第091話 黒い水の腕
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第091話 黒い水の腕

第3章 印の輪郭

腕の先がこよいの視界を塞ぐ直前に、あさひが縄を引いた。  半歩。たったそれだけで避けた。  腕は水面の上に残り、残ったまま、広がり始めた。  広がり方に音がない。  腕の根元が膨らみ、膨らんだ幹に肩の形が生まれる。肩から首が伸び、首の先に頭が乗った。波紋はもんも立てず、水が水のまま人の形を取っていく。  こよいの身体はあさひの引きで半歩後ろへ戻され、腰骨に結び目が食い込み、痛みが背骨を駆け上がる。

大きい。  大きいのに、音がない。  雨は確かに降っている。でも、水面は鏡みたいに静止したまま。水の巨人だけがゆっくりと立ち上がり、立ち上がるほどに周囲の空気が重くなった。  圧が来る。  巨人が立つだけで、耳の奥が詰まり、呼吸が浅くなった。吐いた息が戻ってこない。戻ってこない分だけ、胸が詰まる。

代わりに、水そのものが垂直に立ち上がってくる。  巨人の表面を雨が伝い落ちるはずなのに、伝い落ちない。雨粒は巨人の身体に触れた瞬間に吸い込まれ、吸い込まれた分だけ巨人が膨らんだ。

久遠くおんが短く息をんだ。

「決して剣を抜くな」

あさひの声は荒い。

「斬っても、怒りを立てるだけだ」

こよいは頷いた。  腰の結び目が痛い。  痛みだけが、自分の輪郭りんかくを守っている。

巨人の内側が見えた。黒い水のまくの奥に、もう一つの流れがある。怒りの形をした水の中を、もっと細い水が走っている。助けを求めるように。

久遠くおん義眼ぎがんふちを押さえ、巨人の中心を見た。

怒りのまくの奥。

「……中心だ。刺さってる」

黒い一点。  釘みたいに真っ直ぐで、そこだけ雨粒の沈む音が硬い。  巾着きんちゃくの奥で、月の神が淡く光った。  硝子びいどろの神の欠片かけらが、視界の端を一瞬だけ白くする。

『……怒ってる。けど、怒りだけじゃない』

硝子びいどろの神の声。  こよいは胸のともしびを小さくし、息を数えた。  怖さを先に出せば、巨人が寄ってくる。怖さを殺すのではなく、怖さの後ろに回る。怖さが前にいるうちは動けない。後ろに回れば、向こう側が見える。

巨人の腕が振り下ろされた。

落ちる前に、圧が降りる。  圧が降りた場所から、きりが薄いまくみたいに裂けた。裂けた隙間から冷たい風が吹き込み、こよいの頬が一瞬でしびれた。  あさひがさやのまま剣を盾にし、身体を斜めに入れて受け流した。  水が音もなく弾け、飛沫しぶきの一部が針みたいに散る。散った水粒が石の上で止まり、弾けたはずの水が動かない。止まった水の上に次の雨粒が落ち、沈んで、また止まる。

こよいの頬を冷たいものがかすめ、熱が奪われた。  掠めた場所が白くしびれ、しびれが消えるまでの間、皮膚の感覚がなくなった。感覚が戻ったとき、そこだけが冷たい。止まった冷たさだ。  怖さが身体の内側から立ち上がる。

「……こよい。見るな」

久遠くおんが短く言った。

「見たら、固定こていされる」

固定。あの言葉だ。町を固定した観測者かんそくしゃと同じ。  あさひは剣を引かず、さやの表面を巨人の方へ向けたまま、足の位置を一つずらした。ずれた分だけ、止まる場所を避けている。  こよいは唇の内側を噛み、血の味で意識を戻した。血は温かい。温かいものがまだ身体の中にある。

「雨の神さま……聞こえる?」

声は雨に吸われる。でも、言わないと自分が壊れる気がした。

巨人の胸の内側で、細い流れが一瞬だけ速くなった。  すぐに止まり、また静けさが厚くなる。

「反応した」

こよいが言うと、久遠くおんが頷いた。

「いる。……奥に押し込められてる」

押し込められている。怒りのまくの内側で、本当の雨の神が動けずにいる。怒りは神のものではなく、縛りが生んだものだ。縛りの怒りが巨人の形を取り、本当の神をおおい隠している。こよいはその仕組みを思いつめ、胸のともしびの下で、くさびと縛りの線を結ぼうとした。結ばないうちに、次の震えが来た。

巨人の腕が、もう一度上がる。  そのとき、黒い粒がぱらぱらと降った。  水じゃない。  粒が落ちた場所から、音が遅れる。落ちた石の表面が白く変わった。凍ったのではない。止まったのだ。石の上の水膜すいまくが動かなくなり、雨粒がその上で弾けずに沈む。

久遠くおんが歯を食いしばった。

「停止の種だ。……落ちた順に、ことわりが凍る」

止まった場所が増えるほど、逃げ場が狭くなる。こよいの足元に一つ落ちかけた黒い粒を、あさひが縄を引いて避けさせた。縄が腰に食い込み、痛みで足が動く。痛みがなければ、避けられなかった。  狭くなった隙間の中で、三人は背中を合わせた。

あさひが縄を張り直し、こよいの腰を支える。

「中心へ行けるのは、おまえだけだ」

こよいは息を吸った。  雨とこけの匂いが肺に入って、すぐ冷える。  中心。あの黒い一点。くさびが刺さっている場所。そこまで行って、くさびを抜く。風のくさびを抜いたときと同じだ。でも、今度は水の巨人がいる。巨人の腕が振り下ろされるたびに、止まる場所が増える。

「……行く」

言い切ると、怖さが形になりそうで、こよいは続けて息を吐いた。  吐いた分だけ、胸のともしびが整う。  怖い。でも、怖いまま行く。怖さがなくなるのを待っていたら、足元が全部止まる。

久遠くおん義眼ぎがんを押さえ、わずかに首を振って合図した。

「次の振り下ろし。その一瞬だけ、道ができる」

振り下ろしの直後、巨人の腕は戻る。戻る間に中心が開く。開いた道は一瞬で、次の振り下ろしが来る前に辿り着かなければ、止まる。

あさひが背を低くし、こよいを影に入れる。

「縄は離すな。引いたら戻れ」

こよいは頷き、縄を握り直した。麻のざらつきがてのひらに刺さる。ざらつきが手の震えを止めてくれる。  久遠くおんが巨人の腕の軌道と、停止の種の落ちる間隔を同時に数えている。数える目が義眼ぎがんふちを押さえ、声にならない計算を続けている。  巾着きんちゃくの中で、三柱みはしらが同時に脈を打った。月が冷え、風が息を吸い、硝子びいどろが光を集めた。

巨人の腕が高く上がった。  雨音が遠のく。  硝子びいどろの神が、薄い光の欠片かけらを一つだけ前へ投げた。  風の神が息を吐き、きりを薄く裂く。

久遠くおんが短く言う。

「次だ」

こよいは頷き、息の数をそろえた。  足の裏の硬さだけを確かめる。  次の一瞬に、全部を乗せる。

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