第112話 一滴の意志
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第112話 一滴の意志

第4章 境の継ぎ目

石の裏側に、穴があった。  拳(こぶし)が一つ入るほどの小さな穴。苔(こけ)と砂に半ば塞がれていたが、指先で触れると、奥から微かな湿気が吹き上がった。

こよいの掌(てのひら)に、巾着(きんちゃく)の中の雨の神が応えた。  神々が布越しに温かく脈打つ。水を、感じている。

「……ここに、水の道があった」

こよいは両手で穴の縁の砂を掻(か)いた。乾いた砂が指の間から零(こぼ)れ、やがて石の下に、丸い石組みの口が現れた。  水路だった。かつてこの庭に水を引いていた、古い水路の入口。

久遠(くおん)が膝(ひざ)をつき、義眼(ぎがん)で穴の奥を覗いた。

「……深い。地下水脈に繋がっている。だが、流れが止まっている。水路の途中に何かが詰まっているのか、それとも――」

「枯れたんじゃない。止められたんだ」

こよいは水路の口に手を当てた。  穴の奥から伝わってくる振動は、枯渇ではなかった。水はまだそこにある。ただ、流れることを許されていない。

『……みず。……ここの、みず、おぼえてる。……むかし、ながれてた……』

雨の神の声が、かすれた糸のように巾着(きんちゃく)の底から聞こえた。  こよいは巾着(きんちゃく)の口を開いた。神々が弱い光を放っている。

「流してあげたい。でも、どうすれば」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を取り出し、頁(ページ)をめくった。義眼(ぎがん)の蒼光が弱々しく明滅する。

「この庭は、もともと風と水が交わる場所だった。風の神が空気を動かし、雨の神が水を通す。二つが揃って、初めて理(ことわり)が循環する」

風の神が巾着(きんちゃく)の中で震えた。  外を吹く風が一瞬だけ強くなり、砂が渦(うず)を描いた。

あさひが腕を組んで立っていた。

「要するに、あいつらを使えってことか」

「使うんじゃない」

こよいは巾着(きんちゃく)の口に手をかけて、止まった。  経蔵(きょうぞう)で見た記録が、脳裏をよぎる。培養温度。耐久年数。廃棄条件。  この子たちは部品じゃない。ぼくが勝手に使っていいものじゃない。

「……ごめん。決めるのは、ぼくじゃない」

こよいは巾着(きんちゃく)を水路の口の傍に置いた。ただ、それだけだった。  布越しに、神々の脈が伝わっている。渇いた水路と、巾着(きんちゃく)の中の雨の神。二つの水が、互いを感じ合っている。

長い沈黙があった。

やがて、巾着(きんちゃく)の口が内側から微かに開いた。  雨の神が自ら布を押し上げ、小さな水の珠(たま)が巾着(きんちゃく)の縁に現れた。月の光を含んで、淡く青い。  誰も触れていなかった。  雨の神は巾着(きんちゃく)の縁で一度だけ大きく脈打ち、それから、自分で落ちた。

水路の暗がりに、一滴の光が吸い込まれていった。音はなかった。

しばらく、何も起こらなかった。  風が砂を撫で、月が雲の端を照らしている。静かな夜だった。  こよいは水路の口に耳を近づけた。暗闇の奥で、水が石の内壁を伝う微かな音がする。一滴だけでは足りないのだ。けれど、その一滴が崩した堰(せき)の隙間から、次が引き寄せられるなら。こよいは呼吸を止めて、暗闇の中の水の気配を追った。

やがて、足裏に振動が伝わった。

低く、遠い音。地面の底を何かが走っている。

石の周囲の砂が震え、やがて水路の口から微かな湿気が吹き上がった。匂いが変わった。乾いた砂の匂いの中に、土と苔(こけ)と、古い石の匂いが混じる。水の匂い。

風の神が巾着(きんちゃく)の中で身を起こした。  外の風がそれに応えるように流れを変え、庭の四方から中央に向かって吹き始めた。砂の上に描かれた渦(うず)が大きくなり、新しい模様が次々と生まれていく。

水路の口から、水が溢(あふ)れた。  最初は指一本分の細い流れ。やがて拳(こぶし)ほどの幅になり、石の周囲を濡らしながら、砂地に筋を刻んでいく。

水は冷たかった。  こよいが指先を浸すと、骨まで沁(し)みるような冷たさの中に、微かな温もりが感じられた。生きている水の温もり。  流れの中に、微かな光の筋が見える。雨の神が水路に落ちた場所から、光が水脈(すいみゃく)に沿って広がっているのだ。

「……流れた」

こよいは呟(つぶや)いた。声が震えていた。

水は石の周囲を巡り、砂地の模様に沿って流れていく。風が水面を撫でるたびに小さな波紋が広がり、月の光を砕いて散らした。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。

「理(ことわり)の波動が安定し始めた。この水路は庭全体の循環を担っていたらしい。水が戻ったことで、風の流れも変わっている」

あさひが膝(ひざ)をつき、水に手を浸した。

「……冷てえけど、嫌な冷たさじゃねえな。井戸水みたいだ」

巾着(きんちゃく)の中で、雨の神の脈が穏やかになった。こよいが落としたのではない。雨の神が自分で選んだのだ。

こよいは水の流れを見つめた。  細い流れが砂地を這(は)い、風が描いた模様と交差している。風と水。二つの道が重なるとき、砂の上に今まで見えなかった紋様(もんよう)が浮かぶ。

それは文字のようにも見えた。  読めない文字。けれど、意味は伝わる。

ここにいた神の名前。この庭を守っていた、名も知らぬ風の神の痕跡(こんせき)。

『……しってる。……この、なまえ。……ずっと、まえに、きいた……』

風の神の声が、巾着(きんちゃく)の底からかすかに聞こえた。

こよいは石に手を当てたまま、目を閉じた。水が流れる音と、風が砂を撫でる音が重なっている。その重なりの中に、遠い昔の庭の記憶が微かに揺れていた。  巾着(きんちゃく)の中で、四柱(よはしら)の脈が揃った。水と風の交わる場所で、四つの脈が初めて一つに重なった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、立ち上がった。

「水路が動いている以上、観測者(かんそくしゃ)もこの場所に気づく。長居はできない」

「ああ。夜が明ける前に降りよう」

あさひが剣を肩に担ぎ、来た道を振り返った。  石段の向こうに、鈴灯(すずとも)の町の灯(ともしび)がぼんやりと霧(きり)の中に浮かんでいる。

こよいは最後にもう一度、水路を見た。  細い流れは途切れることなく続いている。一滴が開いた道を、水はもう忘れない。

三人は風庭(かぜにわ)を離れ、石段を降り始めた。  東の空が白み始めていた。

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