第116話 消える記録
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第116話 消える記録

第4章 境の継ぎ目

列車は闇の中を走り続けていた。  窓の外に景色はなかった。  霧(きり)ですらない。  光そのものが途絶えた、純粋な暗闇(くらやみ)。

車輪がレールを刻む音だけが規則正しく響き、その振動が座席の木材を通じて、こよいの背骨にじんわりと伝わっていた。  車内には蒼白い行灯(あんどん)が一つだけ灯(とも)っていた。その光の輪の中だけが世界で、輪の外は何もない。天井の木板(きいた)に映った二人の影が、列車の揺れに合わせてゆっくりと歪(ゆが)んでいた。  向かいの席で、久遠(くおん)が目録(もくろく)を膝(ひざ)に広げていた。  黄金の表紙から立ち昇る光は、経蔵(きょうぞう)を出たときよりも確実に弱まっている。  頁(ページ)の縁(ふち)が不自然に黒ずみ、触れた指先が微かに震えていた。

久遠(くおん)の義眼(ぎがん)は蒼白い光を絞り出すようにして明滅し、書物に刻まれた不可視の文字を一行ずつ拾い上げている。

「……記録が消えかかっている」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。  声に焦りが混じっていた。指が頁(ページ)の上で止まり、爪の先が黄金の表紙に白く食い込んでいた。こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。行灯(あんどん)の光が頬骨(ほおぼね)の下に深い影を落としている。経蔵(きょうぞう)を出てから、彼の顔はさらに痩(や)せた気がした。

「消える……? あの、真実の目録(もくろく)が?」

「奴ら観測者(かんそくしゃ)は、本体側から遠隔で書き換えを始めてやがる。このままじゃ、あと数刻で白紙に戻されるぞ」

「本体……?」

「俺たちが持ち出せたのは、写しまでだ。本体は、まだ経蔵(きょうぞう)の棚に残っている。だから奴らは、本体から書き換えられる」

巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が冷たく脈打った。経蔵(きょうぞう)で触れた真実の重さが、まだ神々の奥に沈んでいる。神々は自分たちの起源を知ってしまった。その沈黙が、車内の空気をさらに重くしていた。  こよいは身を乗り出し、目録(もくろく)の頁(ページ)を覗(のぞ)き込もうとした。  だが久遠(くおん)がその手を静かに遮った。

「見るな。書き換え途中の記録は中身が不安定だ。読んだ人間の記憶ごと巻き込まれる」

「……じゃあ、久遠は大丈夫なの?」

「俺のこの目は、記録を映すだけで読むわけじゃないからな」

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を細め、頁(ページ)の上を走る自分の指を見つめた。  指先が触れた場所から、文字が砂のように崩れていく。  掬(すく)い上げようとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちる。  巾着(きんちゃく)の中で、月の神が微かに光った。銀色の光が目録(もくろく)の表紙を撫(な)でるように這(は)い、そこで力尽きたように消えた。月の神は文字を繋ぎ止めようとしたのだ。だが、遠隔消去の力には届かなかった。  あさひは通路側の席に深く沈み込み、両腕を組んだまま目を閉じていた。

眠っているのではない。  耳が動いている。  車内のあらゆる音を拾い、異変がないかを常に確かめている。  あさひの剣は膝(ひざ)の上に横たえられていた。経蔵(きょうぞう)で受けた傷痕(きずあと)が刃に幾筋も残っている。

「……もう一度、行くしかないんだろう。あの墓(はか)に」

あさひが目を閉じたまま言った。

「ああ。本体の目録(もくろく)を直接書き換える。それしか、この記録を永久に残す方法はない」

久遠(くおん)の声は平坦だった。  だが、目録(もくろく)を抱える指が白くなるほど力がこもっていた。  列車が揺れるたびに、目録(もくろく)の頁(ページ)から黒い粉が散った。文字の死骸(しがい)だった。久遠(くおん)の膝(ひざ)に積もり、衣の皺(しわ)に溜まっていく。彼はそれを払おうとしなかった。一片でも多く手元に留めておきたいのだろう。  こよいは窓に目を向けた。  暗闇(くらやみ)の中に、何かが見えた。

微かな光の粒子が、窓硝子(まどがらす)の外を横切っていた。  最初は目の錯覚かと思った。だが目を凝らすと、粒子は確かにそこにあった。暗闇(くらやみ)の中を、星のように静かに、しかし確実に流れている。  蛍(ほたる)のようでもあり、雪のようでもある。  一粒一粒が極小の文字を宿していた。  解体された記録の欠片(かけら)が、理(ことわり)の奔流(ほんりゅう)に乗って宙を漂っているのだ。

列車はその光の粒子の川を、真横に切り裂くようにして走っていた。  巾着(きんちゃく)の中で、硝子(びいどろ)の神が微かに光った。  反射の光が窓硝子(まどがらす)に当たり、外の光の粒子を一瞬だけ鮮明に映し出す。  粒子の一つ一つに、名前が見えた。

人の名前、神の名前、土地の名前。  全て消されかかった、誰にも読まれることのなかった名前たち。  こよいは窓硝子(まどがらす)に指先を当てた。冷たい。だが粒子が通り過ぎる場所だけ、硝子(ガラス)がほんのわずかに温かかった。消えかかった名前にも、まだ熱が残っている。その熱が指先を伝い、胸の灯(ともしび)に届いた。

「……あの光、全部、名前なんだ」

こよいが呟(つぶや)くと、あさひが片目を開けた。

「記録ってのは、結局、名前だからな。名前を消されたら、何者でもなくなっちまう」

列車が僅かに速度を上げた。  車輪の音が一段高くなり、座席の振動が強まる。  窓の外の光の粒子は密度を増し、やがて列車全体を包み込むほどの奔流(ほんりゅう)となった。  名前の川を遡(さかのぼ)るようにして、列車は走り続けた。  車体が光の粒子を裂くたびに、鋼の表面に無数の名前が一瞬だけ浮かび、すぐに消えていく。

その先に、あの漆黒の門が待っている。  こよいにはそれが分かった。  巾着(きんちゃく)の中の神々が、恐怖と覚悟(かくご)を同時に震わせていたから。

こよいは窓に額(ひたい)を寄せた。  巾着(きんちゃく)を胸に抱き寄せると、四柱(よはしら)の鼓動が一つに重なった。恐怖と覚悟(かくご)、その間にある名前のない感情。こよいはそれを、祈りと呼ぶことにした。  硝子(ガラス)の冷たさが、火照(ほて)った頬に沁(し)みた。  名前の光はまだ流れていた。  一つ一つを掬(すく)い上げることはできない。  けれど、見届けることはできる。

列車の振動が、熱や眠気のように身体の芯を浸した。  向かいの席で、久遠(くおん)がようやく目録(もくろく)を閉じた。黄金の表紙が最後の光を一つ瞬(またた)かせ、静かに暗くなった。久遠(くおん)はそれを懐に仕舞い、深く息を吐いた。疲労の色が、行灯(あんどん)の光の下でいっそう濃く見えた。  こよいは抗(あらが)わなかった。  次の門をくぐるまでに、どれだけの時間が残されているのか分からない。  だから今だけは、走り続ける列車の揺れに身を預けた。  名前たちの光が、閉じた瞼(まぶた)の裏をゆっくりと横切っていった。

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