第115話 茶屋の老人
115

第115話 茶屋の老人

第4章 境の継ぎ目

市場を抜けると、通りは静かだった。  夕暮れの鈴灯(すずとも)は朝とは別の顔をしている。軒先の銀鈴が時おり鳴るほかは、石畳(いしだたみ)を踏む三人の足音だけが響いていた。  露店は畳まれ、木枠が壁に立てかけられている。朝の賑わいが嘘のように、通りには人影がなかった。石畳(いしだたみ)の表面が夕陽を反射し、濡れてもいないのに光っている。

空が赤く染まっていた。川霧(かわぎり)が薄く立ち始め、夕陽が霧(きり)を透かしてぼんやりと滲んでいる。  赤い光が石畳(いしだたみ)の継ぎ目に入り込み、町全体が炉の底で燃えているように見えた。こよいは一度だけ振り返り、風庭(かぜにわ)のある石段の方を見た。石段は夕陽の影に沈み、もう見えなかった。

久遠(くおん)は歩きながら目録(もくろく)を開いていた。義眼(ぎがん)の蒼光が頁(ページ)を舐め、指先が文字の上を走る。

「原初の術式の核となる部分が、まだ読み解けない。経蔵(きょうぞう)の中にしかない記録が、術式を完成させる鍵になっている」

「もう一度、行くのか」

「行くしかない」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。表紙の黄金の光が、夕陽の中で鈍く反射している。  光が弱くなっている。朝に比べて、目録(もくろく)の輝きは明らかに落ちていた。経蔵(きょうぞう)から離れるほど、書物の力が薄れていくのかもしれない。こよいは歩幅を合わせながら、久遠(くおん)の横顔を盗(ぬす)み見た。眉間(みけん)に皺(しわ)が寄り、あさひに見せないように目録(もくろく)を握りしめている。鈴灯(すずとも)で得た二つの条件は、あくまで序章に過ぎない。残る一つが見つからなければ、神々を解放する方法は永遠に完成しない。

あさひが目録(もくろく)を一瞥(いちべつ)した。

「時間がねえってことだな」

「ああ。急ぐ必要がある」

停車場(ていしゃじょう)へ続く坂道は、町の裏手に回り込むように伸びていた。  石段の両脇に低い石垣が続き、垣の上に猫が一匹、丸くなっている。こよいが通り過ぎるとき、猫は片目だけ開けて三人を見送り、またすぐに閉じた。

坂道の途中に、小さな茶屋(ちゃや)があった。  暖簾(のれん)は色褪(いろあ)せ、看板の文字は半ば消えている。客はいない。  軒先に吊るされた風鈴が、夕風に鳴った。澄んだ音が坂道を下っていき、町の鈴の音に溶けて消える。

店先に老人が座っていた。椅子に深く腰を下ろし、行灯(あんどん)の火を手で囲っている。風が吹くたびに火が揺れ、そのたびに老人の掌(てのひら)が炎を守るように動いた。  その手つきに迷いがなかった。何十年もそうしてきた手だと、こよいは思った。

三人が通りかかると、老人が顔を上げた。  こよいの巾着(きんちゃく)を見て、何かを感じ取ったのだろう。しわだらけの顔に、微かな表情が浮かんだ。

「……旅の方。この鈴灯(すずとも)の火を、どうか絶やさぬように」

枯れた声だった。  行灯(あんどん)の火が、老人の瞳(ひとみ)の奥に小さく映っている。その瞳は遠くを見ているようで、同時にこよいの巾着(きんちゃく)を見ていた。神の気配を感じる者が、この町にもいるのだ。  こよいは立ち止まり、頭を下げた。

「はい。……必ず」

老人は小さく頷(うなず)き、また行灯(あんどん)の火に目を戻した。  茶屋(ちゃや)を過ぎると、坂が急になった。石段の隙間から草が伸び、夕風が背中を押す。

停車場(ていしゃじょう)に着いたとき、ホームには霧列車がすでに待っていた。  黒い鋼の車体から蒸気が噴き出し、動輪がゆっくりと回っている。煤(すす)の匂いが夕暮れの空気に混じり、鼻の奥を刺した。  機関車の腹に、赤い光が明滅している。釜(かま)の火だ。石炭が燃える低い唸(うな)りが、ホームの石畳(いしだたみ)を通して足裏に伝わってくる。

こよいは巾着(きんちゃく)を確かめた。  四柱(よはしら)の神々は静かだった。神々の脈は浅く、月の神の銀光は消え、硝子(びいどろ)の神も風の神も身を潜めている。経蔵(きょうぞう)へ向かうと知って、身を固くしているのだろう。  もう一度、あの場所に戻る。神々にとって、それがどれほどのことか。  あさひがホームの端に立ち、線路の先を見つめている。剣の柄(つか)を一度だけ握り、すぐに離した。その指先に力が篭(こも)っていたことに、こよいは気づいた。

あさひが扉を開け、先にステップに足をかけた。

「……行くぞ」

こよいは振り返った。  坂の下に、鈴灯(すずとも)の町が広がっている。霧(きり)の中に銀鈴の音がかすかに聞こえ、市場の灯(ともしび)が小さく瞬いていた。  風庭(かぜにわ)で開いた水路。祠(ほこら)に落とした一滴。茶屋(ちゃや)の老人が守る火。三つの記憶が、この町の灯(ともしび)の元になっている。それらを、経蔵(きょうぞう)の奥で見つけた三つ目の術式が繋ぐ。その連なりが、神々を元の場所へ還す道になる。

この町が、三人がいなくなっても、自分の力で朝を迎えられるように。  巾着(きんちゃく)の中で、風の神が小さく身じろぎした。鈴灯(すずとも)の鈴の音に応えるように、布が内側からふわりと膨らんだ。この町の風と、巾着(きんちゃく)の中の風が、最後に一度だけ呼応(こおう)した。  そう願って、こよいは列車に乗り込んだ。

扉が閉まった。  汽笛(きてき)が一度だけ鳴り、列車は動き出した。車輪がレールを噛み、振動が座席の木を通して背骨に伝わる。

窓の外で鈴灯(すずとも)の灯(ともしび)が遠ざかっていく。  霧(きり)が濃くなり、やがて灯(ともしび)は滲んだ点になり、消えた。  列車は霧(きり)の中を走り始めた。窓の外に何も見えない。蒸気の匂いと、石炭が燃える低い唸(うな)りだけが、動いている証だった。  あさひは向かいの席で目を閉じ、剣を抱えている。久遠(くおん)は懐の目録(もくろく)に時折手を触れながら、窓に凭(もた)れていた。

こよいは窓硝子(まどがらす)に額を当て、目を閉じた。  硝子(ガラス)は冷たく、額の熱を吸い取っていく。振動が骨に伝わり、歯の根が微かに鳴った。

巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が静かに脈打っていた。  弱く、けれど途切れずに。その脈に合わせるように、こよいは呼吸を整えた。  窓の外の闇が深くなるほど、巾着(きんちゃく)の温もりだけが確かなものになっていく。

経蔵(きょうぞう)が待っている。  記録の墓が、三人を待っている。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます