穴の中に降りることはできなかった。 久遠が止めた。
底まで十数メートル、垂直の竪穴。内壁は名前の堆積で脆く、手をかければ崩れる。降りれば、登れない。義眼の蒼光は、入り口から一メートルも下りないうちに掻き消えた。蒼が届かない場所ほど、脆い。
「……中の名前を読み取る方法が他にある。経蔵の記録と照合すれば、この穴に何が眠っているか分かる」
「経蔵って……あの、墓みたいな場所?」
「墓であり、書庫であり、全ての記録の終着点だ。……もっとも、崩れた経蔵へ直に戻る道はもうない。使い果たされた記録が流れ着く場所——中陵で、まず代わりの照合をする」
こよいは穴の縁から手を離した。 名前の粉が指に残り、払っても落ちなかった。こよいはその指先を見つめた。この粉は、かつて誰かの名前だった。嫌ではなかった。むしろ、預かっているような気持ちになった。
路地を戻った。 来た道を逆に辿ると、壁に刻まれた名前がさっきよりも少しだけ薄くなっているように見えた。
気のせいではなかった。
壁の表面から、文字が剥がれ落ち始めていた。 足元に散った文字の欠片を踏みながら歩く。踏むたびに、紙を破るような乾いた音がした。一歩ごとに、誰かの名前を踏んでいる。
「……崩れてる」
あさひが壁を指した。 路地の角で、大きな文字の塊が壁面からごっそりと剥落していた。 割れた断面に、何十もの名前の層が年輪のように見えた。剥がれた跡は、黒い石の地肌。名前が載っていた頃の温もりも、振動も、全て一緒に剥がれ落ちていた。
こよいはその石肌に触れた。 冷たくて硬い。名前が載っていない壁は、ただの壁だった。名前が壁に命を与えていたのだ。
「……名前を剥がされた壁は、もう何でもなくなるんだ」
呟いた言葉が、自分の胸に刺さった。 名前を失うということは、こういうことなのだ。何でもなくなる。誰でもなくなる。冷たくて硬いだけの、ただの石になる。こよいは指先を壁から離し、巾着を強く抱え直した。この中の名前だけは、石にはさせない。
路地を抜けると、灯台の列が再び視界に広がった。 ただし、灯っている灯台の数が減っていた。 来たときは全ての灯台が黄金の火を掲げていたのに、今は三つに一つほどが消えている。
消えた灯台は黒い柱となって、闇の中に沈んでいた。
「……町が閉じ始めている」
久遠が目録を開いた。頁の端がまた崩れかけ、指で押さえながら読み取りを続ける。
「灯見町の灯台は、名前を記録する装置だ。灯が消えるということは、記録の受け皿が飽和したか、壊れたか、どちらかだ」
「……出る方法は?」
「停車場がまだ生きていれば、列車が来る」
三人は灯台の列の間を走った。 走るたびに衝撃が膝から腰へ突き上げ、抱えた巾着の中で神々の脈が速くなった。 消えた灯台の根元には、文字の残骸が散乱していた。灯台の最後の吐息のようだった。
停車場は町の外縁にあった。 来たときとは違う場所だった。町が歪んだのか、道が変わったのか。判別はつかない。 石畳が途切れ、その先に、霧の中から線路が一本だけ伸びていた。錆の浮いた鉄のレールが、霧に呑まれて消えている。
ホームは朽ちた木の板で組まれていた。踏むと沈み、下から湿った空気が吹き上がる。
ホームの端に、行灯が一つだけ灯っていた。 弱々しい青白い火。消えかけては持ち直し、持ち直しては消えかける。
あさひが周囲を確かめた。鼻を鳴らし、空気の匂いを嗅いでいる。
「……誰もいねえ」
「来る。列車は来る。この行灯が灯っている限り、停車場は生きている」
久遠はホームの縁に立ち、線路の先を義眼で覗いた。霧の向こうに、まだ何も見えない。 こよいは朽ちた木のベンチに腰を下ろした。板が軋んだ。
巾着を膝の上に置くと、中の神々が落ち着きを取り戻し始めているのが分かった。 灯見町の中心部にいたときの強張りが、少しずつ緩んでいる。月の神の銀光が安定し、布越しに膝を温めていた。
背後で、灯台がまた一つ消えた。 黄金の火が音もなく途絶え、暗い柱だけが残った。消える瞬間、火が一度だけ大きく膨らみ、燃え上がって、消えた。
「……ねえ、久遠くん」
「何だ」
「さっきの穴の中の名前。守られてた名前。あれは誰が守ってたの?」
久遠は線路から目を離さなかった。 背中をこよいに向けたまま、霧の奥を見つめている。
「……分からない。だが、名前を守ろうとした者がいたことだけは確かだ。名の重ねが全てを潰し合うこの町で、一つの穴を掘り、名前を一つずつ並べた。狂気に近い作業だったはずだ」
「狂気?」
「この町では、名前を刻むという行為そのものが名の重ねを加速させる。つまり名前を守ろうとする行為が、町の崩壊を早めるんだ。それを知った上で、なお掘り続けた。……あの彫り口は新しかった。今も、掘り続けている」
こよいは巾着を握った。 指の腹に残った名前の粉が、巾着の布に擦れた。
守ることと壊すことが同じ行為になる場所。 それでも守ることを選んだ誰か。 その人の名前は、あの穴の中に残っているのだろうか。こよいの胸に、熱いものがこみ上げた。
ベンチの下から、猫が音もなく出てきた。ホームの縁に座り、霧の奥をじっと見つめる。耳が、ぴくりと動いた。
遠くから、鉄の軋む音が聞こえた。 ホームの板が微かに振動する。線路を伝わってくる振動だ。
霧の向こうで、光が一つ、近づいてくる。 蒼白い光。霧を切り裂くのではなく、霧の中を泳ぐように揺れながら近づいてくる。
列車の行灯だった。
あさひが立ち上がり、剣の背負い紐を確かめた。 久遠は目録を懐に仕舞い、ホームの縁に並んだ。 こよいもベンチから腰を上げ、巾着を胸に抱えた。
霧列車が霧を割って姿を現した。 鉄の車体に水滴が付き、蒼い行灯の光を反射して鈍く光っている。扉が開いた。 猫が最初に乗り込んだ。敷居を踏む音もなく、当たり前の顔で車内の暗がりへ消える。 冷たい空気が流れ出し、三人の髪を揺らした。車内の空気は、町の空気より清浄だった。合唱の残響がない。ただ、鉄と水の匂いだけがする。
こよいは乗り込む前に一度だけ振り返った。 灯見町の灯台がいくつか残って光っていた。 あとのいくつかは、もう消えていた。
黄金の火を掲げる灯台と、暗い柱になった灯台が、交互に並んでいる。その光景は、歯が抜けた口のようだった。
あの穴は、町が閉じた後も残るのだろうか。掘った人は、今も彫り続けているのだろうか。 こよいは巾着を胸に寄せた。自分がしていることと、あの人がしていることは、似ている。名前を集め、守り、個別のまま留め置く行為。違いは、こよいには仲間がいることだ。 あの人は、一人だったのだろうか。
答えは出なかった。
扉が閉まり、列車が動き始めた。 灯見町の最後の灯が、霧の向こうに沈んでいった。こよいは窓に手を当てた。硝子の冷たさが掌に染み、指先に残った名前の粉が硝子の表面に薄い跡を残した。
