灯台の間に、目録が指し示す路地があった。石畳の道は一歩ごとに狭まり、やがて人ひとりがやっと通れる幅になった。 両側の壁が迫り、黄金の火は頭上の隙間から細い筋で差し込むだけ。空が見えない。 足元に落ちる光は刃みたいに鋭く、跨ぐたびに影と光の温度差が足首を刺した。
壁に、名前が刻まれていた。 丁寧に彫刻刀で彫った文字の隣に、爪で引っ掻いたとしか思えない浅い傷がある。どちらも同じだけ必死だったのだろう。 幾重にも重なり、古い層は石の中に沈んで、もう読めない。
触れれば崩れそうな文字の皮膚が、壁という壁を覆い尽くしている。名前だけではない。日付、祈りの断片、意味をなさない線。壁の地肌がどこにあるのかすら分からなかった。こよいが文字の隙間に指を近づけると、壁の冷気が直接肌に触れた。名前が壁を温めているのだ。
「……名の堆積だ。灯見町に来た者たちが、自分の存在をここに刻もうとした痕跡だろう」
久遠が壁面に義眼の蒼光を当てた。 蒼光が一層ずつ剥がすように照らし出すと、最も古い層の文字は石の色とほとんど区別がつかなかった。石に還りかけている名前。
「……でも、全部消えかかってる」
「ああ。刻んだ者には存在の証明だったはずが、重なりすぎて、結果的に全員の名前を無に帰してる」
こよいは壁の低い位置に目を止めた。 掌の跡があった。 小さな手が、壁に押し付けられた痕。五本の指の形がはっきり残っている。 こよい自身の手と同じくらいの大きさだった。 息が止まった。この手の主は、自分と同じくらいの歳だったのだ。名前を刻む術も持たず、掌を押し付けることしかできなかった子がいた。
その掌の跡の上にも名前が重ねて刻まれ、手の形は半ば消えかかっている。こよいは自分の掌をその跡に重ねようとして、途中で手を止めた。触れれば崩れる。崩れれば、この子の最後の痕跡が消える。
「……この子も、名前を残しに来たのかな」
声が小さく震えた。
巾着の中で、月の神が微かに銀光を灯した。銀の光が布越しに漏れ、消えかかった手の形を一瞬だけ鮮明にした。
路地の奥から、合唱の残響が壁を伝って押し寄せてくる。 中心部で聞いたものより低く、太い。振動が壁を震わせ、名前の粉を舞い上がらせる。粉が光の筋に入ると一瞬だけ輝いて散った。名前の最後の輝きのようだった。
あさひが足を止め、耳を澄ませた。
「……声が変わった。合唱じゃねえ。一つの声だ」
「一つの声?」
「何百もの名前が重なりすぎて、もう区別がつかなくなってやがる。全部が一つに潰れて、同じ音になってるんだ」
低い唸りのような持続音が、壁の両側から包み込むように響く。路地全体が、ひとつの喉になったかのようだった。
確かに、もう個々の名前は聞き取れない。 名前とは、区別するためにあるものだ。区別を失った名前は、もう名前ではない。
こよいは巾着を胸に押し当てた。この中にいる神々の名前だけは、まだ個別に息づいている。 久遠は目録を開き、蒼光を頁に落とした。
「……この路地の先に、堆積の中心点がある。名前が最も厚く積もった場所だ。目録の座標がそこを指している」
「行くの?」
「行かなければ、第三の条件の手がかりがここで途絶える。停車場へ行っても、空の手で出るだけだ」
久遠は目録を閉じ、蒼い光だけを前方に向け、路地の闇を照らした。 光は壁に刻まれた名前に当たって乱反射し、無数の小さな輝きとなって路地を満たした。 一瞬だけ、星空の底を歩いているような光景になった。美しいのに、光のひとつひとつが誰かの消えかけた名前なのだと思うと、胸が締め付けられた。
こよいは巾着を胸に抱え、その光の中を歩いた。 壁の名前が近い。 肩が触れそうなほどの狭さで、歩くたびに堆積した文字の粉が衣に付いた。粉は冷たく、乾いて、重さがなかった。
