ホームに屋根はなかった。 灰が降り続けていた。 細かく、軽く、音もなく。
こよいの肩や髪に積もり、あさひの黒い衣の上で灰色の斑を作った。 ホームの石畳は灰に覆われて色が分からない。 踏むと、乾いた粉が靴底に纏わりつく感触があった。重さがないのに、靴底から離れたがらない。名前の残骸とはこういう質感なのか、とこよいは思った。
列車の扉が閉じた。
背後で鉄の車体が動き始め、霧と灰の中へ滑り去っていく。 車輪の音が遠ざかり、やがて完全に消えた。
静寂が降りた。 灰の降る音すら聞こえない、深い静寂だった。心臓の音と衣擦れの微かな摩擦だけが、世界に残された音だった。
「……何もねえな」
あさひが周囲を見回した。その声が灰に吸い込まれ、反響もなく消えていく。声を出しても、空気に刻まれる前に灰が奪っていく。そういう場所だった。
ホームの先に、低い石造りの建物が並んでいるのが霧越しに見えた。 だが窓に灯りはなく、煙突から煙も上がっていない。 建物の輪郭そのものが曖昧で、霧と灰に溶けかかっているようだった。建物が地面から生えたのか、霧が固まって建物の形を取ったのか、見ているうちに分からなくなる。
久遠が義眼を灯した。
蒼光が灰の中を一筋の線になって伸び、周囲を走査する。 光が触れた場所の灰が一瞬だけ散り、その下にある石の地肌を露わにした。 だが光が通り過ぎると、すぐに灰が降り積もって元に戻る。読んだそばから埋まっていく文字のように、蒼光が照らした痕跡も、灰の町は端から呑み込んでいった。
「……中陵の中心部は北東だ。丘が一つある。霞見台と呼ばれている。あそこに登れば町の全容が把握できる」
「今から行くのか?」
「夜に動くのは得策じゃない。灰が濃くなる。義眼の視界も落ちる。朝まで待つ。……壁のある屋内なら、削れは緩い。限度の一晩は、外を歩く時間で数える」
久遠は珍しく慎重だった。
灯見町では先を急いでいた彼が、ここでは一晩を費やすことを選んだ。 中陵という場所が持つ何かが、久遠の判断を変えたのだろう。こよいはその横顔を見つめた。蒼光を灯した義眼の側の頬が青白く照らされ、反対側は灰の暗がりに沈んでいる。
こよいは巾着を握りしめた。灰の粒が布に付き、指で払うと灰色の筋が残った。
三人はホームを離れ、最も近い建物に向かって歩いた。 灰が積もった道は足跡が一歩ごとに残り、振り返ると三人分の靴跡が一列に並んでいた。おたまの足跡だけは、どこにもない。それなのに、猫は確かに三人の先を歩いていた。
靴跡だけが、ここに人間がいる証拠だった。
建物の扉は開いていた。 鍵はかかっておらず、蝶番が錆びて半開きになったまま固まっていた。 押すと、ぎぃ、と低い音がして動いた。錆びた鉄が石に擦れる音は、この町で聞いた最初の人工的な響きだった。
中は暗かった。
久遠の蒼光が奥を照らすと、簡素な木の机と椅子が二脚、壁際に空の棚。それだけだった。かつて誰かの居場所だった名残だけが、灰の下に薄く残っていた。
灰は室内にも積もっていたが、外よりは薄い。
呼吸が少し楽になった。灰を吸い込むたびに喉の奥へ張っていた乾いた膜が、壁一枚の隔たりで和らいだ。
あさひが扉を閉めた。 剣を壁に立てかけた。
柄が壁に触れて硬い音を立てた。 その音が室内に響き、すぐに消えた。壁も天井も音を吸っている。反響を許さない部屋だった。
「……ここで朝まで」
久遠が机の上に目録を置いた。 開くと、革の器に宿る経蔵の残光が、室内を淡い黄金に照らした。 だが光の強さは灯見町にいたときの半分以下だった。
目録そのものが、この土地の影響を受けて力を弱めている。黄金の光が天井に届く前に萎み、壁にかろうじて淡い影を作るだけだった。 こよいは椅子に座り、巾着を膝の上に置いた。 中の神々は沈黙していた。
灯見町を出たときは穏やかに脈打っていた神々が、中陵に着いてからほとんど動かなくなっている。 死んではいない。
ただ、深く潜っている。
この場所の空気が、神々を眠らせようとしている。朽ちた記録の中では、名を持つものほど先に沈む。神々は名そのものだ。ここに長くいれば、巾着の中の温もりも灰の下に沈んでいく。こよいの手の中で、ゆっくりと冷たくなっていく。その想像が、胸の底に氷の棘を刺した。
「……大丈夫?」
こよいは巾着に向かって囁いた。声を出した瞬間、自分の声がいつもより薄いことに気づいた。音の芯が抜けている。喉が震えているのに、空気がそれを運びきれない。 返事はなかった。
ただ、雨の神が一度だけ微かに温もりを灯し、すぐに消えた。 いる。まだ、いる。
こよいは巾着の口を指先でそっと押さえた。大丈夫、ぼくがここにいるから。そう伝えたかったが、声にすればこの部屋の空気が言葉を奪うことを、もう知っていた。だから指先の温もりだけを送った。
窓の外で灰が降り続けていた。 窓硝子に積もった灰が薄い膜を作り、外の景色を完全に遮っていた。 あさひは壁に背を預け、足を投げ出して座った。
目を閉じたが、右手は剣の柄に触れたままだった。 眠っているのではなく、身体を休めているのだ。
耳は起きている。
久遠は、記憶から書き戻した頁を蒼光で照らしていた。 だが自分で記した文字さえ滲み、明瞭にならない。灰が、書かれたものを端から眠らせていく。
久遠は舌打ちもせず、ただ頁の上に指を這わせ、文字の残り香のようなものを辿っていた。蒼光が読めないなら、指で触れて読む。
しばらく経った。 久遠が目録を閉じた。
蒼光が消え、室内は暗闇に戻った。
暗闇の中で、三人の呼吸だけが聞こえた。あさひの深く緩い呼吸と、久遠の浅く整った呼吸。こよいは自分の呼吸がその二つに挟まれて、少し安定するのを感じた。 おたまが膝に身を寄せ、巾着に顎を載せて丸くなった。猫の体温が、布越しに神々の残り火と混ざる。灰の町の冷えの中で、そこだけが小さな竈のようだった。
「……明日、霞見台に登る。そこから中陵の構造を見極めて、記録の照合に必要な場所を特定する。時間がない。朝になったらすぐに動く」
「分かった」
「……おう」
あさひが目を閉じたまま答えた。 こよいは巾着を胸に抱え、椅子の背に凭れた。 木が軋んだ。
灰の匂いが鼻の奥にこびりついて、いつまでも消えなかった。
目を閉じると、灯見町の路地の奥の穴のことが浮かんだ。
あの暗い穴の底で、一つずつ丁寧に守られていた名前。 この町にも、誰かが守ろうとした記録があるのだろうか。 それとも、ここに辿り着いた記録は、もう誰にも守られないのだろうか。
灰が窓硝子を叩く微かな音だけが、夜の中で続いていた。原初の術式の答えも、この灰の下に眠っているのだろうか。
指先に残った名前の粉が、夜の間に少しずつ冷えていく気がした。 こよいは巾着と猫の温もりを頼りに、浅い眠りに落ちた。
