第464話 海の沈黙
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第464話 海の沈黙

第15章 潮の外縁

波が止まった。

最初に気づいたのはあさひだった。大剣の柄(つか)から手を離し、耳を傾けた。

「聞こえねえ」

こよいも立ち止まった。  足元の岩に当たっていた波の音(おと)が、消えている。潮騒(しおさい)も、遠い海鳴(うみな)りも、一切。

海(うみ)が黙った。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を海面(みなも)に向けた。蒼光(そうこう)が水面(みなも)を舐(な)めるように走る。

「波がない。水面(みなも)が完全に静止(せいし)してる。風はあるのに、海(うみ)だけが動かない」

水面(みなも)は鏡のようだった。  空の灰色がそのまま映り込み、海(うみ)と空の境界(きょうかい)が消えていた。水平線(すいへいせん)が見えない。上と下が同じ色をしている。

こよいは足元を見た。  岸の岩に波の跡が残っている。さっきまで水が打ち寄せていた証拠だ。湿った岩肌(いわはだ)。海藻(かいそう)の切れ端(はし)。小さな泡(あわ)の痕(あと)。

だが今、海(うみ)は息を止めたように静まっている。

「名前を呼ぶ声も止まった」

久遠(くおん)が低く言った。

こよいは耳を澄(す)ませた。  ここ数日、海の底から微かに聞こえていた声があった。名前を呼ぶ声。根脈(こんみゃく)を通じて、海底から漏れ出てくる名前たちの囁(ささや)き。それが、今は聞こえない。

「消されたの?」

「分からない。黙っただけかもしれない。だが——」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を開いた。頁(ページ)が揺れない。いつもなら海風で頁(ページ)がめくれるのに、空気そのものが動いていない。

「沈黙(ちんもく)が深すぎる。普通の凪(なぎ)じゃない。音(おと)という概念(がいねん)ごと、この海域(かいいき)から抜き取られてる」

あさひが試しに、岩を蹴(け)った。  硬い革底が岩を叩く感触(かんしょく)はある。だが音(おと)がない。衝撃が足に伝わるのに、耳には何も届かない。

「こいつは——」

あさひの口が動いた。声は出ている。喉(のど)が振動(しんどう)している。だが声は数歩先にしか届かず、口元のそばで消えた。

こよいは自分の手を叩(たた)いた。  掌(てのひら)がぶつかる感触(かんしょく)。だが無音。音(おと)が生まれた瞬間に、何かに吸い取られている。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の焦点を海底に合わせた。蒼光(そうこう)が水面(みなも)を貫通し、深い場所を探る。

「海底に、漂白(ひょうはく)の層がある。海底一面に白い膜(まく)が広がってる。あれが音(おと)を吸っている。名前の声も、波の音(おと)も、全部あの膜(まく)が飲み込んでいる」

白い膜(まく)。漂白(ひょうはく)の産物だった。  観測者(かんそくしゃ)が海底に張った漂白(ひょうはく)の膜(まく)が、音(おと)を——名前を呼ぶ声を含むすべての音(おと)を、吸収(きゅうしゅう)している。

「壊せるか」

あさひが久遠(くおん)を見た。声は届かないが、口の動きを読んだ。

久遠(くおん)は首を横に振った。  口を大きく開け、はっきりと唇(くちびる)を動かした。

「海底まで届かない」

三人は沈黙(ちんもく)の中に立っていた。  互いの息遣(いきづか)いすら聞こえない。こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。神々の脈動(みゃくどう)は感じる。振動(しんどう)はある。だが音(おと)がない。

名前たちが鳴いているはずなのに、聞こえない。

こよいの目に涙が滲(にじ)んだ。声を奪われることの恐怖。名前を呼んでも届かない世界。これが漂白(ひょうはく)の本質なのかもしれない。消すのではなく、届かなくする。

久遠(くおん)が目録(もくろく)に鉛筆(えんぴつ)を走らせた。  音のない世界で、鉛筆(えんぴつ)が紙を擦(こす)る振動(しんどう)だけが指先に伝わる。

「手がかりがある」

久遠(くおん)は書いた文字をこよいに見せた。

『沈黙(ちんもく)の中に、一箇所だけ膜(まく)の薄い場所がある。蒼光(そうこう)がそこだけ深く届いた』

こよいは頷(うなず)いた。声の代わりに。

久遠(くおん)が指で方角を示した。  東。岬(みさき)の先端。岩が海(うみ)に突き出している場所。

三人は音のない海岸を歩いた。  足が岩を踏む振動(しんどう)だけが身体に響く。波のない海(うみ)。声のない空気。影(かげ)だけが動いている。

岬(みさき)の先端に着いた。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を真下に向けた。蒼光(そうこう)が水面(みなも)を突き抜け、海底に到達する。

白い膜(まく)に、確かに裂け目があった。  細い亀裂(きれつ)。そこから、金色の光が漏れている。

根だった。

海底の膜(まく)の下から、根が一本、膜(まく)を突き破ろうとしていた。根の先端が膜(まく)の裂け目に食い込み、少しずつ穴を広げている。

そして——その裂け目から、音(おと)が漏れていた。

微かに。ほんの僅(わず)かに。

名前を呼ぶ声。

こよいは岬(みさき)の岩に腹這(はらば)いになり、耳を海面(みなも)に近づけた。水面(みなも)は静かだが、裂け目の真上だけ、空気が僅(わず)かに震えている。

聞こえる。

遠い。小さい。だが確かに、名前たちの声が、根を通じて海底の膜(まく)を越えようとしている。

こよいは巾着(きんちゃく)を海面(みなも)に近づけた。  神々が一斉に脈打った。膜(まく)の向こうの名前たちに呼応(こおう)するように。

「聞こえるよ」

こよいが口を動かした。声は届かない。だが巾着(きんちゃく)の振動(しんどう)は水面(みなも)を伝い、裂け目を通じて海底に届いたかもしれない。

金色の光が、一瞬だけ強くなった。

久遠(くおん)が鉛筆(えんぴつ)で目録(もくろく)に書いた。

『根が膜(まく)を破れば、音(おと)が戻る。名前の声が戻る。時間の問題だ』

あさひは岬(みさき)の岩の上に立ち、沈黙(ちんもく)の海(うみ)を見渡した。  口元が動いた。読唇(どくしん)で久遠(くおん)が拾う。

「待てるのか」

久遠(くおん)は頷(うなず)いた。

こよいは岬(みさき)の岩に座り、海面(みなも)を見つめ続けた。  音のない海(うみ)。白い膜(まく)。金色の裂け目。

根は伸びている。膜(まく)は薄くなっていく。

沈黙(ちんもく)は永遠ではない。海の底で名前たちが声を上げ続けている限り、この沈黙(ちんもく)はいつか破れる。

おたまの髭(ひげ)が揺れた。空気は戻り始めているのに、小鈴も足音もまだ聞こえない。猫は裂け目へ耳を向け、海底から漏れる一筋の声だけを追っていた。

風が頬(ほお)を撫(な)でた。だが、その音さえ膜に吸われて聞こえなかった。  海の音(おと)は、まだ——戻らない。

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