明けかけていた空は、灯見町が近づく頃には、また暮れていた。
列車の揺れが、少しだけ荒くなった。 霧の向こうに「何か」があるときの揺れだ。車輪が軋む音が一拍だけ途切れ、すぐに戻る。その一拍の空白が、こよいの背筋に冷たい指を這わせた。
線路が歪むのではない。 線路の「意味」が、揺らぐ。 鉄と鉄の継ぎ目が本来あるべき間隔を失い、進むべき方向そのものが霧の中で輪郭を溶かしている。窓硝子に付いた水滴が斜めに流れ、列車が微かに傾いでいるのが分かった。
こよいは巾着を膝に置き、掌で押さえた。 中の神々は静かだ。死んだ沈黙ではなく、息を潜めて待っている静けさだった。布越しに伝わる温もりだけが、四柱がまだそこにいることを教えてくれる。雨の神は脈を落とし、風の神は渦を止め、月の神は光を絞り、硝子の神は身を潜めている。すべてが縮こまるようにして、何かの通過を待っていた。
ふと、視界の端で何かが動いた。 通路を挟んだ向かいの席の下に、猫がいた。 三毛だった。白と黒と茶の斑が、行灯の薄明かりに滲んでいる。首には藍色の布が巻かれ、小さな鈴がひとつ結んであった。猫は身じろぎもせず、丸い目でこよいを見ている。
「……いつから、いたの?」
乗ったときには、いなかったはずだ。それなのに猫は、ずっと前からそこが自分の席だと言わんばかりに、前脚を揃えて座っていた。この霧列車に、どこから乗り込んだのだろう。切符も、飼い主の影もない。 巾着の中で、神々が微かに脈を揺らした。警戒ではなかった。息を潜めていた四柱が、ほんの少しだけ、布の内側から耳を澄ませたのが分かった。 列車がまた軋み、行灯が揺れる。猫の首の鈴が、チリン、と一度だけ鳴った。細く澄んだ音だった。どこかで聞いた気がするのに、どこでだったか思い出せない。音は霧に吸われるように消えた。
向かいの席で、あさひが鞘を少しだけ鳴らす。 その音に、こよいは小さな違和感を覚えた。経蔵を出てから、あの剣は歪んで鞘に収まらなかったはずだ。
「……朝起きたら、収まってた」
視線に気づいたあさひが、先回りして言った。声に、隠しきれない硬さがある。 鋼が自分で形を直したのだ。持ち主に断りもなく。この剣は、もう昨日までの剣ではない。
剣は抜かない。抜けない。 それでも、半寸だけ気配が外へ漏れた。鞘口から滲み出た冷気が、車内の埃を微かに揺らす。あさひの右手は柄に添えられたまま動かない。指先だけが白くなっていた。
車内の空気が、ひと息ぶん冷える。 窓硝子の外を流れる霧が、ほんの一瞬だけ紫色に光った。何かの気配が、列車のすぐ横を通り過ぎた残光だった。
「……お前の剣、いつからそんな顔してた?」
久遠が短く言った。 義眼の蒼光が、鞘の隙間へ滑り込む。光が触れた瞬間、鞘の木目が一瞬だけ浮き上がり、年輪のように重なった気配の層が見えた。久遠の眉が僅かに動く。読み取った情報が、予想と違ったのだろう。
あさひは答えず、さらにほんの少しだけ刃を覗かせた。 車内の温度がまた一段下がる。
刃の表面に、刻印ではない光の筋がある。 薄い線が並び、近づけば消え、離れれば読めない。 名前の気配だけが残る線だった。蛍の軌跡を硝子板に閉じ込めたような、儚い光。追えば追うほど、線は視界の端へ逃げていく。名前とは、そういうものなのかもしれない。
「……名前だ」
こよいが言うと、あさひは鼻で笑う。
「そういうことにしとけ」
強がりの声にしては軽い。 あさひ自身も、剣の中の線を掴み切れていないのが分かった。否定ではなくはぐらかしで返すのは、あさひなりの戸惑いだった。
