霧列車は、灯見町の外縁でひとりでに停まった。乗る者を選ぶように現れるこの列車は、降ろす場所も自分で決めるらしい。猫が先に降り、三人は橙の灯の連なりを辿って歩いた。 そうして中心部へ足を踏み入れた瞬間、静寂がひっくり返った。
通りの入り口にそびえる巨大な灯台が、不自然に明滅する。 それに合わせて、どこからともなく合唱が湧いた。「名の重ね」を嘆く声。高い声と低い声が交互に重なり、どちらが先でどちらが後なのか判別できない。声は壁に跳ね返り、石畳を伝い、足の裏から骨へ響いた。
拍子木の残響が混じり、雪みたいに光の粒が降ってくる。 灯台の光に照らされた粒は金色に染まり、地面に触れると弾けて消えた。弾ける瞬間に微かな熱があった。指先に落ちたひとつが、火の粉のように一瞬だけ肌を灼く。
そのひとつひとつが、かつての誰かの名だったのかもしれない。 こよいはそう思い、胸が詰まった。自分が集めようとしているものが、この町では空から降り、地面で砕け、踏まれて消えていく。
こよいは肩に積もる粒子を払わなかった。 通りの奥から押し寄せてくる圧に、身体ごと耐える。粒子が髪に絡み、衣の繊維に染み込んでいく。払えば散る。散れば消える。だから、せめて受け止めていたかった。 三毛の猫は、三人の半歩先を歩いていた。降る粒子の間を縫い、落ちて弾ける光を決して踏まないように、爪先を運んでいる。
「名の重ね」
同じ名前が何層にも塗り重ねられ、元の名が何だったのか、判別できなくなる。 絵の具を何色も重ねた末に黒い染みになるように、名前が名前を潰し、最後には誰のものでもない音の塊だけが残る。
この町の中心で、それが加速している。 巾着の中で神々が震え、合唱に呼応するように拍を刻んだ。雨の神が速く脈打ち、風の神が鋭い渦を立てている。月の神は光を細め、硝子の神が甲高い振動を返した。こよいの掌に、四柱の焦りが伝わってくる。
久遠は軒先に背を預け、膝の上で目録を広げる。 義眼の蒼光が頁に落ちた。軒の庇から垂れる金粉が久遠の肩に積もり、蒼光に照らされて青金色に光っている。
光が文字の列を撫でるたび、頁の端が崩れて粉になる。 久遠が指先で押さえようとしても、粉は蒼光に触れた途端、蒸発して消えた。指の腹に残るのは、紙だったものの僅かな温もりだけだ。
目録の情報まで「名の重ね」に侵されている。 外縁部では何ともなかったのに、中心へ来た途端、この有様だ。第三の条件——還す者の手の手がかりまで、塗り潰されかねない。
久遠は奥歯を噛み締め、義眼の出力を上げた。 蒼光が強くなり、文字が辛うじて踏み留まる。光の中で、文字が微かに震えている。生き残ろうとする虫のように、頁の上でもがいていた。 だが、延命に過ぎない。蒼光の縁が僅かに歪み、義眼に負荷がかかっているのが見て取れた。
あさひは剣の柄に右手を添え、通りの最奥を見据えていた。 合唱が波になるたび、石畳が微かに振動する。 あさひは靴底でそれを踏み確かめ、肩の力だけを少しずつ固めていった。
恐怖じゃない。 斬るべき輪郭を探す、剣士の癖だ。だが、この町には斬るべき形がない。声はあっても姿がなく、圧はあっても刃を向ける先がない。あさひの肩が僅かに下がったのは、それに気づいたからだろう。
久遠が言う。
「……声にするな。……名の漂いの縁で名を呼ぶと、内側の名まで持っていかれる」
目録が閉じられ、革の表紙に爪が白く食い込む。 義眼の蒼光が不規則に明滅し、灯台の金と交互に久遠の顔を染めた。蒼と金が混じる瞬間、久遠の瞳の奥に疲労の色が浮かんで消える。
名前を呼ぶのは、ただの発声じゃない。 自分の座標を理の中に晒す行為だ。声の振動が名前の粒子に触れた瞬間、呼んだ者の位置が世界に刻まれる。 この町では、晒された座標はすぐ「名の重ね」に取り込まれる。自分の名の上に、見知らぬ名が重ねられていく。
こよいは唇を噛んだ。歯の裏側に血の味が薄く滲む。
合唱の中に、聞き覚えのある音が混じっている。 言葉にならないのに、意思だけははっきりした呼びかけ。巾着の中の神々が預かっている名前の欠片と、同じ響きを持つ音だった。
応えたい。 応えなければならない気がする。でも、呼べない。喉の奥まで言葉が昇ってきて、そこで止まる。こよいは拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みだけが現実の感触として残る。
衝動を抑えるように、こよいは巾着を両手で握り締めた。 神々の温もりが布越しに手のひらへ伝わり、合唱の圧に抗うように脈打つ。その温もりだけが、こよいを繋ぎ止めていた。呼びかけに応じそうになる心を、神々の脈が引き戻す。
「……分かってる。でも、なんだか……あの子たちの声が、すごく近くに聞こえてくるんだ」
こよいの声は小さかったが、二人に届いた。 指が布へ沈み込むほど、力が入っている。爪の先が白くなり、巾着の縫い目に食い込んでいた。
呼んではいけない。でも、忘れてもいけない。 名前を集める者として、聞こえる声を無視することは、集めることを放棄するのと同じではないのか。けれど応えれば、自分の名が奪われる。
その間で、心が裂けそうになる。こよいは目を閉じ、巾着の温もりだけに意識を絞った。
あさひは黙ったまま、灯台の列を追っていた。 炎がひとつ消え、すぐ点く。 また消え、すぐ点く。消える間隔が点く間隔より長くなり始めていた。
灯台の柱に亀裂が走り、金色の粉が亀裂から噴き出している。 理の糸が、限界に近い。
あさひが吐き捨てる。
「……影が薄い。観測の糸が、自重で千切れかけてる」
石畳に落ちる影が、呼吸するみたいに膨らんでは縮む。 三人の影だけではない。建物の影も、灯台の影も、すべてが不安定に揺れている。 支配の手が届かない場所が生まれつつある。
自由。 同時に、保護のない無法地帯。
こよいは二人の言葉を胸で重ねる。 名前は呼ぶな。けれど声は聞こえている。
矛盾した二つの事実が、胸の中でぶつかり合う。 答えはまだ出ない。出せないまま歩き続けるしかないのだと、こよいは自分に言い聞かせた。答えが出なくても、足を止めてはいけない。止まれば、合唱に呑まれる。
巾着の中で神々が脈打った。 合唱の隙間へ、かすかな温もりを流し込む。温もりは細い糸のように指先から胸へ伝わり、心臓の裏側にそっと触れた。
その温もりだけが、今のこよいの基準だった。
久遠が目録を胸に抱え直す。革の表紙が合唱の振動で微かに震えていた。 あさひが剣の柄を握り直す。指の関節が鳴った。
三人は言葉を交わさず、通りの奥へ歩き始めた。 合唱が強くなる方へ。粒子が濃くなる方へ。光が暗くなる方へ。 歩調を合わせたわけではないのに、三人の足音がいつの間にか同じ拍になっていた。神々の脈と同じリズムだった。
合唱の中を進む三つの足音だけが、石畳に小さな傷みたいに刻まれていく。猫の足音だけは、どこにも刻まれなかった。 神々の温度が、一歩ごとに僅かに上がった。 道標なのか、警告なのか。
まだ、判別はつかなかった。
