第127話 名の合唱
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第127話 名の合唱

第5章 名の漂い

霧列車(きりれっしゃ)は、灯見町(とうみまち)の外縁でひとりでに停まった。乗る者を選ぶように現れるこの列車は、降ろす場所も自分で決めるらしい。猫が先に降り、三人は橙(だいだい)の灯の連なりを辿(たど)って歩いた。  そうして中心部へ足を踏み入れた瞬間、静寂がひっくり返った。

通りの入り口にそびえる巨大な灯台(とうだい)が、不自然に明滅する。  それに合わせて、どこからともなく合唱が湧いた。「名(な)の重(かさ)ね」を嘆(なげ)く声。高い声と低い声が交互に重なり、どちらが先でどちらが後なのか判別できない。声は壁に跳ね返り、石畳(いしだたみ)を伝い、足の裏から骨へ響いた。

拍子木の残響が混じり、雪みたいに光の粒が降ってくる。  灯台(とうだい)の光に照らされた粒は金色に染まり、地面に触れると弾けて消えた。弾ける瞬間に微かな熱があった。指先に落ちたひとつが、火の粉のように一瞬だけ肌を灼(や)く。

そのひとつひとつが、かつての誰かの名だったのかもしれない。  こよいはそう思い、胸が詰まった。自分が集めようとしているものが、この町では空から降り、地面で砕け、踏まれて消えていく。

こよいは肩に積もる粒子を払わなかった。  通りの奥から押し寄せてくる圧(あつ)に、身体ごと耐える。粒子が髪に絡み、衣の繊維に染み込んでいく。払えば散る。散れば消える。だから、せめて受け止めていたかった。  三毛の猫は、三人の半歩先を歩いていた。降る粒子の間を縫い、落ちて弾ける光を決して踏まないように、爪先を運んでいる。

「名(な)の重(かさ)ね」

同じ名前が何層にも塗り重ねられ、元の名が何だったのか、判別できなくなる。  絵の具を何色も重ねた末に黒い染みになるように、名前が名前を潰し、最後には誰のものでもない音の塊だけが残る。

この町の中心で、それが加速している。  巾着(きんちゃく)の中で神々が震え、合唱に呼応(こおう)するように拍を刻んだ。雨の神が速く脈打ち、風の神が鋭い渦(うず)を立てている。月の神は光を細め、硝子(びいどろ)の神が甲高い振動を返した。こよいの掌(てのひら)に、四柱(よはしら)の焦りが伝わってくる。

久遠(くおん)は軒先に背を預け、膝(ひざ)の上で目録(もくろく)を広げる。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)に落ちた。軒の庇(ひさし)から垂れる金粉が久遠(くおん)の肩に積もり、蒼光(そうこう)に照らされて青金色に光っている。

光が文字の列を撫(な)でるたび、頁(ページ)の端が崩れて粉になる。  久遠(くおん)が指先で押さえようとしても、粉は蒼光(そうこう)に触れた途端、蒸発して消えた。指の腹に残るのは、紙だったものの僅かな温もりだけだ。

目録(もくろく)の情報まで「名(な)の重(かさ)ね」に侵されている。  外縁部では何ともなかったのに、中心へ来た途端、この有様だ。第三の条件——還す者の手(て)の手がかりまで、塗り潰(つぶ)されかねない。

久遠(くおん)は奥歯を噛(か)み締め、義眼(ぎがん)の出力を上げた。  蒼光(そうこう)が強くなり、文字が辛うじて踏み留まる。光の中で、文字が微かに震えている。生き残ろうとする虫のように、頁(ページ)の上でもがいていた。  だが、延命に過ぎない。蒼光(そうこう)の縁(ふち)が僅かに歪(ゆが)み、義眼(ぎがん)に負荷がかかっているのが見て取れた。

あさひは剣の柄(つか)に右手を添え、通りの最奥を見据えていた。  合唱が波になるたび、石畳(いしだたみ)が微かに振動する。  あさひは靴底でそれを踏み確かめ、肩の力だけを少しずつ固めていった。

恐怖じゃない。  斬るべき輪郭を探す、剣士の癖だ。だが、この町には斬るべき形がない。声はあっても姿がなく、圧はあっても刃を向ける先がない。あさひの肩が僅かに下がったのは、それに気づいたからだろう。

