第489話 名前のない場所
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第489話 名前のない場所

第16章 余白の終点

歌が遠くなった。

写本(しゃほん)の唸(うな)りが、いつの間にか聞こえなくなっている。さっきまで紙の繊維(せんい)を震わせていた三十七の声が、一つずつ静まり、最後の一音(いちおん)が空気に溶けて消えた。

こよいは写本(しゃほん)を見た。名前たちはまだ光っている。だが光の質が変わった。歌っていたときの明滅ではなく、寝息のような穏やかな律動(りつどう)に変わっている。

「止まったな。急に」

あさひが足を止めた。壁に手を当て、耳を寄せる。

「振動(しんどう)も弱くなってる。さっきまで壁が唸(うな)ってたのに」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を通路の先に向けた。蒼光(そうこう)が壁を舐(な)めていく。

「根が減っている。明らかに」

こよいは壁を見た。確かに、ここまで通路の壁面を走っていた金色の蔓(つる)が、まばらになっていた。太い根が細い根に変わり、細い根が産毛(うぶげ)のような繊維(せんい)に変わり、やがてそれすら見えなくなる。

壁が裸(はだか)だった。何も覆(おお)っていない、素(す)の鋼(はがね)が露出している。

「ここから先は、根の届かない場所だ」

久遠(くおん)が声を落とした。

「根脈(こんみゃく)は広大だが、無限ではない。名前を運ぶ力にも果てがある。ここがその果てだ」

こよいは足元を見た。床の継ぎ目に挟まっていた細い蔓(つる)の先端が、行き場を失ったように丸まっている。もう少し先へ伸びようとして、届かなかったのだ。

巾着(きんちゃく)を胸に当てた。神々の脈はまだ感じる。だが弱い。旅の間ずっと身体に寄り添っていた温もりが、布一枚ぶん遠くなったような感覚だった。こよいは巾着(きんちゃく)を強く抱き寄せた。離さない、とその力に込めた。

「名前たちが、不安がってる」

「不安じゃない」

久遠(くおん)が首を振った。

「集中している。根のない場所では、名前は自分自身の力だけで存在を保たなければならない。根脈(こんみゃく)の支えがなくなる。それに備えている」

あさひが大剣の布包みを確かめた。

「つまり、ここから先は一人ひとりの実力ってことだ。名前も、俺たちも」

通路が緩やかに曲がった。壁の鋼(はがね)は徐々に色を変えていく。白銀だったものが、灰色に。灰色が、さらに淡い色に。色そのものが薄くなっていくような変化だった。

足音(あしおと)の響き方も変わった。反響(はんきょう)が減っている。壁に当たった音(おと)が返ってこない。吸い込まれるのではなく、壁の向こう側に抜けていくような、薄い反射。

「壁が薄くなってる」

あさひが壁を指で弾いた。鋼(はがね)のはずなのに、音(おと)が高い。指の振動(しんどう)が壁を突き抜けて、向こう側に漏れている。

「壁の密度(みつど)が下がっている。この先の構造(こうぞう)は、世界の最外殻(さいがいかく)に近い。堅牢(けんろう)さよりも、薄さが優先されている」

こよいは歩きながら壁に手を添えた。指先に伝わる鋼(はがね)の感触(かんしょく)が、一歩ごとに軽くなっていく。金属の冷たさが消え、代わりに不思議な弾力が残った。紙に近い。壁が紙のように薄くなっている。向こう側に何があるのか、壁を透(す)かせば見えそうなほどだった。

通路の幅が広がった。天井が高くなる。空間が開けていくのに、解放感がない。むしろ広さのぶんだけ、三人の存在が薄まっていくような心細さがあった。こよいはあさひの背中に視線を固定した。あの背中が見える限り、迷わない。

こよいは振り返った。来た道の壁には、まだ金色の蔓(つる)の痕跡(こんせき)が薄く残っている。根の最後の一本が残した筋。それが見える距離にいるうちは、まだ戻れる。

「戻るか?」

久遠(くおん)が訊いた。試すような声ではなかった。純粋な確認だった。

こよいは首を振った。

「戻らない。名前たちが前を向いてるから」

写本と巾着の間で、三十七の脈が微かに重なった。弱いが、揃っている。一つの名前も後ろを向いていなかった。

通路の先に、空気の色が変わる場所があった。見える色が変わるのではない。空気そのものが帯びている質感が、あるところを境に切り替わっている。乾いた紙の匂いが薄くなり、代わりにまだ名前のない何かが、鼻の奥をかすめた。

あさひが鼻を動かした。

「……何かある。この先」

「ああ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を消した。蒼光(そうこう)が消えると、通路は自然光だけになる。どこから差し込んでいるのかわからない、柔らかい灰色の光。

「ここから先は、義眼(ぎがん)では見えないものがある。観測の外だ。自分の目と鼻と肌で行く」

三人は無言で歩き続けた。根のない通路を、名前だけを抱えて。足音が三つ重なり、薄い壁に吸い込まれていく。歩いた証拠が音からも消えていく。それでも、隣に二つの気配がある。それだけが確かだった。

壁が途切れた。指先に触れていた薄い鋼(はがね)の感触(かんしょく)が、ふっと消えた。最後に触れた壁の温度が、指の腹(はら)にしばらく残っていた。

天井が消えた。

目の前に、広い空間が開けていた。冷たくもなく温かくもない空気が、三人の肌を包んだ。名前のない空気だった。音も匂いもない場所で、こよいは自分の呼吸(こきゅう)だけが確かな輪郭(りんかく)を持っていることに気づいた。吸い込んだ空気は乾いていないのに、肺の奥がひやりとした。根脈(こんみゃく)の気配を失った空間では、自分の体温だけが世界の境界になる。皮膚に触れるものが何もないことが、不思議なほど生々しかった。

おたまは呼び声への応答が示した細い通路を先に進み、根の最後の一本が途切れる場所で待っていた。小鈴は鳴らない。それでも猫の三毛と四本の足は薄れず、名前のない場所にも存在できる。三人は紙の縁からここまで歩いた道を、互いの歩数で確かめた。

通路の壁が途切れる直前、根の先端はおたまの足元で小さな輪を作った。戻るための縄ではなく、ここから先へ進んだ者を忘れない印だった。こよいは輪を跨ぎ、根の届かない空間へ足を踏み出した。

この旅で拾ってきた温もりが背中を押していた。独りではない。名前たちと、仲間と、猫と。こよいは写本(しゃほん)の余白に指を走らせた。根のない場所でも名前を記録できるか――確かめるには、もう一歩踏み出すほかなかった。

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