第096話 見送る背中
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第096話 見送る背中

第4章 境の継ぎ目

丘の上に出ると、風の質が変わった。  森の中では肌にまとわりついていた湿り気が、ここでは一息ごとに剥がれていく。  代わりに入ってくるのは乾いた土の匂いと、遠い煙の気配だった。

街道は丘陵の背を緩やかになぞり、両側には刈り取られた畑の残り株が低く並んでいる。  麦の若い穂が風にあおられて銀色の波を作り、その波の果てに、黄土色の地面がどこまでも続いていた。  足元の土は乾いて硬く、草鞋わらじの底が踏むたびに、さくり、さくり、と小気味よい音を返した。

巾着きんちゃくの中で、雨の神が静かに脈打っている。  森にいた時よりも弱く、けれど確かに。  月の神は朝の光に身を潜め、硝子びいどろの神は畑の上を走る光を映すように微かに揺れていた。風の神だけが丘の風に反応し、巾着きんちゃくの布が内側から小さく膨らむ。  四柱よはしらの温もりが、乾いた空気の中でこよいの腰骨のあたりに残っていた。

「人の匂いがする」

あさひが鼻を鳴らした。  煙と、家畜のふんと、干した穀物の匂い。  森では嗅いだことのない、生活の匂いだった。

畑の端に井戸があり、その傍らに老人が立っていた。  みのを肩にかけ、くわを杖のように突いている。  蓑には昨夜の雨粒がまだ残っていて、朝の光を受けて銀色に光っていた。

「おや。こんな朝早くに、旅の者かね」

老人は目を細めて言った。  声は穏やかだが、こよいたちの足元や腰のものを素早く見る目には、この土地で長く生きてきた者の勘が宿っていた。

こよいは頭を下げ、北の町へ向かう道を尋ねた。

「峠を越えるのかい。ならば、このあぜを真っ直ぐ行きな。突き当たりの橋を渡って、峠を越えれば北の町に出る」

老人はくわの先で畦道あぜみちを指した。

「ただ、霧が出る朝は気をつけな。川と道の見分けがつかなくなる。ともしびが浮いて見えたら、それは向こう岸の宿の灯じゃない。川面かわもに映った光だ。追いかけると足を濡らすよ」

老人は笑った。  目尻に深く刻まれたしわが、笑うと扇のように広がる。  こよいはその笑顔の奥に、霧の中で何人もの旅人を見送ってきた人の落ち着きを感じた。  老人の指は節が太く、爪の間に黒い土が詰まっていた。何十年も同じ畑を耕してきた手だ。

久遠くおんは短く礼を言い、地図の巻物を懐から出して何かを確かめている。  あさひはもう歩き出していた。

老人は滑車のついたおけから水を汲み、ひさごに移してこよいに差し出した。

「乾くだろう。飲みな」

こよいは一口含んだ。  冷たい水が喉を通り、胸の奥で神々の温もりとぶつかる。  不思議な感触だった。  残りをあさひと久遠くおんに回し、空になったひさごを返す。

「ありがとうございます」

「気をつけて行きな。峠の風は、下から吹くから」

老人はそう言って、もう畑に向き直っていた。  くわが土を返す音が、遠ざかる三人の背中に届いた。

畦道あぜみちは狭く、荷車のわだちが深く刻まれている。  轍の中に溜まった昨夜の雨水が、歩くたびに草鞋わらじの裏を濡らした。  遠くで牛の鈴が鳴り、その音は森で聞いた鈴の音とはまるで違う。  重く、丸く、人の手の中で鳴らされてきた音だった。

道の分かれ目に、道祖神どうそじんの石が立っていた。  小さな石に、丸い顔が二つ彫られている。  首には色のせた布が結ばれ、雨に濡れて重そうに垂れていた。

こよいは立ち止まり、布を手で整えた。  結び目がほどけかけていたので、きつく結び直す。  あさひは無言で頭を下げ、久遠くおんは石の周りの地面に目を落として、何かを読み取ろうとしていた。

観測者かんそくしゃの痕跡は?」

「ない。……だが、この先の川を越えれば、さかいの密度が変わる。用心しろ」

久遠くおんは低い声で言い、歩き出した。  こよいは道祖神どうそじんの石にもう一度だけ目をやり、それから前を向いた。  石の顔は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。  結び直した布が風に揺れ、石の二つの顔に影が落ちた。  こよいはその影を見送らず、久遠くおんの背中を追った。

道が下りに入ると、空気が湿り始めた。  川が近い。  水の冷たさが風に混じり、鼻の奥がつんとした。

巾着きんちゃくの中で、神々の脈が少しだけ速くなった。  水が水を感じている。  こよいはその微かな変化に手を当てたまま、歩き続けた。

「なあ、こよい」

あさひが振り向かずに言った。

「町の空って、高いな」

こよいは顔を上げた。  丘の上から見える空は確かに広く、森の中で枝に切り取られていた空とは、奥行きが違った。  雲がゆっくりと東へ流れ、その影が畑の上を横切っていく。

「……うん。高い」

久遠くおんは何も言わなかったが、巻き直した地図を革袋にしまう手つきが、少しだけ丁寧だった。

下り坂の先に、木の橋が見えた。  橋の向こうは薄い川霧に覆われていて、家並みの輪郭がぼやけている。  老人の言った通りだった。  ともしびは見えない。まだ朝だから。

けれど、霧の奥から人の声が微かに聞こえた。  荷を運ぶ声。水を汲む声。朝の支度の音。  それは森では決して聞こえなかった音だった。  生活の営みが立てる音は、どれもささやかなのに、こよいの胸のともしびを小さく揺らした。自分が今、人の世のふちに立っていることを、耳が先に知った。

橋の手前で、こよいは足を止めた。  神々が一度だけ強く脈打った。  温かく、短く。  まるで、ここから先は気をつけろ、と言うように。

こよいは巾着きんちゃくを握り、橋を渡った。  板がきしみ、下を流れる水の音が足の裏に響いた。  霧が頬に触れ、そのまま髪に残った。

橋を渡り終えると、道は急な登りに変わった。  橋の向こう側の地面は畑よりも硬く、石が点々と混じっていた。  こよいは足裏でその硬さを確かめ、川を隔てて土の質が変わることを肌で受け取った。  峠道の入口に、朽ちかけた木のしるべが立っている。  文字は半分消えていたが、矢印だけは読めた。

あさひが先に登り始め、久遠くおんが続いた。  あさひの背中は小さく、けれど剣のつかを握った手だけが確かな輪郭を持っていた。  こよいは一度だけ振り返り、霧の中に沈んでいく橋と、その向こうの畑を見た。

老人の姿はもう見えない。  くわの音だけが、風に乗って微かに届いた。  こよいはその音に小さく頭を下げ、峠道へと足を踏み出した。

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