巾着の中で、神々が脈打つ。 低く、ゆっくりとした拍。こよいの心臓と半拍だけずれたリズムが、掌に染み込んでくる。
その瞬間、剣の線がいっせいに揺れて、ひとつだけ、はっきりした。 こよいは見えない声を聞いた気がした。 呼ぶ声ではない。置く声。誰かが最後の力で、自分の名をそっと刃の上に預けたような、静かな重さだった。こよいの巾着が集める名前とは違う。巾着は温もりで包む。剣は冷たい鋼の中に閉じ込める。どちらも名前を留める行為なのに、向いている方向がまるで違う。
久遠が歯を食いしばる。 義眼の蒼光が不規則に明滅し、目録の表紙を押さえる指が震えていた。 その目録は、経蔵で白紙に還った写しだ。久遠は昨夜から、読めていた範囲を記憶から一頁ずつ書き戻している。革の器そのものには経蔵の残光がまだ薄く宿り、外の気配に応えて明滅する。白紙は死んだのではない。いま、書き直されている。
「……剣は、記録の器だ。鋼の中に、名前を沈めてる。……だから重い」
あさひが眉を寄せた。 顎を引き、低い声で返す。
「重いなら、振り下ろせばいいだけだ」
「違う。重いってのは、戻れないってことだ。切ったら、切った分だけ、名前が減る」
こよいは巾着を抱え直した。 集めるために来たのに、剣は減らしてしまう。自分がひとつずつ拾い集めているものを、あさひの剣は一振りで散らしてしまうのか。胸の底に、小さな棘が刺さったような痛みがあった。
「……じゃあ、あさひの剣は」
言いかけたとき、あさひが鞘を鳴らした。 刃を戻す音が、はっきりとした。鳴り止んだ後の静寂が、さっきまでの沈黙とは質が違った。
「俺は、減らしたくない」
小さな声だった。 聞き逃しそうな、本音。あさひの視線は自分の膝の上に落ちていた。鞘を握る手の甲に、古い傷が幾筋も走っている。薄い傷、深い傷、交差する傷。その一本一本が、かつて振り下ろした記憶なのだとしたら——こよいはそれ以上考えるのをやめた。あさひの過去に踏み込む資格が、まだ自分にはない気がした。
「でも、減らさなきゃ止まらないものもある。……だから迷う。迷うのが、今の俺の剣だ」
久遠は目録を閉じ、頷いた。 蒼光を落とし、車内が少しだけ暗くなる。暗がりの中で、久遠の声だけが静かに通った。
「なら、その迷いごと使え。剣は切るためだけじゃない。……道を示すためにも使える」
列車が大きく揺れた。 座席の木枠が軋み、行灯がまた一瞬消える。闇の中で、あさひの剣の鞘口だけが青白い光の線を帯びていた。名前の残光だった。
窓の外の霧が一瞬だけ薄くなり、遠くに灯が見えた。 黄金でも白でもない、橙に近い色。人の手で灯された火の色だ。あさひは剣の柄に手を置く。 巾着の神々が、同じ拍で脈打った。
猫が、音もなく立ち上がった。 座席の下から歩み出て、窓の下枠に前脚をかける。丸い目は、迷いなく橙の灯を見ていた。誰よりも先に、そこへ行くと決めた者の目だった。
剣の中の線が、灯へ向かって静かに傾いた。 まるで水が低い方へ流れるように、名前の気配が窓の外の灯に引き寄せられていく。こよいは息を潜め、その動きを見守った。
列車は霧の中を走り続ける。 剣が示す方向へ。まだ名の漂う場所へ。
こよいは巾着を胸に寄せ、窓の外の灯を見つめた。 あさひの剣に宿った名前の光が、遠い灯に引かれるように揺れている。 減らしたくないと言った剣士が、それでも灯のほうへ進もうとしている。その矛盾の中に、こよいは自分たちの旅の形を見た気がした。原初の術式の第三条件もまた、矛盾の中にあるのかもしれない。
巾着の布越しに、神々が小さく震える。 まだ名前は奪われていない、と告げるみたいに。
