第111話 風庭の目覚め
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第111話 風庭の目覚め

第4章 境の継ぎ目

目を開けたとき、最初に感じたのは風だった。  頬を撫でる乾いた風。  冷たくはなく、温かくもない。  ただ動いている。

世界そのものが呼吸しているような、大きく緩やかな脈動が、こよいの全身を包み込んでいた。  背中に固い地面の感触があった。  石ではない。  乾いた土だった。

指先で触れると、砂のように細かい粒子がさらさらと崩れた。  銀色の砂粒が爪の間に入り込み、振り払おうとすると、指先に微かなしびれが走った。てのひらに残る感触は粉雪にも似ているが、乾いていて、指の熱を吸い取るように冷たかった。この砂は普通の砂ではない。

「……生きてるか」

あさひの声が、すぐ近くから聞こえた。  こよいは上体を起こした。肩に残った衝撃の余韻が腕を痺れさせ、指が巾着きんちゃくを握る力を取り戻すまで数息かかった。  視界がぐらりと揺れ、一瞬だけ空と地面の区別がつかなくなる。  目が慣れると、見渡す限りの銀色の砂地が広がっていた。どれほど気を失っていたのか、空はすでに夜へ沈みかけていた。

高い場所にいた。  眼下に、鈴灯すずともの宿場町が小さく見えた。  軒先の銀鈴が光の粒のように瞬き、石畳いしだたみの道が蛇のように曲がりくねって闇の中に消えている。  あの市場の喧騒けんそうも、茶屋ちゃや暖簾のれんの揺れも、ここからでは何も聞こえない。  空気が薄い。息を吸うたびに肺の奥が冷え、吐く息は白くならないのに、喉だけが鉄の味を返した。

ただ風だけが鳴っていた。  低く、太く、地面から湧き上がるような風の声。耳に聞こえる音ではなく、骨を通して脳に届く振動だった。

「……風庭かぜにわだ。鈴灯すずともの最高峰。ことわりの風が生まれて死ぬ場所だよ」

久遠くおんは既に立ち上がっていた。  衣のそでに砂がこびりつき、義眼ぎがん蒼光そうこうは弱々しく明滅している。  銀色のうずから放り出された代償は大きかったようで、左目の下に黒いくまが濃く落ちていた。  こよいは巾着きんちゃくを確かめた。

ひもはほどけておらず、中の神々は生きていた。  月の神が微かな銀光を漏らし、風の神が巾着きんちゃくの布越しに外の風と共鳴するように震えている。  硝子びいどろの神は冷たく静かに呼吸を続けていた。

『……かぜ。……ここの、かぜ、しってる……』

巾着きんちゃくの底から、風の神の小さな声が聞こえた。  こよいは思わず巾着きんちゃくを耳に近づけた。  風の神がこれほどはっきりと言葉を発するのは、初めてのことだった。  足元の砂地には、風の通り過ぎた跡が細い筋となって無数に描かれていた。

その紋様もんようは一瞬ごとに形を変え、うずを巻き、直線を走り、止まることを知らない。

「……この場所には、記録される前の風が吹いている。観測者かんそくしゃにも観測されていない、生のままのことわりだ」

こよいは風の神の言葉を反芻はんすうした。記録される前。観測されていない。経蔵きょうぞうで見た培養記録とは逆の、名前すらない原初の風。巾着きんちゃくの中の風の神がそれに呼応しているのは、同じく記録の外側で生まれた存在だからなのだろうか。

久遠くおんは砂地にひざをつき、指先で風の描いた筋をなぞった。  指が触れた場所から、砂が微かに震え、新しい筋が生まれる。  まるで大地そのものが久遠くおんの指に応えているようだった。

「……つまり、ここなら奴らの目が届かねえってことか?」

あさひが剣のつかに手を置いたまま問うた。

「一時的にはな。だが長くはもたない。経蔵きょうぞうから盗んだ目録もくろくの気配を、奴らはもうぎつけている」

風が一度だけ強く吹き、三人の衣を激しく鳴らした。  砂が舞い上がり、銀色の粒子が空中でうずを描いて、一瞬だけ光の柱のように見えた。  それが崩れると、庭園の奥に巨大な丸石が鎮座ちんざしているのが見えた。  こけに覆われた石の表面に、細かな傷が無数に刻まれている。石の周囲だけ、砂の色がわずかに濃く、湿気を帯びているように見えた。

こよいの巾着きんちゃくの中で、雨の神がことりと揺れた。  月の神の銀光が石の表面に反応し、一瞬だけ明るくともった。  乾いた土の匂いが、鼻腔びこうの奥までみた。  この場所はかわいている。  水を求めている。

大地の底から、微かな、けれど確かなかわきの振動が、足裏を通じて伝わってきた。

「……あの石のところまで、行きたい」

こよいが言った。  理由は分からなかった。  ただ、雨の神が温かく脈打つ方向に、あの石があった。  あさひは周囲を見渡し、安全を確かめてからうなずいた。剣の切っ先を砂に立て、立ち上がる途中で一度足を踏みしめ、地面の硬さと滑り具合を確かめている。

久遠くおん義眼ぎがんを細め、庭園の奥に潜むことわりの波動を読んでいた。  三人は砂地を踏んで歩き出した。  足跡が砂に刻まれ、風がすぐにそれを消していく。  空は高く、星はなく、月だけが薄い雲の向こうで青白く燃えていた。

乾いた風が髪をさらい、衣のそでを鳴らし、耳の奥を通り抜けていく。  歩を進めるたびに足裏の感覚が変わる。砂の下に硬い岩盤が近づいているのか、それとも水脈すいみゃくの影響か、足元の振動がわずかに規則的になってきた。こよいはその変化を足に覚えながら、黙って歩いた。  こよいはその風の音の中に、遠い昔にこの場所を守っていた神の名残を聞いた気がした。  石のかたわらに立つと、風が止んだ。  音が消え、砂が静まり、世界が息を詰めた。こよいの耳に、自分の心臓の音だけが響いた。

石の表面に刻まれた傷は、風が彫ったものではなかった。  こよいが指先で触れると、巾着きんちゃくの中で雨の神がひときわ強く脈打った。  傷の一つ一つが、かつてこの庭を守っていた名前の痕跡こんせきだった。  風に削られ、陽に焼かれ、それでもなお消えることを拒んだ、無数の祈りの残り香。

こよいは石の前にひざをつき、両のてのひらを押し当てた。  冷たかった。  指先から石の内部へ、微かな脈動が伝わる。規則的な間隔で打つ、動脈のような鼓動。こよいは呼吸を整え、掌の力を抜いた。  けれどその冷たさの奥に、微かな温もりが残っていた。

かわいた大地の底で、誰かがまだ息をしている。  風庭かぜにわの砂が、三人の足元で音もなくうずを描き始めた。

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