第121話 真実の棚
121

第121話 真実の棚

第4章 境の継ぎ目

しばらく、誰も動かなかった。  列車の揺れだけが荷物車の床を通して伝わり、積まれた木箱が微かに軋(きし)む。  天井板の節穴(ふしあな)から、細い隙間風が降りてくる。その風が乾いた血の匂いを運んだ。あさひの腕の傷からだ。布で巻いてはいるが、滲(にじ)んだ赤が包帯(ほうたい)代わりの布切れを濃く染めている。  荷物車の闇は深かった。灯(あかり)は一つもない。木箱の角と、壁の輪郭と、互いの呼吸だけが、この空間に三人がいることを証明していた。

久遠(くおん)が壁に背中を預けたまま、ゆっくりと目を開けた。  右目だけだった。義眼(ぎがん)のある左目は開かない。

「……左目が見えない」

「ずっと?」

「分からない。使いすぎた。しばらく休ませれば戻るかもしれない」

久遠(くおん)の声は淡々としていたが、額の汗が乾いた跡と、左目の下に流れた黒い涙の筋が、彼の身体がどれだけの負荷に耐えたかを物語っていた。  黒い涙は義眼(ぎがん)の術式が焼けた残滓(ざんし)だった。乾いた筋は頬の上で微かに光を帯び、古い墨で書かれた文字の跡のように見えた。  こよいはそれを見つめ、何か言おうとして、やめた。今は言葉より、静かにしていることのほうが必要だった。

あさひが木箱の一つを蹴り、蓋を外した。蓋が外れた拍子に、藁(わら)の埃(ほこり)が舞い上がった。埃(ほこり)が鼻をくすぐり、こよいは小さくくしゃみをした。その音が荷物車の中に妙に大きく響いて、三人の緊張を僅かにほぐした。  中に藁(わら)に包まれた陶器があった。壺(つぼ)か、瓶(びん)か。あさひは一つを手に取り、蓋を開けた。

「……水だ。飲めるかは知らんが」

匂いを嗅(か)ぎ、一口含んだ。飲み込んだ。

「飲める。ぬるいが、まともな水だ」

久遠(くおん)に渡し、こよいにも渡した。  こよいは水を一口飲んだ。喉の奥に沁(し)みる。経蔵(きょうぞう)の乾いた空気で渇(かわ)いていたことに、今さら気づいた。  水は土の味がした。地下を通ってきた水だ。鉄の匂いが僅かにあり、舌の上でひんやりと広がる。二口目を飲み、三口目で壺(つぼ)をあさひに返した。  巾着(きんちゃく)に水の気配が届いたのか、神々が小さく震えた。雨の神が水に反応している。こよいは壺(つぼ)の水を少しだけ指に取り、巾着(きんちゃく)の布に含ませた。布が水を吸い、神々の脈が一つ、深くなった。

「……術式は、本当に刻めたの?」

こよいが訊(き)いた。

久遠(くおん)は右目でこよいを見た。

「核心部分は全て本体に転写した。あの棚が崩れても、本体の書物が残る限り、原初の術式は消えない」

久遠(くおん)の声に、微かな誇りが滲(にじ)んだ。命を削って刻んだものへの、静かな確信だった。

「観測者(かんそくしゃ)がまた消そうとしたら?」

「俺が書いたのは、消去できない層だ。義眼(ぎがん)でしか書けない深さに刻んだ。……代償がこの目だったわけだが」

久遠(くおん)は左目に触れ、小さく息を吐いた。  その指先が微かに震えていた。普段の久遠(くおん)なら、決して見せない弱さだった。義眼(ぎがん)は彼の武器であり、盾であり、世界を読み解くための唯一の道具だ。それを失うかもしれないという恐怖が、指先の震えに滲(にじ)んでいる。  あさひはそれを見ても何も言わず、壺(つぼ)の水をもう一口飲んだ。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝に乗せた。  布越しに手を当てる。雨の神が弱く脈打っている。月の光は微かで、風の神は静かだった。

『……いたかった。……でも、ちゃんと、とどいた……』

雨の神の声が、布の奥から聞こえた。  何が届いたのか、こよいには分からなかった。だが神々の脈が、ほんの少しだけ安定した気がした。  月の光が巾着(きんちゃく)の中でほの白く灯(とも)り、硝子(びいどろ)の神が微かな音を立てた。硝子(びいどろ)の欠片(かけら)同士が触れ合う、澄んだ音色(ねいろ)。荷物車の木壁に反響し、一瞬だけ車内が柔らかい光に包まれた。

「……この子たちにも、何か伝わったみたい」

「当然だ。原初の術式は、神々を解放するための鍵だからな。術式が刻まれたことを、神々自身が感じ取ったんだろう」

あさひは壁に寄りかかり、腕を組んだ。  腕の傷に巻いた布が、乾いた血で茶色く固まっている。だがあさひは痛みを気にした様子もない。戦いの後の身体は、まだ興奮の残滓(ざんし)で麻痺(まひ)しているのだろう。

「で、次はどうする。術式を手に入れたはいいが、使い方は分かってんのか」

「……目録(もくろく)の写しに手順が書いてあった。だが、文字が消えかかっている。鈴灯(すずとも)に戻るまでに、読み取れる部分を全て記憶する」

久遠(くおん)は懐から目録(もくろく)の写しを取り出した。  こよいが経蔵(きょうぞう)で抱え続けていたあの黄金の書物。表紙の光はさらに弱くなっていた。頁(ページ)の縁(ふち)が黒ずみ、文字が滲(にじ)んでいる。  行灯(あんどん)の光もない荷物車の中で、目録(もくろく)の残照だけが久遠(くおん)の手元を淡く照らした。その光すら、揺らめくたびに弱くなる。蝋燭(ろうそく)の最後の炎のようだった。

久遠(くおん)は右目だけで頁(ページ)を追い始めた。  義眼(ぎがん)なしでは、不可視の文字は読めない。見える文字だけを拾い、記憶に焼き付けていく。

こよいは久遠(くおん)の横に座り、巾着(きんちゃく)を胸に抱いた。  久遠(くおん)の体温が隣から伝わる。低い体温だった。経蔵(きょうぞう)で力を使い果たし、身体の芯(しん)まで冷えている。こよいは無言で自分の肩を久遠(くおん)の腕に寄せた。体温を分けるように。久遠(くおん)は何も言わなかったが、僅かに身体を預けてきた。  荷物車に窓はなかった。外がどうなっているか分からない。ただ、車輪がレールを刻む音と、列車が走っている振動だけがある。

あさひの呼吸がゆっくりと深くなった。  眠ったのではない。体力を温存しているのだ。次に何が起きても動けるように。剣を膝の上に横たえたまま、片手は常に柄(つか)に添えている。戦士の眠り方だった。

こよいは目を閉じた。  巾着(きんちゃく)の温もりが胸にある。水の味がまだ舌に残っている。列車は走り続けている。  車輪の律動が、巾着(きんちゃく)の中の神々の脈と重なった。同じ速度で、同じ間隔で、鉄と水が呼吸を合わせている。木箱の隙間から、乾いた藁(わら)の甘い香りが立ち上った。こよいの瞼(まぶた)が重くなる。身体の芯(しん)に溜まった緊張が、列車の揺れに少しずつ溶かされていく。

明日のことは、明日考える。  あさひが前に言った言葉が、こよいの頭の中で繰り返されていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます