第126話 あさひの剣
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第126話 あさひの剣

第5章 名の漂い

明けかけていた空は、灯見町(とうみまち)が近づく頃には、また暮れていた。

列車の揺れが、少しだけ荒くなった。  霧の向こうに「何か」があるときの揺れだ。車輪が軋(きし)む音が一拍だけ途切れ、すぐに戻る。その一拍の空白が、こよいの背筋に冷たい指を這(は)わせた。

線路が歪(ゆが)むのではない。  線路の「意味」が、揺らぐ。  鉄と鉄の継ぎ目が本来あるべき間隔を失い、進むべき方向そのものが霧の中で輪郭を溶かしている。窓硝子(まどがらす)に付いた水滴が斜めに流れ、列車が微かに傾いでいるのが分かった。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)に置き、掌(てのひら)で押さえた。  中の神々は静かだ。死んだ沈黙ではなく、息を潜めて待っている静けさだった。布越しに伝わる温もりだけが、四柱(よはしら)がまだそこにいることを教えてくれる。雨の神は脈を落とし、風の神は渦(うず)を止め、月の神は光を絞り、硝子(びいどろ)の神は身を潜めている。すべてが縮こまるようにして、何かの通過を待っていた。

ふと、視界の端で何かが動いた。  通路を挟んだ向かいの席の下に、猫がいた。  三毛だった。白と黒と茶の斑(まだら)が、行灯(あんどん)の薄明かりに滲(にじ)んでいる。首には藍色の布が巻かれ、小さな鈴がひとつ結んであった。猫は身じろぎもせず、丸い目でこよいを見ている。

「……いつから、いたの?」

乗ったときには、いなかったはずだ。それなのに猫は、ずっと前からそこが自分の席だと言わんばかりに、前脚を揃えて座っていた。この霧列車(きりれっしゃ)に、どこから乗り込んだのだろう。切符も、飼い主の影もない。  巾着(きんちゃく)の中で、神々が微かに脈を揺らした。警戒ではなかった。息を潜めていた四柱(よはしら)が、ほんの少しだけ、布の内側から耳を澄ませたのが分かった。  列車がまた軋(きし)み、行灯(あんどん)が揺れる。猫の首の鈴が、チリン、と一度だけ鳴った。細く澄んだ音だった。どこかで聞いた気がするのに、どこでだったか思い出せない。音は霧に吸われるように消えた。

向かいの席で、あさひが鞘(さや)を少しだけ鳴らす。  その音に、こよいは小さな違和感を覚えた。経蔵(きょうぞう)を出てから、あの剣は歪(ゆが)んで鞘に収まらなかったはずだ。

「……朝起きたら、収まってた」

視線に気づいたあさひが、先回りして言った。声に、隠しきれない硬さがある。  鋼(はがね)が自分で形を直したのだ。持ち主に断りもなく。この剣は、もう昨日までの剣ではない。

剣は抜かない。抜けない。  それでも、半寸(はんすん)だけ気配が外へ漏れた。鞘口(さやぐち)から滲(にじ)み出た冷気が、車内の埃(ほこり)を微かに揺らす。あさひの右手は柄(つか)に添えられたまま動かない。指先だけが白くなっていた。

車内の空気が、ひと息ぶん冷える。  窓硝子(まどがらす)の外を流れる霧が、ほんの一瞬だけ紫色に光った。何かの気配が、列車のすぐ横を通り過ぎた残光だった。

「……お前の剣、いつからそんな顔してた?」

久遠(くおん)が短く言った。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、鞘(さや)の隙間へ滑り込む。光が触れた瞬間、鞘の木目が一瞬だけ浮き上がり、年輪のように重なった気配の層が見えた。久遠(くおん)の眉が僅かに動く。読み取った情報が、予想と違ったのだろう。

あさひは答えず、さらにほんの少しだけ刃を覗(のぞ)かせた。  車内の温度がまた一段下がる。

刃の表面に、刻印(こくいん)ではない光の筋がある。  薄い線が並び、近づけば消え、離れれば読めない。  名前の気配だけが残る線だった。蛍(ほたる)の軌跡を硝子板(がらすいた)に閉じ込めたような、儚(はかな)い光。追えば追うほど、線は視界の端へ逃げていく。名前とは、そういうものなのかもしれない。

