第120話 覚醒の予感
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第120話 覚醒の予感

第4章 境の継ぎ目

書架(しょか)が崩れていた。  前回とは規模が違う。棚が一つ倒れるたびに隣の棚を巻き込み、連鎖が止まらない。書物が雪崩(なだれ)のように降り注ぎ、床の石が割れ、沈む。  倒れた書物が床に叩きつけられるたび、頁(ページ)から光の粉が噴き上がった。名前の粒子だ。書物に閉じ込められていた記録が、衝撃で弾(はじ)け飛んでいる。粒子は宙を漂い、こよいの頬や腕に触れては消えた。触れた場所がひりつく。誰かの記憶の熱さだった。

あさひが先頭を走った。倒れてくる棚板を剣で叩き落とし、道を切り開く。斬(き)り払った棚板が壁に当たり、木片と書物の頁(ページ)が紙吹雪のように舞った。あさひの背中は傷だらけだった。衣の裂け目から、新しい血が滲(にじ)んでいる。  久遠(くおん)はこよいに支えられながら走っていた。義眼(ぎがん)の光は消え、足取りが重い。

「ホームは!」

こよいが振り返ろうとした。だが久遠(くおん)が腕に力を込め、前だけを見ろと促した。

「……潰れた。来た道は使えない」

久遠(くおん)が息を切らしながら答えた。義眼(ぎがん)が一度だけ弱く点(とも)り、前方の構造を読み取る。

「……左。書架(しょか)の裏手に、搬入口がある。記録を運び入れるための古い通路だ」

あさひは迷わず左に曲がった。倒れかけた棚の間を身体を捻(ひね)って抜け、書物の山を踏み越える。足元で古い革の表紙が潰れ、乾いた背糊(せのり)が砕ける音がした。  棚と棚の隙間に、確かに小さな扉があった。木の扉で、錠(じょう)はない。蹴り開けると、狭い石の通路が奥へ続いていた。黴(かび)た空気が通路の奥から流れてきて、鼻の奥を刺した。

天井が低い。あさひは頭を下げて走った。こよいは久遠(くおん)の腕を肩に回し、引きずるように進む。  久遠(くおん)の身体は思ったより軽かった。軽すぎた。義眼(ぎがん)に注ぎ込んだ力の分だけ、肉体が削(そ)がれている。こよいの肩に預けた腕から、骨の形がそのまま伝わった。  石の壁が狭まり、二人分の肩幅がぎりぎり通れる幅になった。冷たい石が頬を掠(かす)め、苔(こけ)の湿った感触が肌に残る。

通路の壁に、文字が刻まれていた。  古い文字。書架(しょか)の中の書物と同じ、読めない文字。だが壁の文字は動いていない。刻まれたまま、静かにそこにある。  こよいは走りながらその文字に目を奪われた。経蔵(きょうぞう)が壊れても、この通路の文字は崩れない。石に直接彫(ほ)られた言葉には、紙の記録とは違う強さがあるのだ。巾着(きんちゃく)の中で、月の神の光が壁の文字に反応するように微かに揺れた。古い記憶を読んでいるのかもしれなかった。  だが立ち止まる暇はない。

背後で、経蔵(きょうぞう)が崩壊する音が追いかけてくる。  地面が揺れ、壁から砂が落ちた。砂粒が首筋に入り込み、肌の上を冷たく滑る。  巾着(きんちゃく)の中で風の神が叫んだ。声にならない叫びだった。布が内側から膨らみ、こよいの胸を強く押した。逃げろ、と言っている。風が知っている。この通路が持つ時間の限界を。  天井に亀裂(きれつ)が走り、石の粉が雨のように降った。こよいは目を庇(かば)い、久遠(くおん)を抱えたまま足を速めた。

通路の先に光があった。蒼白い光ではない。煤(すす)を含んだ黄色い光。列車の光だ。

「……見えた。線路がある」

あさひが叫んだ。  通路は経蔵(きょうぞう)の裏手に出ていた。外の空気が顔を叩いた。経蔵(きょうぞう)の中の澱(よど)んだ空気とは違う、冷たいが生きた空気だった。  本線とは違う、細い側線にレールが一本だけ敷かれている。その上に霧列車が停まっていた。

機関車は蒸気を吹き、動輪がゆっくり回り始めている。ホームはない。線路の砂利に直接降りる高さだった。

汽笛(きてき)が鳴った。短く、二度。

「あの列車、自分で逃げようとしてるぞ!」

「当たり前だ。あいつも生き物みたいなもんだからな」

あさひは久遠(くおん)をこよいから引き取り、肩に担いだ。

「走れ!」

こよいは走った。巾着(きんちゃく)を胸に抱え、砂利を蹴った。石が足裏に食い込む。列車は加速し始めていた。  蒸気が噴き出し、熱い霧が顔にかかった。機関車の罐(かま)が唸(うな)る音は、生き物が恐怖で喘(あえ)ぐ声に似ていた。動輪の回転が速くなる。砂利が車輪に弾(はじ)かれ、こよいの脛(すね)に当たった。痛みが走る。構わず走った。  巾着(きんちゃく)の中で神々が激しく脈打っている。雨の神が、こよいの心拍に合わせるように鼓動していた。

最後尾の車両に、荷物搬入用の低い扉があった。取っ手は錆(さ)びていたが、こよいが引くと開いた。

あさひが久遠(くおん)を車内に押し込み、自分も飛び乗った。こよいはステップに足をかけ、取っ手を掴(つか)んで身体を引き上げた。

扉を閉めた。

背後で、搬入口の壁が崩れた。石と書物の塊が線路に落ち、レールが歪(ゆが)む音がした。列車は加速を続け、崩壊から逃げるように闇の中へ走り出した。

荷物車の床に転がり、こよいは天井を見上げた。  木の天井板に、積荷の染みが幾つも浮かんでいる。油と、藁(わら)と、何か甘い穀物の匂い。それが今は世界で一番安全な匂いに思えた。  心臓が喉を叩いている。息が荒い。手が震えている。

久遠(くおん)は壁に背中を預け、目を閉じていた。額から顎(あご)にかけて、義眼(ぎがん)から流れた黒い涙の筋が乾いている。

あさひは荷物車の隅に座り込み、剣を膝に横たえた。刀身に新しい傷が三本、光を反射している。

「……逃げ切ったか」

「ああ。……術式は、刻んだ」

久遠(くおん)の声はかすれていたが、口元に微かな笑みがあった。

こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。  四柱(よはしら)の脈が、弱いが確かに返ってくる。生きている。  こよいは息を吐いた。長い、震える息だった。指の先が冷たい。膝が笑っている。全身の力が抜けて、そのまま床に崩れ落ちそうだった。だが巾着(きんちゃく)の重さが、胸の上で確かにある。その重さがこよいを繋ぎ止めていた。

荷物車には木箱が積まれていた。古い麻布と乾いた藁(わら)の匂いがする。客車ではないが、座れるだけの広さはあった。

列車の揺れが、少しずつ穏やかになっていく。  経蔵(きょうぞう)から離れているのだ。崩壊の振動はもう伝わらない。車輪がレールを踏む規則的な音だけが、闇の中で刻まれている。  あさひが剣の柄(つか)を握ったまま、壁に頭を預けた。目は閉じているが、耳は起きている。戦いが終わった後の、獣のような休み方だった。  窓のない荷物車の中で、三人は揺られていた。

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