目を開けた。 天井が見える。木の板だ。隙間から光が漏れている。
ここは、どこだ。 体を起こそうとした。全身が痛い。 左腕に、布が巻かれている。右手のひらにも。昨夜の傷が、きちんと手当てされていた。
巾着は、枕元にあった。 手を伸ばして、握りしめた。温かい。
「……よかった」
祠の神の声が、小さく響いた。
「……しんぱい、した」
こよいは、ゆっくりと体を起こした。 小さな小屋だった。土間を上がった板敷き。隅に囲炉裏の跡がある。 壁は丸太と板で出来ていて、苔むした屋根から木漏れ日が差し込んでいる。 干し草の匂いがする。土と、森の匂い。
扉が開いた。 人が入ってきた。
昨日の人だ。 外套を着た、背の高い人。顔がようやく見える。 若いような、年老いているような、不思議な顔立ち。男なのか女なのかも、よく分からない。 ただ、目が穏やかだった。
「目が覚めたか」
深い声。低いが、優しい響き。
「……うん」
こよいは、頷いた。
「……ここは」
「境の森の奥だ。門をくぐったところで、お前は倒れていた」
人は、水を入れた椀を差し出した。 こよいは受け取り、ゆっくりと飲んだ。冷たい。喉の奥まで染みていく。
「……助けてくれて、ありがとう」
「礼を言われることではない」
人は、こよいの腰の巾着を見た。
「お前、集め手だろう。その巾着を見れば分かる」
こよいは、巾着を握りしめた。
「……知ってるの?」
「ここでは珍しくない。集め手は、時々やってくる」
その言葉に、こよいは驚いた。 集め手が、珍しくない場所。 自分のような存在が、他にもいる場所。
「……ぼくだけじゃ、ないの」
「当然だ。お前が初めてだと思ったか」
人は、口元だけで笑った。
「歩けるか。里に連れていく」
こよいは、立ち上がった。 足が震えた。でも、歩ける。 外に出ると、森が広がっていた。
明るい。 木々の間から陽光が差し込み、地面に模様を描いている。 鳥の声がする。風が木の葉を揺らす。 観測者の気配は、どこにもない。
「……ここ、なつかしい」
巾着の中から、祠の神の声。
「……むかし、こういう、ばしょ、あった」
人は、森の中の道を歩き始めた。 こよいは、後を追った。 道には、木に刻まれた印や、積まれた石がある。 誰かが、ずっと昔から、この道を使っていたのだ。
「あの光……観測者って呼んでるんだけど」
こよいは、歩きながら聞いた。
「あいつらは、ここには来ないの?」
「来ない。境界の向こうは、測る者の力が及ばない」
人は、振り返らずに答えた。
「……少なくとも、今までは」
その言葉の端に、何か引っかかるものがあった。でも、こよいは問い返せなかった。
森を抜けると、開けた場所に出た。 木製の門柱が立っている。縄と木彫りの護符が掛けられている。 門番が二人、長い棒を持って立っていた。
門番たちは、案内の人を見て、すぐに道を開けた。でも、こよいのことは、じっと見つめていた。 観察している。値踏みしている。
門をくぐると、集落が見えた。
円形の広場を中心に、木造の建物が並んでいる。 人がいる。大人も、子供も。 みんな、こよいの方を見ている。
「集め手だ」
誰かが言った。
「巾着を持ってる。本物だ」
人々が、近づいてきた。 敵意はない。むしろ、興味と、どこか懐かしむような目。 子供たちが、巾着を指差して囁き合っている。
「……ここ、みんな、しってる」
祠の神の声が、不思議そうに言う。
「……あつめて、を」
案内の人が、広場の奥の建物を指した。 一番大きな建物。高床式で、階段で上がるようになっている。
「長に会わせる。ついてこい」
建物の中に入ると、囲炉裏の前に老人が座っていた。 白い髪。深い皺。でも、目は鋭い。 老人は、こよいを見て、ゆっくりと頷いた。
「よく来た、集め手」
声は穏やかだが、重みがあった。
「久しぶりだ。お前のような若い者が来るのは」
こよいは、座るよう促された。 囲炉裏の火が、パチパチと音を立てている。
「お前、霧原町から来たか」
「……はい」
「あの町は、もう測られたのだろう」
老人の言葉に、こよいの胸が痛んだ。
「……はい。沈みました」
老人は、目を閉じた。
「そうか。また一つ、消えたか」
しばらく沈黙が続いた。
「……ここでは、集め手はどう思われてるんですか」
こよいは、聞いた。
「外では、誰も知らなかった。ぼくが何をしてるのか、誰にも言えなかった」
老人は、目を開けた。
「ここでは、集め手は敬われる。お前たちがいなければ、神々は行き場を失い、消えてしまう」
「届ける場所があることを、ここの者は知っている。だから、集め手を助ける」
その言葉が、こよいの胸に染みた。 初めてだった。 自分がしていることを、認めてくれる場所。
「だが」
老人の声が、低くなった。
「油断するな」
こよいは、背筋を伸ばした。 老人の目が、真剣になっていた。
「最近、おかしなことが起きている」
老人は、囲炉裏の火を見つめる。
「境を越えてくる奴らがいる」
こよいの心臓が、跳ねた。
「……境を、越えてくる?」
「そうだ。測る者たちだ。今まで、ここには来なかった。来られなかったはずだ」
老人は、こよいを見た。
「だが、何かが変わった」
囲炉裏の火が、一瞬だけ揺れた。 巾着が、冷たくなった。
「……おいつかれた、かも」
祠の神の声が、小さく震えた。
老人は、立ち上がった。 窓から外を見る。夕日が、集落を赤く染め始めていた。
「お前を追ってきたのかもしれん」
その言葉が、重くのしかかった。
「あるいは、もっと大きな何かが動き始めているのかもしれん」
こよいは、巾着を握りしめた。 逃げ切ったと思った。安全だと思った。でも、まだ終わっていない。
「今夜は休め。明日、詳しく話そう」
老人は、そう言った。
「集め手の仕事について。お前が知るべきことについて」
こよいは頷いた。でも、胸の中では、不安が渦を巻いていた。
境を越えてくる奴らがいる。 その言葉が、頭の中で繰り返されていた。