久遠(くおん)が言う。

「……声にするな。……名の漂(ただよ)いの縁(ふち)で名を呼ぶと、内側の名まで持っていかれる」

目録(もくろく)が閉じられ、革の表紙に爪が白く食い込む。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が不規則に明滅し、灯台(とうだい)の金と交互に久遠(くおん)の顔を染めた。蒼と金が混じる瞬間、久遠(くおん)の瞳の奥に疲労の色が浮かんで消える。

名前を呼ぶのは、ただの発声じゃない。  自分の座標(ざひょう)を理(ことわり)の中に晒(さら)す行為だ。声の振動が名前の粒子に触れた瞬間、呼んだ者の位置が世界に刻まれる。  この町では、晒(さら)された座標(ざひょう)はすぐ「名(な)の重(かさ)ね」に取り込まれる。自分の名の上に、見知らぬ名が重ねられていく。

こよいは唇を噛(か)んだ。歯の裏側に血の味が薄く滲(にじ)む。

合唱の中に、聞き覚えのある音が混じっている。  言葉にならないのに、意思だけははっきりした呼びかけ。巾着(きんちゃく)の中の神々が預かっている名前の欠片(かけら)と、同じ響きを持つ音だった。

応えたい。  応えなければならない気がする。でも、呼べない。喉(のど)の奥まで言葉が昇ってきて、そこで止まる。こよいは拳を握った。爪が掌(てのひら)に食い込み、痛みだけが現実の感触として残る。

衝動を抑えるように、こよいは巾着(きんちゃく)を両手で握り締めた。  神々の温もりが布越しに手のひらへ伝わり、合唱の圧(あつ)に抗(あらが)うように脈打つ。その温もりだけが、こよいを繋ぎ止めていた。呼びかけに応じそうになる心を、神々の脈が引き戻す。

「……分かってる。でも、なんだか……あの子たちの声が、すごく近くに聞こえてくるんだ」

こよいの声は小さかったが、二人に届いた。  指が布へ沈み込むほど、力が入っている。爪の先が白くなり、巾着(きんちゃく)の縫い目に食い込んでいた。

呼んではいけない。でも、忘れてもいけない。  名前を集める者として、聞こえる声を無視することは、集めることを放棄するのと同じではないのか。けれど応えれば、自分の名が奪われる。

その間で、心が裂けそうになる。こよいは目を閉じ、巾着(きんちゃく)の温もりだけに意識を絞った。

あさひは黙ったまま、灯台(とうだい)の列を追っていた。  炎がひとつ消え、すぐ点(つ)く。  また消え、すぐ点(つ)く。消える間隔が点(つ)く間隔より長くなり始めていた。

灯台(とうだい)の柱に亀裂(きれつ)が走り、金色の粉が亀裂(きれつ)から噴き出している。  理(ことわり)の糸が、限界に近い。

あさひが吐き捨てる。

「……影が薄い。観測の糸が、自重で千切れかけてる」

石畳(いしだたみ)に落ちる影が、呼吸するみたいに膨らんでは縮む。  三人の影だけではない。建物の影も、灯台(とうだい)の影も、すべてが不安定に揺れている。  支配の手が届かない場所が生まれつつある。

自由。  同時に、保護のない無法地帯。

こよいは二人の言葉を胸で重ねる。  名前は呼ぶな。けれど声は聞こえている。

矛盾した二つの事実が、胸の中でぶつかり合う。  答えはまだ出ない。出せないまま歩き続けるしかないのだと、こよいは自分に言い聞かせた。答えが出なくても、足を止めてはいけない。止まれば、合唱に呑(の)まれる。

巾着(きんちゃく)の中で神々が脈打った。  合唱の隙間へ、かすかな温もりを流し込む。温もりは細い糸のように指先から胸へ伝わり、心臓の裏側にそっと触れた。

その温もりだけが、今のこよいの基準だった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を胸に抱え直す。革の表紙が合唱の振動で微かに震えていた。  あさひが剣の柄(つか)を握り直す。指の関節が鳴った。

三人は言葉を交わさず、通りの奥へ歩き始めた。  合唱が強くなる方へ。粒子が濃くなる方へ。光が暗くなる方へ。  歩調を合わせたわけではないのに、三人の足音がいつの間にか同じ拍になっていた。神々の脈と同じリズムだった。

合唱の中を進む三つの足音だけが、石畳(いしだたみ)に小さな傷みたいに刻まれていく。猫の足音だけは、どこにも刻まれなかった。  神々の温度が、一歩ごとに僅かに上がった。  道標なのか、警告なのか。

まだ、判別はつかなかった。

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