夕原の宿駅で、こよいの影が石段の中央を指した。久遠が根の入口座標を重ねると、石の継ぎ目が金色に開く。三人とおたまが踏み込んだのは、土地同士を地下で結ぶ根の道だった。
北へ引き返したのではない。南へ伸びた水脈が、かつての星野と同じ根の座標を一時的に重ねたのだ。門を一つ潜る間に景色が裏返り、星野の井戸の広場が根の向こう側から現れた。
星野の自律井戸は、三人が最後に見たときの三倍の高さになっていた。
蔓が胸まで伸びている。蔓同士が編み合って、井戸の周囲に籠のような構造を作っていた。隙間から金色の光が漏れ、広場の石畳に細い線状の影を落としている。光の線は石畳の目地を辿るように走り、広場の隅まで届いていた。前に来たときは、井戸の縁から手の届く範囲にしか光は漏れていなかった。
こよいが近づくと、蔓が揺れた。風はない。蔓自身が、来訪者を感知して動いたのだ。揺れは井戸の下部から始まり、波のように上へ伝わっていった。蔓の表面に薄い産毛のような細い枝が生えている。前にはなかったものだ。産毛の一本一本が、空気の動きを拾って震えていた。
「防御機構だ」
久遠が義眼を向けた。蒼光が蔓の表面を走る。光が産毛に触れるたびに、蔓の内部で微かな脈動が走るのが見えた。
「漂白の波が来ると、蔓がそれを吸収して中和する。この籠は名前を守るための砦だ」
あさひが蔓に手を触れた。温かい。指先に、無数の脈動が伝わってくる。蔓の断面は木ではなく、もっと柔らかい。生き物の血管に触れているような感触だった。
「一本に名前が通ってるのか」
「通っているんじゃない。蔓そのものが名前の身体だ。根を張り、枝を伸ばし、自分の形を自分で決めている」
久遠の声に、珍しく感嘆の色が混じっていた。義眼の蒼光が蔓の一本を根元から先端まで辿り、その構造を読み取っている。蒼い光が蔓の内側を透過し、中を流れる金色の脈が一瞬だけ浮かび上がった。
こよいは蔓の隙間から中を覗いた。井戸の縁が金色に光っている。前より明るい。光が井戸の内壁を照らし、石の表面に刻まれた古い文字の痕跡が浮かび上がっていた。文字は読めないが、形に覚えがある。巾着の中の神々が、その文字に反応して微かに震えた。底は見えないが、前と違ったのは、底から下に向かって新しい蔓が伸びていたことだった。暗がりの中で、蔓の先端だけが金色に光りながら、地中へ潜ろうとしている。
「地下に根を伸ばしてる」
「星降町の受け皿と繋がろうとしているんだろう。地下の名前の水脈を通じて」
空から、金色の糸が降りてきた。
蔓がそれを察知した。籠の上部が開く。産毛が一斉に外側へ倒れ、隙間ができる。糸が隙間を通って、真っすぐ井戸の中に落ちていく。糸が通過した場所の空気が金色に染まり、一瞬だけ甘い匂いがした。名前が宿る瞬間の匂いだ。蔓が一本、新しく伸びた。籠の編み目に加わるように、隣の蔓と絡み合いながら上へ向かっていく。
五十一柱の目録で、四十柱目。水脈に残された七柱の、三柱目だった。
こよいの巾着が鳴った。新しい名は蔓の籠に留まったまま、根を通じて巾着の二十六番目の脈になった。短く、高い音。喜びの声だった。仲間がまた一柱、自分の居場所を見つけたのだ。
蔓の籠が再び閉じた。金色の光を抱え込むようにして、静かに揺れている。産毛が元の向きに戻り、外の空気を探るように微かに震えた。
こよいは巾着を胸に押し当てた。温かかった。最初の一柱を拾ったときと同じ温かさ。四十柱を数えてなお、名前が宿る瞬間の熱は変わらない。
久遠が目録を開いた。四十柱目の定着先を記録しようとして、手が止まった。
「……妙だな」
頁に、方角を示す記号が浮かんでいた。北でも南でも東でも西でもない。久遠の知る記号体系のどこにも存在しない印。墨の色とも違う。金色でもなく、蒼でもなく、二つの色が混じったような、見覚えのない色で記号が刻まれていた。
「この方角は何だ」
「名前の方角だ」
こよいが言った。自分でも驚くほど確信に満ちた声だった。巾着を握る掌の中で、名前たちの脈動がひとつに揃っていた。
巾着の中の名前たちが、一斉に同じ方角を向いている。二十六の光が揃って、目録にない方位を指している。地図に載っていない南。理の座標系では記述できない場所。名前だけが知っている、名前のための方角。
久遠はしばらく見知らぬ記号を見つめていた。義眼の蒼光を落とし、裸眼で頁を見ている。理の目ではなく、自分の目で見ようとしている。それから、静かに頁を閉じた。
「案内してもらおう」
あさひが蔓の籠を見上げた。腕を組み、しばらく黙っていた。それから、短く息を吐いた。
「こいつらは自分で戦ってる。俺の剣がなくても」
その声には、安堵と、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
おたまは蔓の根元へ鼻を寄せ、広場ではなく開いた根の道へ向き直った。小鈴が一度鳴ると、二十六の脈が同じ拍で応える。
こよいは巾着の紐を握り直した。二十六の温もりが、まだ見ぬ方角を指していた。蔓の籠が背後で揺れ、金色の光がこよいたちの影を長く引き伸ばした。広場を渡る風が、蔓の産毛を一斉に揺らし、籠全体が一つの生き物のように息をしていた。
