第130話 深層の最果て
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第130話 深層の最果て

第5章 名の漂い

車内に言葉はなかった。  三人とも、灯見町とうみまちで見たものを咀嚼そしゃくするのに精一杯だった。

列車は灯見町とうみまちを離れ、きりの中を走り続けていた。  窓の外にはもう黄金の灯台の火は見えない。  ただ白い。

きりだけが、硝子ガラスめるように流れていた。  車輪が線路の継ぎ目を拾うたびに、小さな振動が座席の底から背骨を伝い上がってくる。その律動だけが、列車がまだ走っていることを教えていた。  こよいは指先を見つめた。

あの穴のふちに触れたとき付いた名前の粉が、まだ残っている。  こすっても落ちない。

細かな粉は皮膚の溝に潜り込み、剥がれようとしない。まるで名前そのものが、こよいの指紋の中に居場所を見つけたように。  名前の重さとは、こんなにも頼りないものなのか。

巾着きんちゃくの中で、雨の神が穏やかに脈打っていた。

灯見町とうみまちの中心部にいたとき強張っていた神々は、町を離れてから少しずつ呼吸を取り戻している。  月の神が微かに銀光を灯し、その光が巾着きんちゃくの布越しに、こよいのひざを薄く照らした。こよいはその光をてのひらで覆い、温もりを確かめた。生きている光だった。

向かいの席の隅で、猫が身体を丸めていた。  灯見町とうみまちの路地でも、停車場でも、気づけば視界のどこかにいた三毛猫。こよいが手を伸ばすと、猫は逃げなかった。指先が藍色の首輪に触れる。古い布だった。何度も結び直された跡がある。  布の内側に、糸のほつれた縫い取りがあった。  目を近づけて、ようやく読めた。

——おたま。

「……おたま、っていうの」

猫は答えず、目を細めただけだった。  誰かがこの猫に名前を付け、布に縫い、首に結んだ。呼ばれなくなっても、名前は猫と一緒に旅をしている。指先で粉になった名前たちと、何が違ったのだろう。  巾着きんちゃくの中で、雨の神がやわらかく脈打った。

「……中陵ちゅうりょうは、記録の墓場だ」

久遠くおん目録もくろくひざに広げたまま、低い声で言った。  義眼ぎがん蒼光そうこうページ走査そうさしているが、その光の動きはいつもより緩慢かんまんだった。  久遠くおんの額に薄く汗が浮いていた。義眼ぎがんを酷使した熱が、内側からにじんでいるようだった。

「墓場……?」

「使い果たされた記録が、最後に行き着く場所だ。経蔵きょうぞうからこぼれた記録も、いずれあそこへ流れ着く。だから照合が利く。書かれたのに読まれなかったもの、信じられたのに忘れられたもの。そういう記録が積もって、ああいう土地になる」

こよいは久遠くおんの言葉を反芻はんすうした。書かれたのに読まれなかったもの。その一つ一つに、書いた誰かがいたはずだ。読まれることを願って、記したはずだ。その願いごとちていく場所。こよいの背筋を、冷たいものがい上がった。

久遠くおんは窓の外に目を向けた。  きりの色が変わり始めていた。  白から、灰色へ。

窓硝子まどがらすの外側に、微細な粒子が付着し始めている。

雪でも雨でもない。

はいだった。

こよいは窓に顔を寄せた。粒子は重さを持たないまま真っ直ぐに降り、硝子ガラスに触れた瞬間、吸いつくように貼りついて離れない。

「……はいが降ってる」

こよいがつぶやくと、あさひが半開きだった片目を完全に開けた。  通路側の席に深く身を沈め、両腕を組んだまま仮眠を取っていたが、列車の空気が変わったのを肌で感じたのだろう。

「記録がちた残りだ。中陵ちゅうりょうに近づけば近づくほど、濃くなる」

久遠くおんはいのことを説明した。  窓硝子まどがらすに付いたはいは薄いまくを作り、窓は曇った鏡のようになった。はいの膜越しに映る自分の輪郭は、どこか他人のもののように頼りなかった。