時折、壁から大きな文字の欠片が剥がれ落ち、足元で砕けた。 踏むと、紙を踏んだときのような柔らかい音がした。
路地が曲がった。 壁がさらに狭まり、あさひの肩が左右の石に触れた。もう引き返せる幅ではなかった。 その先は、行き止まりだった。 三方を壁に囲まれた小さな空間。畳二枚分ほどの狭さに、三人が肩を寄せ合うようにして立つ。
壁面は名前で完全に覆い尽くされ、文字の層は指の厚さほどもあった。 猫が、するりと三人の足の間を抜けた。行き止まりの壁の前に座り、じっと一点を見上げている。 その視線の先——壁の中央に、ぽっかりと穴が開いていた。
人の頭ほどの大きさの、丸い穴。 穴の縁だけが、名前の堆積を免れていた。誰かが丁寧に文字を削り取ったのだろう。縁の石肌は滑らかだった。 穴の奥から冷たい風が吹き出し、こよいの前髪を揺らした。風は一定のリズムで強くなったり弱くなったりする。呼吸のようだった。
「……ここだ」
久遠が呟いた。声が壁に吸い込まれ、反響しなかった。
義眼の蒼光が穴の奥に向けられた。 光は穴の中に吸い込まれ、奥の壁を照らすことなく消えた。闇が光を飲んでいる。久遠の眉間に皺が寄った。 あさひが膝をつき、穴を覗き込んだ。
「……底が見えねえ」
穴から吹く風には、石と古い紙の匂いが混じっていた。 名前の匂いだった。ただ古い。何千年分もの名前が地下に沈み、朽ちていく匂いだった。
巾着の中で、四柱の神々が一斉に身じろぎした。 雨の神の温もりが増し、硝子の神が澄んだ音を立てる。
警告ではなかった。
何かを感じ取っている。
穴の奥に、神々が反応する何かがある。 こよいは穴に手を近づけた。 風が指の間を通り抜けた。
冷たい。指先の感覚が薄れるほどの冷気だった。
風の中に、ほんの一瞬だけ、温かいものが混じった。冷たい川の中に、ひと筋だけ温泉が流れ込んでいるような、細い温もり。 温もりに紛れて、りん、と澄んだ音が聞こえた気がした。猫の首の鈴とは違う。もっと遠く、深い場所からの音。瞬きの間に、それは風に溶けた。
「……あったかい」
「何だと?」
「風の中に、温かいところがある。ほんの少しだけ」
久遠が義眼を細めた。
蒼光の出力を上げ、穴の奥を再び探る。 今度は光が少しだけ奥まで届いた。 壁面に刻まれた名前が、穴の内壁にも続いているのが見えた。
ただし、外の壁とは違っていた。 名前が重なっていない。
一つの名前が、間隔を置いて丁寧に刻まれている。文字の大きさも深さも揃っていた。時間をかけ、一つ一つの名前に同じだけの注意を払って彫られた文字だった。 そして、いちばん手前の一つだけ、彫り口がまだ新しかった。縁に石の粉が残っている。 誰かが、今も、掘り続けている。
「……守られている」
久遠の声が低くなった。蒼光が僅かに揺れている。
「外では名の重ねで潰し合っているのに、この穴の中だけは、名前が個別に保存されている。誰かがここを、名前の墓守にしたんだ」
久遠は蒼光を落とし、暗がりの中で続けた。
「……だが、墓守が善意とは限らない。名前を守る行為と、名前を囲い込む行為は、紙一重だ」
合唱の振動が壁を通じて足裏に伝わっていた。穴から吹く風だけが、名前の匂いを運び続けている。 こよいは穴の縁に手を置いた。 石は冷たかったが、掌の下で文字が微かに温もりを持っているような気がした。穴を掘った人の手の温もりが、石に染み込んで残っているのだろうか。
この下に、守られた名前がある。 降りなければ、守り手も、守られた名前の数も、何一つ分からない。穴は答えを隠したまま、風だけを送り続けている。
