第128話 名の重み
128

第128話 名の重み

第5章 名の漂い

灯台の間に、目録もくろくが指し示す路地があった。石畳いしだたみの道は一歩ごとに狭まり、やがて人ひとりがやっと通れる幅になった。  両側の壁が迫り、黄金の火は頭上の隙間から細い筋で差し込むだけ。空が見えない。  足元に落ちる光は刃みたいに鋭く、またぐたびに影と光の温度差が足首を刺した。

壁に、名前が刻まれていた。  丁寧に彫刻刀で彫った文字の隣に、爪で引っいたとしか思えない浅い傷がある。どちらも同じだけ必死だったのだろう。  幾重にも重なり、古い層は石の中に沈んで、もう読めない。

触れれば崩れそうな文字の皮膚が、壁という壁を覆い尽くしている。名前だけではない。日付、祈りの断片、意味をなさない線。壁の地肌がどこにあるのかすら分からなかった。こよいが文字の隙間に指を近づけると、壁の冷気が直接肌に触れた。名前が壁を温めているのだ。

「……堆積たいせきだ。灯見町とうみまちに来た者たちが、自分の存在をここに刻もうとした痕跡こんせきだろう」

久遠くおんが壁面に義眼ぎがん蒼光そうこうを当てた。  蒼光そうこうが一層ずつがすように照らし出すと、最も古い層の文字は石の色とほとんど区別がつかなかった。石にかえりかけている名前。

「……でも、全部消えかかってる」

「ああ。刻んだ者には存在の証明だったはずが、重なりすぎて、結果的に全員の名前を無に帰してる」

こよいは壁の低い位置に目を止めた。  てのひらの跡があった。  小さな手が、壁に押し付けられたあと。五本の指の形がはっきり残っている。  こよい自身の手と同じくらいの大きさだった。  息が止まった。この手の主は、自分と同じくらいの歳だったのだ。名前を刻むすべも持たず、てのひらを押し付けることしかできなかった子がいた。

そのてのひらの跡の上にも名前が重ねて刻まれ、手の形は半ば消えかかっている。こよいは自分のてのひらをその跡に重ねようとして、途中で手を止めた。触れれば崩れる。崩れれば、この子の最後の痕跡こんせきが消える。

「……この子も、名前を残しに来たのかな」

声が小さく震えた。

巾着きんちゃくの中で、月の神が微かに銀光を灯した。銀の光が布越しに漏れ、消えかかった手の形を一瞬だけ鮮明にした。

路地の奥から、合唱の残響が壁を伝って押し寄せてくる。  中心部で聞いたものより低く、太い。振動が壁を震わせ、名前の粉を舞い上がらせる。粉が光の筋に入ると一瞬だけ輝いて散った。名前の最後の輝きのようだった。

あさひが足を止め、耳を澄ませた。

「……声が変わった。合唱じゃねえ。一つの声だ」

「一つの声?」

「何百もの名前が重なりすぎて、もう区別がつかなくなってやがる。全部が一つに潰れて、同じ音になってるんだ」

低いうなりのような持続音が、壁の両側から包み込むように響く。路地全体が、ひとつののどになったかのようだった。

確かに、もう個々の名前は聞き取れない。  名前とは、区別するためにあるものだ。区別を失った名前は、もう名前ではない。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。この中にいる神々の名前だけは、まだ個別に息づいている。  久遠くおん目録もくろくを開き、蒼光そうこうページに落とした。

「……この路地の先に、堆積たいせきの中心点がある。名前が最も厚く積もった場所だ。目録もくろく座標ざひょうがそこを指している」

「行くの?」

「行かなければ、第三の条件の手がかりがここで途絶える。停車場ていしゃじょうへ行っても、空ので出るだけだ」

久遠くおん目録もくろくを閉じ、蒼い光だけを前方に向け、路地の闇を照らした。  光は壁に刻まれた名前に当たって乱反射し、無数の小さな輝きとなって路地を満たした。  一瞬だけ、星空の底を歩いているような光景になった。美しいのに、光のひとつひとつが誰かの消えかけた名前なのだと思うと、胸が締め付けられた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱え、その光の中を歩いた。  壁の名前が近い。  肩が触れそうなほどの狭さで、歩くたびに堆積たいせきした文字の粉が衣に付いた。粉は冷たく、乾いて、重さがなかった。

