第122話 道の終わり、道の始まり
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第122話 道の終わり、道の始まり

第4章 境の継ぎ目

目が覚めると、列車は客車に繋がっていた。  どこかの停車で連結されたのだろう。荷物車の扉が開け放たれ、隣の客車に通じる渡り板が架(か)けられていた。あさひが先に移動したらしく、通路側の席に座っていた。  身体が強張(こわば)っていた。木の床で眠ったせいで、背中と腰に鈍い痛みがある。首を回すと骨が鳴った。手の甲に砂利で擦(す)りむいた傷が赤く乾いている。昨夜の逃走の跡だった。

こよいは久遠(くおん)の肩を揺すった。  久遠(くおん)は右目だけ開き、こよいを見て頷(うなず)いた。左目は閉じたままだ。

二人で渡り板を渡り、客車に入った。渡り板は古い枕木(まくらぎ)を並べたもので、足元が不安定だった。連結部の隙間から風が吹き上げ、こよいの裾(すそ)を揺らした。  行灯(あんどん)の蒼い火が座席を照らしている。煤(すす)の匂いと古い木の匂い。見覚えのある車内だった。座席の布地は相変わらず擦り切れ、肘掛(ひじか)けの木が飴色(あめいろ)に光っている。何百人もの手が触れた痕跡が、木目を滑らかに磨いていた。

こよいは窓際の席に座った。座席の布が身体を受け止め、荷物車の木の床とは比べものにならない柔らかさが背中に広がった。  窓の外を見て、息を呑(の)んだ。

海が広がっていた。

銀色の海。霧(きり)でも闇でもない。光を含んだ液体が、地平線まで広がっている。列車はその上を走っていた。レールは見えない。銀色の波の上を、鋼の車輪が音を立てて滑っている。  水平線と空の境目がなかった。銀色が上にも下にも広がり、列車だけが唯一の固い存在として、光の海を貫(つらぬ)いている。こよいは眩暈(めまい)に似た感覚を覚えた。上下の感覚が曖昧になる。座席の硬さだけが、自分がどちらを向いているかを教えてくれた。

波の間に、光の粒子が浮かんでいた。  行きの列車で見た名前の粒子に似ている。だがもっと細かく、もっと密度が高い。波の一つ一つが、無数の記録で出来ているように見えた。  光の粒子が窓硝子(まどがらす)に触れるたびに、微かな音がした。遠い鈴のような、あるいは誰かの声の欠片(かけら)のような音。名前たちが硝子(ガラス)を叩いているのだ。閉じ込められた場所から解き放たれ、行き場を探している。  巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)が一斉に震えた。同胞(どうほう)の名前を感じている。風の神が布越しに海のほうへ身を傾け、雨の神が窓側に転がった。

「……幻影の海だ」

久遠(くおん)が窓越しに言った。

「経蔵(きょうぞう)が崩壊したことで、収められていた記録が理(ことわり)の外に溢(あふ)れ出した。……あの波の一滴一滴が、消された神の名前だ」

あさひが窓の外に目を向けた。普段は興味を示さない彼が、銀色の海を黙って見つめている。波の光があさひの瞳に映り、一瞬だけ剣士の目が柔らかくなった。

こよいは窓硝子(まどがらす)に手を当てた。冷たい。だが、経蔵(きょうぞう)の冷たさとは違う。生きた冷たさだった。  掌(てのひら)の下で、硝子(ガラス)が微かに脈打っている気がした。目を凝らすと、波の表面に文字が浮かんでは沈んでいく。読もうとすると消え、目を逸(そ)らすと再び現れる。

波が列車の横を流れていく。光が車内に差し込み、座席の上に銀色の紋様(もんよう)を描いた。

久遠(くおん)は目録(もくろく)の写しを膝に開いた。  表紙の光はほとんど消えていた。頁(ページ)の文字も、半分以上が白く漂白されている。

「……読めるのは、あとこれだけだ」

久遠(くおん)は右目を細め、残った文字を追い始めた。指先が頁(ページ)をなぞるたびに、文字が薄れていく。読んでいる端から消えていくのだ。  まるで霜が溶けるように、文字の輪郭がぼやけ、紙の白に吸い込まれる。久遠(くおん)の唯一残った右目が、失われていく文字を追って忙しなく動いた。唇が微かに動いている。声にせず、読んだ端から記憶に焼き付けているのだ。額に新しい汗の粒が浮かんだ。

「……原初(げんしょ)の術式(じゅつしき)の手順だ。楔(くさび)を解く鍵そのものは、本体(ほんたい)に刻んできた。だが、それを起こすには核(かく)となる条件が三つ要る」

「三つ?」

「一つ、名前(なまえ)の器(うつわ)。二つ、水脈(すいみゃく)の記憶(きおく)。この二つは鈴灯(すずとも)で確かめた。三つ……」

久遠(くおん)の指が止まった。  文字が、目の前で消えた。

「……三つ目は」

「消えた」

久遠(くおん)は頁(ページ)を見つめたまま、唇を噛(か)んだ。

「……読めたのはここまでだ。三つ目の条件は、もう分からない」

「……本体には、書いてなかったの?」

「本体にも手順は記されていた。だが、三つ目の頁(ページ)は崩壊で失われた。写しにも、本体にも、三つ目はもう残っていない」

沈黙が落ちた。  車輪の音だけが規則正しく刻まれている。銀色の光が車内を流れ、三人の影を座席の上に長く伸ばした。  久遠(くおん)は目録(もくろく)の写しを閉じた。革の表紙はもう光を失い、乾いた古革の手触りだけが残っている。こよいはその変化を見つめ、胸の奥が締まった。

あさひが口を開いた。

「二つは分かってるんだろう。三つ目は、行きながら考えりゃいい」

久遠(くおん)は答えなかった。  頁(ページ)をもう一枚めくったが、白紙だった。その次も、白紙。文字はもう残っていなかった。久遠(くおん)は目録(もくろく)の写しをゆっくりと閉じ、革の表紙を掌(てのひら)で撫でた。指先の下で、最後の微かな温もりが消えていく。  こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。右目だけで世界を見ている彼の表情は、いつもより深い影を帯びていた。読めなかった三つ目の条件が、久遠(くおん)の中で棘(とげ)のように刺さっているのが分かった。

窓の外で、銀色の海が続いている。  波の間に名前が光り、沈み、また光る。消された者たちの記録が、理(ことわり)の外に漂い続けている。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。

『……なまえ。……ここに、たくさん、なまえが、ある……』

風の神の声が聞こえた。巾着(きんちゃく)の中から、海を見ている。

こよいは窓に額を寄せた。  名前の海。声のない名前が、銀色の波になって揺れている。  額に触れる硝子(ガラス)の冷たさが、こよいの頭を静かにした。波の光が瞼(まぶた)の裏に沁(し)み込み、無数の名前の残像が瞬(またた)く。一つ一つが、かつて誰かの祈りだったもの。誰かに呼ばれ、誰かに愛されたもの。  あさひが窓の外を見て、何かを言いかけ、口を閉じた。剣の柄(つか)を握る手に、僅かに力が入っている。この海に名前がある者の顔を、彼は思い浮かべているのかもしれなかった。

三つ目の条件が何であれ、答えはこの旅の先にある。  目録(もくろく)の光が、最後のひと筋を残して、消えかかっていた。

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