「……名前だ」

こよいが言うと、あさひは鼻で笑う。

「そういうことにしとけ」

強がりの声にしては軽い。  あさひ自身も、剣の中の線を掴(つか)み切れていないのが分かった。否定ではなくはぐらかしで返すのは、あさひなりの戸惑いだった。

巾着(きんちゃく)の中で、神々が脈打つ。  低く、ゆっくりとした拍。こよいの心臓と半拍だけずれたリズムが、掌(てのひら)に染み込んでくる。

その瞬間、剣の線がいっせいに揺れて、ひとつだけ、はっきりした。  こよいは見えない声を聞いた気がした。  呼ぶ声ではない。置く声。誰かが最後の力で、自分の名をそっと刃の上に預けたような、静かな重さだった。こよいの巾着(きんちゃく)が集める名前とは違う。巾着(きんちゃく)は温もりで包む。剣は冷たい鋼(はがね)の中に閉じ込める。どちらも名前を留める行為なのに、向いている方向がまるで違う。

久遠(くおん)が歯を食いしばる。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が不規則に明滅し、目録(もくろく)の表紙を押さえる指が震えていた。  その目録(もくろく)は、経蔵(きょうぞう)で白紙に還(かえ)った写しだ。久遠(くおん)は昨夜から、読めていた範囲を記憶から一頁ずつ書き戻している。革の器そのものには経蔵の残光がまだ薄く宿り、外の気配に応えて明滅する。白紙は死んだのではない。いま、書き直されている。

「……剣は、記録の器だ。鋼(はがね)の中に、名前を沈めてる。……だから重い」

あさひが眉を寄せた。  顎(あご)を引き、低い声で返す。

「重いなら、振り下ろせばいいだけだ」

「違う。重いってのは、戻れないってことだ。切ったら、切った分だけ、名前が減る」

こよいは巾着(きんちゃく)を抱え直した。  集めるために来たのに、剣は減らしてしまう。自分がひとつずつ拾い集めているものを、あさひの剣は一振りで散らしてしまうのか。胸の底に、小さな棘(とげ)が刺さったような痛みがあった。

「……じゃあ、あさひの剣は」

言いかけたとき、あさひが鞘(さや)を鳴らした。  刃を戻す音が、はっきりとした。鳴り止んだ後の静寂が、さっきまでの沈黙とは質が違った。

「俺は、減らしたくない」

小さな声だった。  聞き逃しそうな、本音。あさひの視線は自分の膝の上に落ちていた。鞘を握る手の甲に、古い傷が幾筋も走っている。薄い傷、深い傷、交差する傷。その一本一本が、かつて振り下ろした記憶なのだとしたら——こよいはそれ以上考えるのをやめた。あさひの過去に踏み込む資格が、まだ自分にはない気がした。

「でも、減らさなきゃ止まらないものもある。……だから迷う。迷うのが、今の俺の剣だ」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、頷(うなず)いた。  蒼光(そうこう)を落とし、車内が少しだけ暗くなる。暗がりの中で、久遠(くおん)の声だけが静かに通った。

「なら、その迷いごと使え。剣は切るためだけじゃない。……道を示すためにも使える」

列車が大きく揺れた。  座席の木枠が軋(きし)み、行灯(あんどん)がまた一瞬消える。闇の中で、あさひの剣の鞘口(さやぐち)だけが青白い光の線を帯びていた。名前の残光だった。

窓の外の霧(きり)が一瞬だけ薄くなり、遠くに灯が見えた。  黄金でも白でもない、橙(だいだい)に近い色。人の手で灯された火の色だ。あさひは剣の柄(つか)に手を置く。  巾着(きんちゃく)の神々が、同じ拍で脈打った。

猫が、音もなく立ち上がった。  座席の下から歩み出て、窓の下枠に前脚をかける。丸い目は、迷いなく橙(だいだい)の灯を見ていた。誰よりも先に、そこへ行くと決めた者の目だった。

剣の中の線が、灯へ向かって静かに傾いた。  まるで水が低い方へ流れるように、名前の気配が窓の外の灯に引き寄せられていく。こよいは息を潜め、その動きを見守った。

列車は霧(きり)の中を走り続ける。  剣が示す方向へ。まだ名の漂(ただよ)う場所へ。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に寄せ、窓の外の灯を見つめた。  あさひの剣に宿った名前の光が、遠い灯に引かれるように揺れている。  減らしたくないと言った剣士が、それでも灯のほうへ進もうとしている。その矛盾の中に、こよいは自分たちの旅の形を見た気がした。原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の第三条件もまた、矛盾の中にあるのかもしれない。

巾着(きんちゃく)の布越しに、神々が小さく震える。  まだ名前は奪われていない、と告げるみたいに。

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