時折、壁から大きな文字の欠片かけらがれ落ち、足元で砕けた。  踏むと、紙を踏んだときのような柔らかい音がした。

路地が曲がった。  壁がさらに狭まり、あさひの肩が左右の石に触れた。もう引き返せる幅ではなかった。  その先は、行き止まりだった。  三方を壁に囲まれた小さな空間。畳二枚分ほどの狭さに、三人が肩を寄せ合うようにして立つ。

壁面は名前で完全に覆い尽くされ、文字の層は指の厚さほどもあった。  猫が、するりと三人の足の間を抜けた。行き止まりの壁の前に座り、じっと一点を見上げている。  その視線の先——壁の中央に、ぽっかりと穴が開いていた。

人の頭ほどの大きさの、丸い穴。  穴のふちだけが、名前の堆積たいせきまぬがれていた。誰かが丁寧に文字を削り取ったのだろう。ふちの石肌は滑らかだった。  穴の奥から冷たい風が吹き出し、こよいの前髪を揺らした。風は一定のリズムで強くなったり弱くなったりする。呼吸のようだった。

「……ここだ」

久遠くおんつぶやいた。声が壁に吸い込まれ、反響しなかった。

義眼ぎがん蒼光そうこうが穴の奥に向けられた。  光は穴の中に吸い込まれ、奥の壁を照らすことなく消えた。闇が光を飲んでいる。久遠くおんの眉間にしわが寄った。  あさひがひざをつき、穴をのぞき込んだ。

「……底が見えねえ」

穴から吹く風には、石と古い紙の匂いが混じっていた。  名前の匂いだった。ただ古い。何千年分もの名前が地下に沈み、ちていく匂いだった。

巾着きんちゃくの中で、四柱よはしらの神々が一斉に身じろぎした。  雨の神の温もりが増し、硝子びいどろの神が澄んだ音を立てる。

警告ではなかった。

何かを感じ取っている。

穴の奥に、神々が反応する何かがある。  こよいは穴に手を近づけた。  風が指の間を通り抜けた。

冷たい。指先の感覚が薄れるほどの冷気だった。

風の中に、ほんの一瞬だけ、温かいものが混じった。冷たい川の中に、ひと筋だけ温泉おんせんが流れ込んでいるような、細い温もり。  温もりに紛れて、りん、と澄んだ音が聞こえた気がした。猫の首の鈴とは違う。もっと遠く、深い場所からの音。瞬きの間に、それは風に溶けた。

「……あったかい」

「何だと?」

「風の中に、温かいところがある。ほんの少しだけ」

久遠くおん義眼ぎがんを細めた。

蒼光そうこうの出力を上げ、穴の奥を再び探る。  今度は光が少しだけ奥まで届いた。  壁面に刻まれた名前が、穴の内壁にも続いているのが見えた。

ただし、外の壁とは違っていた。  名前が重なっていない。

一つの名前が、間隔を置いて丁寧に刻まれている。文字の大きさも深さも揃っていた。時間をかけ、一つ一つの名前に同じだけの注意を払って彫られた文字だった。  そして、いちばん手前の一つだけ、彫り口がまだ新しかった。縁に石の粉が残っている。  誰かが、今も、掘り続けている。

「……守られている」

久遠くおんの声が低くなった。蒼光そうこうが僅かに揺れている。

「外では名の重ねで潰し合っているのに、この穴の中だけは、名前が個別に保存されている。誰かがここを、名前の墓守はかもりにしたんだ」

久遠くおん蒼光そうこうを落とし、暗がりの中で続けた。

「……だが、墓守が善意とは限らない。名前を守る行為と、名前を囲い込む行為は、紙一重だ」

合唱の振動が壁を通じて足裏に伝わっていた。穴から吹く風だけが、名前の匂いを運び続けている。  こよいは穴のふちに手を置いた。  石は冷たかったが、てのひらの下で文字が微かに温もりを持っているような気がした。穴を掘った人の手の温もりが、石に染み込んで残っているのだろうか。

この下に、守られた名前がある。  降りなければ、守り手も、守られた名前の数も、何一つ分からない。穴は答えを隠したまま、風だけを送り続けている。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます