第418話 乾いた沈黙
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第418話 乾いた沈黙

第14章 風の残像

返らぬ道の先で、冷たい灯は霧列車(きりれっしゃ)の前照灯へ変わった。階段下で待っていた同じ列車が、みずから線路を敷き直しながら、消えた道の前方へ回り込んだのだ。三人とおたまが乗り、扉が閉じる。

音(おと)が消えた。

車輪の音(おと)が最初に消えた。線路の継ぎ目を越える規則的(きそくてき)な振動(しんどう)は足裏に伝わっている。列車(れっしゃ)は走っている。けれど音(おと)がない。

あさひが口を開いた。唇(くちびる)が動くのが見えた。声は聞こえなかった。

こよいは自分の手を叩(たた)いた。両手を合わせる感触(かんしょく)はある。皮膚が皮膚に当たる衝撃(しょうげき)が掌(てのひら)に残る。音(おと)だけがない。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。  革の表紙が合わさる瞬間、衝撃(しょうげき)が指先に伝わった。聞こえるはずの音(おと)は、空気の中で消えていた。

「——」

久遠(くおん)が何か言った。  唇(くちびる)の動きを追う。読めない。久遠(くおん)は早口で、唇(くちびる)の動きが小さい。

あさひが床を踏んだ。  右足で、強く。  振動(しんどう)が床板を伝い、こよいの足にまで届いた。あさひの意図は明らかだった。聞こえないなら、感じろ。

久遠(くおん)が理解した。  目録(もくろく)を開き、空白の頁(ページ)に鉛筆(えんぴつ)を走らせた。文字を書いて、こよいとあさひに見せる。

『音(おと)が遮断(しゃだん)されている。空気の振動(しんどう)そのものが抑制(よくせい)されている。音波(おんぱ)が発生しない。だが固体(こたい)を伝わる振動(しんどう)は残っている』

こよいは頷(うなず)いた。  久遠(くおん)が次の行を書く。

『漂白(ひょうはく)が音(おと)の領域に及んだ。色や形だけでなく、音(おと)という情報も削り始めている』

あさひが久遠(くおん)の肩を叩いた。  久遠(くおん)が顔を上げる。あさひは口を大きく動かして、ゆっくりと一語ずつ発した。

読めた。

「いつまで」

久遠(くおん)は鉛筆(えんぴつ)で頁(ページ)に書いた。

『分からない。区間性のものなら、次の駅で解除されるかもしれない』

こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。  脈動(みゃくどう)がある。名前たちの鼓動(こどう)を、掌(てのひら)で感じた。音(おと)は消えているのに、脈動(みゃくどう)は消えていない。

音(おと)は空気を媒介(ばいかい)にする。  名前の脈動(みゃくどう)は、空気ではなく布と皮膚を媒介(ばいかい)にしている。だから消えなかった。

こよいは久遠(くおん)の鉛筆(えんぴつ)を指差し、目録(もくろく)の頁(ページ)を指差した。  久遠(くおん)が鉛筆(えんぴつ)を渡す。こよいは書いた。

『名前はまだ脈打ってる。触れば分かる。音(おと)は消えたけど、触覚(しょっかく)は残ってる』

久遠(くおん)が頷いた。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が強まった。蒼い光が目録(もくろく)の頁(ページ)の上に文字を投影(とうえい)する。光の文字は空気を介さない。視覚は生きている。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)から光の文字列を頁(ページ)に映して、情報を伝え始めた。

蒼い光の文字が頁(ページ)の上を流れる。

『義眼(ぎがん)の投影(とうえい)機能は健在(けんざい)。視覚と触覚(しょっかく)を使って連携(れんけい)する。聴覚に頼るな』

あさひは布包みの剣の石突(いしづき)を床に突き立てた。  振動(しんどう)が走った。一回。短く。了解の合図(あいず)。

こよいは座席から立ち上がった。  窓の外を見る。景色は変わらず流れている。霧(きり)の中に、うっすらと木々の影(かげ)が見える。音(おと)のない世界で、景色だけが黙って動いていた。

足を踏み出した。  靴底が床に触れる。感触(かんしょく)はある。けれど足音がない。自分の歩く音(おと)を聞いたことがないという感覚は、想像よりもずっと不安だった。

体が自分のものではないような気がした。  音(おと)がないと、動作の確認が取れない。歩いているのか、立っているのか。感触(かんしょく)だけでは、動きの実感が薄い。

あさひが隣に来た。  肩が触れた。あさひは何も言わず——言えず——こよいの腕をつかんだ。指先に力がある。ここにいる、という意味の力だった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)に何か書き、二人に見せた。

『窓の外に駅舎が見える。三つ先の信号柱を過ぎたあたりだ。あそこまで持ちこたえろ』

列車(れっしゃ)が減速を始めた。  振動(しんどう)のパターンが変わった。車輪の回転が遅くなっている。足裏で分かる。ブレーキの軋(きし)みは聞こえないが、床に伝わる圧力が変わった。

こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包んだ。  名前たちの脈動(みゃくどう)が速くなっている。駅が近い。駅には名前がある。名前のある場所に近づくと、名前たちが応える。

列車(れっしゃ)が止まった。  扉が開く音(おと)は聞こえなかった。けれど空気が動いた。外の空気が入ってきた。湿った空気。潮(しお)の匂い。

そして——

遠くで、鳴った。

鐘(かね)の音(おと)だった。  低く、長い残響(ざんきょう)を引く鐘(かね)の音(おと)が、駅舎の向こうから聞こえた。

音(おと)が戻った。

こよいの耳が、世界を取り戻した。列車(れっしゃ)の金属が冷える音(おと)。外の風が窓枠(まどわく)を叩く音(おと)。あさひの呼吸(こきゅう)。久遠(くおん)が鉛筆(えんぴつ)を置く音(おと)。

最初にはっきり聞き分けられたのは、おたまの小鈴だった。無音の間も振動として掌へ届いていた拍が、今度は空気を通って同じ間隔で返る。こよいは猫を抱き上げ、失われなかったリズムを耳でも確かめた。

「……聞こえる」

こよいの声が、自分の耳に届いた。  声が震えていた。

あさひがこよいの腕を離した。  そして、一言だけ。

「長かったな」

その声を聞いて、こよいは初めて、音(おと)がどれほど大切なものだったかを知った。

久遠(くおん)は目録(もくろく)の頁(ページ)を見ていた。  沈黙(ちんもく)の区間で書いた文字が、びっしりと頁(ページ)を埋めている。声の代わりに積み上げた言葉の列。

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が静かに明滅(めいめつ)した。  久遠(くおん)はその頁(ページ)を破らず、そのまま閉じた。  沈黙(ちんもく)の記録(きろく)として、残しておくように。

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