波が止まった。
最初に気づいたのはあさひだった。大剣の柄から手を離し、耳を傾けた。
「聞こえねえ」
こよいも立ち止まった。 足元の岩に当たっていた波の音が、消えている。潮騒も、遠い海鳴りも、一切。
海が黙った。
久遠は義眼を海面に向けた。蒼光が水面を舐めるように走る。
「波がない。水面が完全に静止してる。風はあるのに、海だけが動かない」
水面は鏡のようだった。 空の灰色がそのまま映り込み、海と空の境界が消えていた。水平線が見えない。上と下が同じ色をしている。
こよいは足元を見た。 岸の岩に波の跡が残っている。さっきまで水が打ち寄せていた証拠だ。湿った岩肌。海藻の切れ端。小さな泡の痕。
だが今、海は息を止めたように静まっている。
「名前を呼ぶ声も止まった」
久遠が低く言った。
こよいは耳を澄ませた。 ここ数日、海の底から微かに聞こえていた声があった。名前を呼ぶ声。根脈を通じて、海底から漏れ出てくる名前たちの囁き。それが、今は聞こえない。
「消されたの?」
「分からない。黙っただけかもしれない。だが——」
久遠は目録を開いた。頁が揺れない。いつもなら海風で頁がめくれるのに、空気そのものが動いていない。
「沈黙が深すぎる。普通の凪じゃない。音という概念ごと、この海域から抜き取られてる」
あさひが試しに、岩を蹴った。 硬い革底が岩を叩く感触はある。だが音がない。衝撃が足に伝わるのに、耳には何も届かない。
「こいつは——」
あさひの口が動いた。声は出ている。喉が振動している。だが声は数歩先にしか届かず、口元のそばで消えた。
こよいは自分の手を叩いた。 掌がぶつかる感触。だが無音。音が生まれた瞬間に、何かに吸い取られている。
久遠が義眼の焦点を海底に合わせた。蒼光が水面を貫通し、深い場所を探る。
「海底に、漂白の層がある。海底一面に白い膜が広がってる。あれが音を吸っている。名前の声も、波の音も、全部あの膜が飲み込んでいる」
白い膜。漂白の産物だった。 観測者が海底に張った漂白の膜が、音を——名前を呼ぶ声を含むすべての音を、吸収している。
「壊せるか」
あさひが久遠を見た。声は届かないが、口の動きを読んだ。
久遠は首を横に振った。 口を大きく開け、はっきりと唇を動かした。
「海底まで届かない」
三人は沈黙の中に立っていた。 互いの息遣いすら聞こえない。こよいは巾着を胸に押し当てた。神々の脈動は感じる。振動はある。だが音がない。
名前たちが鳴いているはずなのに、聞こえない。
こよいの目に涙が滲んだ。声を奪われることの恐怖。名前を呼んでも届かない世界。これが漂白の本質なのかもしれない。消すのではなく、届かなくする。
久遠が目録に鉛筆を走らせた。 音のない世界で、鉛筆が紙を擦る振動だけが指先に伝わる。
「手がかりがある」
久遠は書いた文字をこよいに見せた。
『沈黙の中に、一箇所だけ膜の薄い場所がある。蒼光がそこだけ深く届いた』
こよいは頷いた。声の代わりに。
久遠が指で方角を示した。 東。岬の先端。岩が海に突き出している場所。
三人は音のない海岸を歩いた。 足が岩を踏む振動だけが身体に響く。波のない海。声のない空気。影だけが動いている。
岬の先端に着いた。
久遠が義眼を真下に向けた。蒼光が水面を突き抜け、海底に到達する。
白い膜に、確かに裂け目があった。 細い亀裂。そこから、金色の光が漏れている。
根だった。
海底の膜の下から、根が一本、膜を突き破ろうとしていた。根の先端が膜の裂け目に食い込み、少しずつ穴を広げている。
そして——その裂け目から、音が漏れていた。
微かに。ほんの僅かに。
名前を呼ぶ声。
こよいは岬の岩に腹這いになり、耳を海面に近づけた。水面は静かだが、裂け目の真上だけ、空気が僅かに震えている。
聞こえる。
遠い。小さい。だが確かに、名前たちの声が、根を通じて海底の膜を越えようとしている。
こよいは巾着を海面に近づけた。 神々が一斉に脈打った。膜の向こうの名前たちに呼応するように。
「聞こえるよ」
こよいが口を動かした。声は届かない。だが巾着の振動は水面を伝い、裂け目を通じて海底に届いたかもしれない。
金色の光が、一瞬だけ強くなった。
久遠が鉛筆で目録に書いた。
『根が膜を破れば、音が戻る。名前の声が戻る。時間の問題だ』
あさひは岬の岩の上に立ち、沈黙の海を見渡した。 口元が動いた。読唇で久遠が拾う。
「待てるのか」
久遠は頷いた。
こよいは岬の岩に座り、海面を見つめ続けた。 音のない海。白い膜。金色の裂け目。
根は伸びている。膜は薄くなっていく。
沈黙は永遠ではない。海の底で名前たちが声を上げ続けている限り、この沈黙はいつか破れる。
おたまの髭が揺れた。空気は戻り始めているのに、小鈴も足音もまだ聞こえない。猫は裂け目へ耳を向け、海底から漏れる一筋の声だけを追っていた。
風が頬を撫でた。だが、その音さえ膜に吸われて聞こえなかった。 海の音は、まだ——戻らない。
