん)が机の上に目録(もくろく)を置いた。  開くと、革の器に宿る経蔵(きょうぞう)の残光が、室内を淡い黄金に照らした。  だが光の強さは灯見町(とうみまち)にいたときの半分以下だった。

目録(もくろく)そのものが、この土地の影響を受けて力を弱めている。黄金の光が天井に届く前に萎(しぼ)み、壁にかろうじて淡い影を作るだけだった。  こよいは椅子に座り、巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)の上に置いた。  中の神々は沈黙していた。

灯見町(とうみまち)を出たときは穏やかに脈打っていた神々が、中陵(ちゅうりょう)に着いてからほとんど動かなくなっている。  死んではいない。

ただ、深く潜っている。

この場所の空気が、神々を眠らせようとしている。朽ちた記録の中では、名を持つものほど先に沈む。神々は名そのものだ。ここに長くいれば、巾着(きんちゃく)の中の温もりも灰(はい)の下に沈んでいく。こよいの手の中で、ゆっくりと冷たくなっていく。その想像が、胸の底に氷の棘(とげ)を刺した。

「……大丈夫?」

こよいは巾着(きんちゃく)に向かって囁(ささや)いた。声を出した瞬間、自分の声がいつもより薄いことに気づいた。音の芯が抜けている。喉が震えているのに、空気がそれを運びきれない。  返事はなかった。

ただ、雨の神が一度だけ微かに温もりを灯し、すぐに消えた。  いる。まだ、いる。

こよいは巾着(きんちゃく)の口を指先でそっと押さえた。大丈夫、ぼくがここにいるから。そう伝えたかったが、声にすればこの部屋の空気が言葉を奪うことを、もう知っていた。だから指先の温もりだけを送った。

窓の外で灰(はい)が降り続けていた。  窓硝子(まどがらす)に積もった灰(はい)が薄い膜(まく)を作り、外の景色を完全に遮っていた。  あさひは壁に背を預け、足を投げ出して座った。

目を閉じたが、右手は剣の柄(つか)に触れたままだった。  眠っているのではなく、身体を休めているのだ。

耳は起きている。

久遠(くおん)は、記憶から書き戻した頁(ページ)を蒼光(そうこう)で照らしていた。  だが自分で記した文字さえ滲(にじ)み、明瞭にならない。灰(はい)が、書かれたものを端から眠らせていく。

久遠(くおん)は舌打ちもせず、ただ頁(ページ)の上に指を這(は)わせ、文字の残り香のようなものを辿(たど)っていた。蒼光(そうこう)が読めないなら、指で触れて読む。

しばらく経った。  久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

蒼光(そうこう)が消え、室内は暗闇(くらやみ)に戻った。

暗闇(くらやみ)の中で、三人の呼吸だけが聞こえた。あさひの深く緩い呼吸と、久遠(くおん)の浅く整った呼吸。こよいは自分の呼吸がその二つに挟まれて、少し安定するのを感じた。  おたまが膝に身を寄せ、巾着(きんちゃく)に顎を載せて丸くなった。猫の体温が、布越しに神々の残り火と混ざる。灰(はい)の町の冷えの中で、そこだけが小さな竈(かまど)のようだった。

「……明日、霞見台(かすみだい)に登る。そこから中陵(ちゅうりょう)の構造を見極めて、記録の照合に必要な場所を特定する。時間がない。朝になったらすぐに動く」

「分かった」

「……おう」

あさひが目を閉じたまま答えた。  こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱え、椅子の背に凭(もた)れた。  木が軋(きし)んだ。

灰(はい)の匂いが鼻の奥にこびりついて、いつまでも消えなかった。

目を閉じると、灯見町(とうみまち)の路地の奥の穴のことが浮かんだ。

あの暗い穴の底で、一つずつ丁寧に守られていた名前。  この町にも、誰かが守ろうとした記録があるのだろうか。  それとも、ここに辿り着いた記録は、もう誰にも守られないのだろうか。

灰(はい)が窓硝子(まどがらす)を叩く微かな音だけが、夜の中で続いていた。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の答えも、この灰(はい)の下に眠っているのだろうか。

指先に残った名前の粉が、夜の間に少しずつ冷えていく気がした。  こよいは巾着(きんちゃく)と猫の温もりを頼りに、浅い眠りに落ちた。

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