あさひが背を起こし、首を鳴らした。骨が鳴る乾いた音が車内に響く。

「……中陵ちゅうりょうには何がある」

経蔵きょうぞうに行く前に、調べなければならないことがある。灯見町とうみまちの穴の中の名前が何を意味するのか、中陵ちゅうりょうの記録と照合すれば分かるはずだ。……あの穴は、ただの墓じゃない。誰かが意図的に名前を守っていた。その意図を読み解かないと、先に進めない」

「危ないのか」

「……敵に斬られるような危険はない。だが、中陵ちゅうりょうでは存在が薄くなる。記録がちていく場所に長くいれば、俺たちの存在もまた、ちる側に引きずられる」

あさひは短く舌打ちした。  腕を組み直す動作が荒い。

目に見えない敵は、あさひにとって最も厄介やっかいなものだった。  剣で斬れる相手ならどれだけ強くても対処できる。  だが、忘却ぼうきゃくに刃は立たない。あさひの右手が無意識につかを探り、布越しに冷たいはがねに触れて、ようやく指が止まった。

「……どのくらいいられるの?」

「一晩が限度だろう。それ以上は、目録もくろくの補助があっても俺の義眼ぎがんが持たない」

久遠くおん目録もくろくを閉じ、懐に仕舞しまった。  蒼光そうこうが消えると、車内ははいに覆われた窓から入る鈍い光だけになった。

こよいは窓硝子まどがらすに映った自分の目を見た。暗い車内で、目だけがぼんやりと光っている。不安なのか、覚悟なのか、自分でも判別がつかない感情が瞳の奥に揺れていた。  三人の顔が薄暗がりの中に沈む。  列車が速度を落とし始めた。  車輪の音が間延びし、車体の揺れが大きくなる。座席の下から伝わる振動が不規則になり、列車そのものが迷っているような走り方だった。

窓の外のはいはさらに濃くなり、もうきりなのかはいなのか区別がつかなかった。  巾着きんちゃくの中で、風の神が小さく身じろぎした。

おびえではなかった。

何かを感じ取っている。

灯見町とうみまちとは違う種類の気配が、列車の外からにじみ始めていた。灯見町とうみまちが名前の過密だったとすれば、ここにあるのは名前の不在だった。満ちているのではなく、抜け落ちている。その空白が、気配の正体だった。  こよいは指先の名前の粉に目を落とした。  あの穴の中で一つずつ丁寧に守られていた名前。

あれを守った人は、こういう場所のことを知っていたのだろうか。  記録がちていく場所を知っていたから、あの穴を掘ったのだろうか。

答えは出なかった。  だが、中陵ちゅうりょうに行けば何か分かるかもしれない。原初げんしょ術式じゅつしきの欠けた条件にも、手がかりがあるかもしれない。

その予感が、こよいの胸の中で小さくくすぶっていた。  こよいは名前の粉がついた指先を、巾着きんちゃくの布に重ねた。布越しに、雨の神の脈と、指の粉の微かな熱が触れ合う。二つの温もりは溶け合うのではなく、互いの輪郭りんかくを確かめるように隣り合った。

列車が完全に止まった。

振動が消えた車体は、ただの金属の箱に戻っていた。

車輪の音が消え、車内にははい硝子ガラスを叩く微かな音だけが残った。

扉が開いた。  冷たい空気が流れ込み、はいの匂いが車内を満たした。  古い紙を燃やしたときの、少し甘い、少し苦い匂い。鼻の奥に張りつくような粉っぽさの中に、すみが焦げた気配がかすかに混じっている。

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱えて立ち上がった。  指先の名前の粉が、冷気に触れて微かに温もりを帯びたような気がした。

おたまが敷居を飛び越え、はいの上に音もなく降りた。あさひが続き、久遠くおん、そしてこよいが最後に足をホームに下ろす。靴底が石に触れた瞬間、はいの粉が薄く舞い上がり、足首のあたりを撫でた。

三人はホームに降り立った。  はいの降る町が、きりの向こうに広がっていた。

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