車内に言葉はなかった。 三人とも、灯見町で見たものを咀嚼するのに精一杯だった。
列車は灯見町を離れ、霧の中を走り続けていた。 窓の外にはもう黄金の灯台の火は見えない。 ただ白い。
霧だけが、硝子を舐めるように流れていた。 車輪が線路の継ぎ目を拾うたびに、小さな振動が座席の底から背骨を伝い上がってくる。その律動だけが、列車がまだ走っていることを教えていた。 こよいは指先を見つめた。
あの穴の縁に触れたとき付いた名前の粉が、まだ残っている。 擦っても落ちない。
細かな粉は皮膚の溝に潜り込み、剥がれようとしない。まるで名前そのものが、こよいの指紋の中に居場所を見つけたように。 名前の重さとは、こんなにも頼りないものなのか。
巾着の中で、雨の神が穏やかに脈打っていた。
灯見町の中心部にいたとき強張っていた神々は、町を離れてから少しずつ呼吸を取り戻している。 月の神が微かに銀光を灯し、その光が巾着の布越しに、こよいの膝を薄く照らした。こよいはその光を掌で覆い、温もりを確かめた。生きている光だった。
向かいの席の隅で、猫が身体を丸めていた。 灯見町の路地でも、停車場でも、気づけば視界のどこかにいた三毛猫。こよいが手を伸ばすと、猫は逃げなかった。指先が藍色の首輪に触れる。古い布だった。何度も結び直された跡がある。 布の内側に、糸のほつれた縫い取りがあった。 目を近づけて、ようやく読めた。
——おたま。
「……おたま、っていうの」
猫は答えず、目を細めただけだった。 誰かがこの猫に名前を付け、布に縫い、首に結んだ。呼ばれなくなっても、名前は猫と一緒に旅をしている。指先で粉になった名前たちと、何が違ったのだろう。 巾着の中で、雨の神がやわらかく脈打った。
「……中陵は、記録の墓場だ」
久遠が目録を膝に広げたまま、低い声で言った。 義眼の蒼光は頁を走査しているが、その光の動きはいつもより緩慢だった。 久遠の額に薄く汗が浮いていた。義眼を酷使した熱が、内側から滲んでいるようだった。
「墓場……?」
「使い果たされた記録が、最後に行き着く場所だ。経蔵から零れた記録も、いずれあそこへ流れ着く。だから照合が利く。書かれたのに読まれなかったもの、信じられたのに忘れられたもの。そういう記録が積もって、ああいう土地になる」
こよいは久遠の言葉を反芻した。書かれたのに読まれなかったもの。その一つ一つに、書いた誰かがいたはずだ。読まれることを願って、記したはずだ。その願いごと朽ちていく場所。こよいの背筋を、冷たいものが這い上がった。
久遠は窓の外に目を向けた。 霧の色が変わり始めていた。 白から、灰色へ。
窓硝子の外側に、微細な粒子が付着し始めている。
雪でも雨でもない。
灰だった。
こよいは窓に顔を寄せた。粒子は重さを持たないまま真っ直ぐに降り、硝子に触れた瞬間、吸いつくように貼りついて離れない。
「……灰が降ってる」
こよいが呟くと、あさひが半開きだった片目を完全に開けた。 通路側の席に深く身を沈め、両腕を組んだまま仮眠を取っていたが、列車の空気が変わったのを肌で感じたのだろう。
「記録が朽ちた残りだ。中陵に近づけば近づくほど、濃くなる」
久遠が灰のことを説明した。 窓硝子に付いた灰は薄い膜を作り、窓は曇った鏡のようになった。灰の膜越しに映る自分の輪郭は、どこか他人のもののように頼りなかった。
あさひが背を起こし、首を鳴らした。骨が鳴る乾いた音が車内に響く。
「……中陵には何がある」
「経蔵に行く前に、調べなければならないことがある。灯見町の穴の中の名前が何を意味するのか、中陵の記録と照合すれば分かるはずだ。……あの穴は、ただの墓じゃない。誰かが意図的に名前を守っていた。その意図を読み解かないと、先に進めない」
「危ないのか」
「……敵に斬られるような危険はない。だが、中陵では存在が薄くなる。記録が朽ちていく場所に長くいれば、俺たちの存在もまた、朽ちる側に引きずられる」
あさひは短く舌打ちした。 腕を組み直す動作が荒い。
目に見えない敵は、あさひにとって最も厄介なものだった。 剣で斬れる相手ならどれだけ強くても対処できる。 だが、忘却に刃は立たない。あさひの右手が無意識に柄を探り、布越しに冷たい鋼に触れて、ようやく指が止まった。
「……どのくらいいられるの?」
「一晩が限度だろう。それ以上は、目録の補助があっても俺の義眼が持たない」
久遠は目録を閉じ、懐に仕舞った。 蒼光が消えると、車内は灰に覆われた窓から入る鈍い光だけになった。
こよいは窓硝子に映った自分の目を見た。暗い車内で、目だけがぼんやりと光っている。不安なのか、覚悟なのか、自分でも判別がつかない感情が瞳の奥に揺れていた。 三人の顔が薄暗がりの中に沈む。 列車が速度を落とし始めた。 車輪の音が間延びし、車体の揺れが大きくなる。座席の下から伝わる振動が不規則になり、列車そのものが迷っているような走り方だった。
窓の外の灰はさらに濃くなり、もう霧なのか灰なのか区別がつかなかった。 巾着の中で、風の神が小さく身じろぎした。
怯えではなかった。
何かを感じ取っている。
灯見町とは違う種類の気配が、列車の外から滲み始めていた。灯見町が名前の過密だったとすれば、ここにあるのは名前の不在だった。満ちているのではなく、抜け落ちている。その空白が、気配の正体だった。 こよいは指先の名前の粉に目を落とした。 あの穴の中で一つずつ丁寧に守られていた名前。
あれを守った人は、こういう場所のことを知っていたのだろうか。 記録が朽ちていく場所を知っていたから、あの穴を掘ったのだろうか。
答えは出なかった。 だが、中陵に行けば何か分かるかもしれない。原初の術式の欠けた条件にも、手がかりがあるかもしれない。
その予感が、こよいの胸の中で小さく燻ぶっていた。 こよいは名前の粉がついた指先を、巾着の布に重ねた。布越しに、雨の神の脈と、指の粉の微かな熱が触れ合う。二つの温もりは溶け合うのではなく、互いの輪郭を確かめるように隣り合った。
列車が完全に止まった。
振動が消えた車体は、ただの金属の箱に戻っていた。
車輪の音が消え、車内には灰が硝子を叩く微かな音だけが残った。
扉が開いた。 冷たい空気が流れ込み、灰の匂いが車内を満たした。 古い紙を燃やしたときの、少し甘い、少し苦い匂い。鼻の奥に張りつくような粉っぽさの中に、墨が焦げた気配がかすかに混じっている。
こよいは巾着を胸に抱えて立ち上がった。 指先の名前の粉が、冷気に触れて微かに温もりを帯びたような気がした。
おたまが敷居を飛び越え、灰の上に音もなく降りた。あさひが続き、久遠、そしてこよいが最後に足をホームに下ろす。靴底が石に触れた瞬間、灰の粉が薄く舞い上がり、足首のあたりを撫でた。
三人はホームに降り立った。 灰の降る町が、霧の向こうに広がっていた。
