第431話 潮霧の車内
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第431話 潮霧の車内

第14章 風の残像

潮霧(しおぎり)が、車内に入ってきた。

窓は閉めていた。扉も閉まっている。それなのに、白い霧(きり)が座席の足元から湧(わ)き上がるように満ち始めていた。床板(ゆかいた)の隙間(すきま)から滲み出している。列車(れっしゃ)の外と中の境界(きょうかい)が、崩れかけていた。霧(きり)は水蒸気のように見えるが、水の匂いはしない。もっと乾いた、紙を焦(こ)がしたような匂いが混じっている。

こよいは足を座席の上に引き上げた。霧(きり)は冷たく、湿っていて、潮(しお)の匂いがする。だが、それだけではない。霧(きり)の底に、もっと重い気配が混じっていた。声にならない声。形を失った名前の残響(ざんきょう)が、白い霧(きり)の中で微かに震えている。

列車(れっしゃ)が停車場(ていしゃじょう)の脇(わき)を通過している。窓の外に見える停車場(ていしゃじょう)は、灯籠(とうろう)がすべて消え、石畳(いしだたみ)は白く、柱には旅人たちの足跡が化石のように焼きついていた。通過するだけのはずなのに、停車場(ていしゃじょう)の空気が車内に漏(も)れ込んでいる。

間引き場(まびきば)の空気だった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を膝(ひざ)に置いたまま、霧(きり)の密度を義眼(ぎがん)で測(はか)った。蒼光(そうこう)が霧(きり)の中で散乱し、光の筋が無数に枝分かれして消えた。

「外の停車場(ていしゃじょう)から情報が漏(も)れてる。墓所化(ぼしょか)が進んで、停車場(ていしゃじょう)に溜(た)まった記録(きろく)の圧力が列車(れっしゃ)の壁を越えてきた」

「壁を越える?」

「間引かれた記録(きろく)が多すぎるんだ。停車場(ていしゃじょう)一つに収まりきらない量が押し込まれて、圧が外へ漏れている。列車(れっしゃ)の中も、もう安全圏じゃない」

霧(きり)が膝(ひざ)のあたりまで満ちた。白い層の中に、足首を沈めているような感覚がある。冷たさが靴を通じて骨に届いた。足首から先の感覚が徐々に鈍くなっていく。冷えているのではなく、存在の密度(みつど)が薄まっているような感覚だった。

こよいは巾着(きんちゃく)を抱え込んだ。神々が小さく脈打っている。布越しの光が、霧(きり)の中で淡い輪を作った。巾着(きんちゃく)の周りだけ、霧(きり)が薄い。名前たちの脈動(みゃくどう)が、わずかに霧(きり)を押し返している。

小さな防波堤(ぼうはてい)だった。

だが押し返せる範囲は狭い。こよいの膝(ひざ)の上だけ。久遠(くおん)の足元にも、あさひの座席にも、霧(きり)は容赦(ようしゃ)なく満ちている。あさひの靴底が霧(きり)に沈み、久遠(くおん)の目録(もくろく)の角が白い層に触れそうになっていた。

窓の外で、低い鐘(かね)が鳴った。停車場(ていしゃじょう)の鐘(かね)だ。鳴るたびに霧(きり)が濃くなる。一打ごとに、車内の空気が重くなっていく。鐘(かね)の振動(しんどう)が窓硝子(まどがらす)を震わせ、霧(きり)がその振動(しんどう)に引き寄せられるように車内に流れ込んだ。

こよいは声を出しかけた。霧(きり)の底に沈んでいる名前の気配を感じている。呼んであげたい。ここにいると伝えたい。

あさひが遮(さえぎ)った。

「呼ぶな」

短く、硬い声だった。座席に座ったまま、剣の柄(つか)を握り、前を向いている。霧(きり)が腰のあたりまで来ているのに、あさひは微動だにしなかった。

「名前を呼んだ瞬間、お前の中の本当の名前も一緒に滑り落ちる。この霧(きり)はそういう仕組みだ。声を出せば、声に乗せた名前ごと持っていかれる」

こよいは唇(くちびる)を閉じた。

沈黙(ちんもく)が重かった。霧(きり)の中に名前たちの気配があるのに、何も言えない。巾着(きんちゃく)の光だけが、こよいに許された唯一の応答だった。光が霧(きり)の中で滲(にじ)み、淡い金色の輪が呼吸(こきゅう)するように広がっては縮む。

久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を一枚めくった。霧(きり)で文字が見えにくくなっている。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を上げ、頁(ページ)に顔を近づけて読み取った。

「通過まであと少しだ。停車場(ていしゃじょう)の座標(ざひょう)圏を抜ければ、霧(きり)は引く」

鐘(かね)がまた鳴った。その振動(しんどう)が座席を伝い、こよいの背骨を這(は)い上がった。霧(きり)が胸のあたりまで満ちた。巾着(きんちゃく)の光が、白い層の中で懸命に灯(とも)っている。名前たちの脈動(みゃくどう)が速まり、光が明滅(めいめつ)した。

列車(れっしゃ)が加速した。車輪の音(おと)が高くなり、振動(しんどう)が変わった。窓の外を、停車場(ていしゃじょう)の柱が一本、二本と後ろへ流れていく。

霧(きり)が薄れ始めた。

膝(ひざ)のあたりから引いていく。足元が見え、床板(ゆかいた)の木目が戻ってきた。鐘(かね)の音(おと)が遠くなり、残響(ざんきょう)だけが車内の壁で弱く震えた。

三人は声を出さなかった。霧(きり)が完全に引くまで、黙ったまま座席に身体を預けていた。

やがて潮(しお)の匂いだけが残った。停車場(ていしゃじょう)の冷気は去り、車輪の音(おと)が元のリズムに戻った。

こよいは巾着(きんちゃく)を見下ろした。光は消えていたが、名前たちの脈動(みゃくどう)は続いている。守り切った。けれど霧(きり)の底に残してきた気配が、まだ胸の奥に沈んでいる。

鐘(かね)の最後の余韻(よいん)が、車内から消えた。

おたまは霧の間、座席ではなく床板の隙間を歩いた。小鈴の波で圧力の薄い場所を探し、三人はその後ろへ巾着の光を移す。声を殺して耐えるだけでなく、小さな防波堤を車内で動かし続けたから、霧に囲まれずに済んだ。

引いた霧の跡には、焦げた紙の匂いと一筋の濡れた道が残った。久遠(くおん)はそれを、墓所の圧力が抜けた方向として記録した。次に同じ霧へ入るなら、通過するだけでなく流出元へ辿れる。  小さな防波堤を車内で動かし続けたから、霧に呑まれずに済んだ。生き延びるとは、耐えることだけではない。動き続けることでもあるのだと、こよいは学んだ。

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