走った。 闇の中を、ひたすら走った。 後ろを振り返る余裕はない。光が追ってきている。
足元が見えない。 月明かりが木々の間を照らしているが、地面までは届かない。 根に躓く。石を踏み外す。枝が顔を打つ。 それでも、止まれない。
「……はしれ」
巾着が震えている。
「……とまったら……」
神々の声が途切れる。
急斜面に差し掛かった。 足が滑った。 体が前に投げ出される。 受け身を取る暇もなかった。
転がった。 落ち葉と土が視界を埋める。腕をぶつける。膝を打つ。 五メートルほど転げ落ちて、ようやく止まった。
「っ……」
痛い。 左腕が熱い。擦りむいたのだ。血が滲んでいる。 左膝も痛む。服が破れている。 右手のひらが切れている。石で切ったらしい。
振り返った。 斜面の上、木々の間に、光が見えた。 点滅している。規則正しく。 近い。さっきよりずっと近い。
立ち上がった。 足が震えている。膝が笑っている。 それでも、走り出した。
杉林に入った。 木々が等間隔で並んでいる。人工林だ。 走りやすい。下草が少ない。でも、隠れる場所もない。
木の幹の間を縫うように走る。 枝をかわす。根を跳び越える。 息が上がる。肺が焼けるようだ。
振り返る。 光が、まだ見える。 点滅しながら、追ってくる。 七つ。いや、八つ。 増えている。
「……はやく」
巾着の中から、悲鳴のような声。
「……おいつかれる」
走り続けた。 どれくらい走ったのか、分からない。 時間の感覚がない。 ただ、前へ。前へ。
杉林が終わった。 崩れた石垣があった。 古い。苔むしている。段々畑の跡だろうか。
石垣の隙間に、空間があった。 こよいは、滑り込んだ。 体を丸める。息を殺す。
心臓が、壊れそうなほど打っている。 息を整えようとしても、喉が詰まる。 右手から、血が滴っている。
巾着を握りしめた。 氷のように冷たい。 神々が震えている。言葉にならない。
じっと、待った。 石の冷たさが背中に染みる。 傷が痛む。体中が痛い。
光が、近づいてくる。 点滅が、明るくなっていく。 木々の影が、揺れている。
息を止めた。 口を手で押さえた。 自分の息が、聞こえてしまう気がした。
光が、石垣のすぐ向こうを通過した。 点滅が、目の裏に焼き付く。 白い光。規則正しい。機械的な。
通り過ぎた。でも、止まらない。また戻ってくるかもしれない。
石垣から這い出た。 走り出した。 まだ終わっていない。
坂を下る。 足がもつれる。何度も転びそうになる。 傷口から血が流れている。服に染みていく。
谷が、見えた。 暗い。深い。底が見えない。 渡れない。飛び越えられない。
行き止まりだ。
振り返った。 光が、見えた。 七つ。列を成して、近づいてくる。 距離は、二百メートルもないかもしれない。
左右を見回す。 急斜面。岩場。どちらも登れない。 逃げ場がない。
「……どうしよう」
声が震えていた。
「……にげて」
「……どこへ」
神々の声も、震えている。
谷に沿って走った。 縁が崩れやすい。足を滑らせたら、落ちる。 それでも、走るしかない。
倒木が、見えた。 大きな杉が、斜面に沿って倒れている。 その下に、空間がある。 小さい。でも、入れる。
這いつくばった。 腹這いで、倒木の下に滑り込んだ。 狭い。高さは四十センチもない。 体を捻って、奥に潜り込む。
巾着を、胸の下に押し込んだ。 目を閉じる。 息を殺す。
腐葉土の匂いがする。 湿った木の匂い。冷たい土の匂い。 虫が、腕の上を這っていく。 動けない。動いてはいけない。
待った。 どれくらい経ったのか、分からない。 十分。二十分。もっとかもしれない。
光が、近づいてきた。 点滅が、倒木の上を照らしている。 影が、揺れている。
息を止めた。 体中が強張る。 心臓の音が、地面を伝わって聞こえる気がした。
光が、真上を通過した。
点滅が、目の前を横切る。 白い光。青みがかった白。 機械の光。測る者の光。
止まった。 光が、止まった。 真上で。
こよいは、目を閉じた。 祈るように。いや、祈っていた。 見つかりませんように。捕まりませんように。
巾着が、凍りついたように冷たい。 神々が、動かない。息を殺している。 こよいと一緒に。
永遠のような時間が過ぎた。 実際には、数秒だったのかもしれない。
光が、動いた。 通り過ぎていく。 点滅が、遠ざかっていく。
まだ、息を止めていた。 まだ、動けなかった。
光が、戻ってきた。もう一度、真上を通過する。 今度は、止まらなかった。
また、遠ざかった。 点滅が、小さくなっていく。 木々の向こうに、消えていく。
こよいは、まだ動かなかった。 また戻ってくるかもしれない。 また、真上に来るかもしれない。
待った。 一時間。二時間。 体が凍りつきそうだった。 傷が痛む。血が乾いていく。でも、動けなかった。
空が、白み始めた。 夜明けだ。 木々の間から、薄い光が差し込んでくる。
こよいは、ゆっくりと動いた。 腕を伸ばす。体を捻る。 倒木の下から、這い出た。
立ち上がろうとした。 足が、震えて立てなかった。 膝をついたまま、周囲を見回す。
光は、見えない。 観測者の光は、消えていた。
「……いった?」
巾着に問いかける。
「……うん」
「……いま、は」
神々の声が、小さく応える。
「……こっち」
「……みず、きこえる」
耳を澄ませた。 遠くで、水の音がする。 渓流だ。
立ち上がった。 足が震える。体が重い。 一歩ずつ、音の方へ歩いた。
木々の間を抜けると、渓流があった。 小さな川。三メートルほどの幅。 水が、サラサラと流れている。
川岸に座り込んだ。 いや、崩れ落ちた。もう、体が言うことを聞かない。
傷を見た。 左腕の擦り傷は、乾いて黒くなっている。 左膝も同じ。服がこびりついている。 右手のひらの切り傷からは、まだ血が滲んでいる。
水で、傷を洗った。 冷たい。痛い。でも、少しだけ、気持ちが落ち着いた。
空気が、少し違う。 軽い。澄んでいる。 さっきまでの、重く冷たい空気とは違う。
巾着の温度が、戻り始めていた。 冷たいけれど、氷のようではない。
「……ここ」
祠の神の声。
「……すこし、さかい、ちかい」
「……こえた、わけじゃない」
空き地の神の声が続く。
「……でも、すこし、あんしん」
こよいは、渓流を見つめた。 水が、流れている。 生きている。自分は、まだ生きている。
逃げ切った。 夜を越えた。でも、体は限界だった。 傷から、まだ血が滲んでいる。 服は泥だらけで、破れている。 体中が痛い。
立ち上がろうとした。 足が震えて、また崩れた。
「……やすまないと」
巾着の声。
「……でも、ながくは」
「……すぐ、うごかないと」
分かっている。 観測者たちは、まだいる。 また追ってくるかもしれない。でも、今は動けない。 少しだけ。少しだけ休んだら、また歩き出す。 境界を目指す。第一境界を越えれば、少しは安全だと、しおりが言っていた。
こよいは、渓流の音を聞きながら、体を横たえた。 空が、明るくなっていく。 夜が終わる。新しい一日が始まる。
右手から、血が滴っていた。 赤い雫が、川岸の石を染めている。
