第398話 揺れる方角
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第398話 揺れる方角

第13章 南の方位

夕原(ゆうばら)の宿駅で、こよいの影が石段の中央を指した。久遠(くおん)が根の入口座標を重ねると、石の継ぎ目が金色に開く。三人とおたまが踏み込んだのは、土地同士を地下で結ぶ根の道だった。

北へ引き返したのではない。南へ伸びた水脈が、かつての星野(ほしの)と同じ根の座標を一時的に重ねたのだ。門を一つ潜る間に景色が裏返り、星野の井戸の広場が根の向こう側から現れた。

星野(ほしの)の自律井戸(じりついど)は、三人が最後に見たときの三倍の高さになっていた。

蔓(つる)が胸まで伸びている。蔓(つる)同士が編み合って、井戸(いど)の周囲に籠(かご)のような構造を作っていた。隙間(すきま)から金色の光が漏れ、広場の石畳(いしだたみ)に細い線状の影(かげ)を落としている。光の線は石畳(いしだたみ)の目地(めじ)を辿(たど)るように走り、広場の隅まで届いていた。前に来たときは、井戸(いど)の縁(ふち)から手の届く範囲にしか光は漏れていなかった。

こよいが近づくと、蔓(つる)が揺れた。風はない。蔓(つる)自身が、来訪者を感知して動いたのだ。揺れは井戸(いど)の下部から始まり、波のように上へ伝わっていった。蔓(つる)の表面に薄い産毛(うぶげ)のような細い枝が生えている。前にはなかったものだ。産毛(うぶげ)の一本一本が、空気の動きを拾って震えていた。

「防御機構(ぼうぎょきこう)だ」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けた。蒼光(そうこう)が蔓(つる)の表面を走る。光が産毛(うぶげ)に触れるたびに、蔓(つる)の内部で微かな脈動(みゃくどう)が走るのが見えた。

「漂白(ひょうはく)の波が来ると、蔓(つる)がそれを吸収して中和する。この籠(かご)は名前を守るための砦(とりで)だ」

あさひが蔓(つる)に手を触れた。温かい。指先に、無数の脈動(みゃくどう)が伝わってくる。蔓(つる)の断面は木ではなく、もっと柔らかい。生き物の血管に触れているような感触だった。

「一本に名前が通ってるのか」

「通っているんじゃない。蔓(つる)そのものが名前の身体だ。根を張り、枝を伸ばし、自分の形を自分で決めている」

久遠(くおん)の声に、珍しく感嘆(かんたん)の色が混じっていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が蔓(つる)の一本を根元から先端まで辿(たど)り、その構造を読み取っている。蒼い光が蔓(つる)の内側を透過し、中を流れる金色の脈が一瞬だけ浮かび上がった。

こよいは蔓(つる)の隙間(すきま)から中を覗いた。井戸(いど)の縁(ふち)が金色に光っている。前より明るい。光が井戸(いど)の内壁を照らし、石の表面に刻まれた古い文字の痕跡(こんせき)が浮かび上がっていた。文字は読めないが、形に覚えがある。巾着(きんちゃく)の中の神々が、その文字に反応して微かに震えた。底は見えないが、前と違ったのは、底から下に向かって新しい蔓(つる)が伸びていたことだった。暗がりの中で、蔓(つる)の先端だけが金色に光りながら、地中へ潜ろうとしている。

「地下に根を伸ばしてる」

「星降町(ほしふりまち)の受け皿と繋(つな)がろうとしているんだろう。地下の名前の水脈(すいみゃく)を通じて」

空から、金色の糸が降りてきた。

蔓(つる)がそれを察知した。籠(かご)の上部が開く。産毛(うぶげ)が一斉に外側へ倒れ、隙間(すきま)ができる。糸が隙間(すきま)を通って、真っすぐ井戸(いど)の中に落ちていく。糸が通過した場所の空気が金色に染まり、一瞬だけ甘い匂いがした。名前が宿る瞬間の匂いだ。蔓(つる)が一本、新しく伸びた。籠(かご)の編み目に加わるように、隣の蔓(つる)と絡み合いながら上へ向かっていく。

五十一柱の目録(もくろく)で、四十柱目。水脈に残された七柱の、三柱目だった。

こよいの巾着(きんちゃく)が鳴った。新しい名は蔓の籠に留まったまま、根を通じて巾着の二十六番目の脈になった。短く、高い音。喜びの声だった。仲間がまた一柱(ひとはしら)、自分の居場所を見つけたのだ。

蔓(つる)の籠(かご)が再び閉じた。金色の光を抱え込むようにして、静かに揺れている。産毛(うぶげ)が元の向きに戻り、外の空気を探るように微かに震えた。

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押し当てた。温かかった。最初の一柱(ひとはしら)を拾ったときと同じ温かさ。四十柱を数えてなお、名前が宿る瞬間の熱は変わらない。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。四十柱目の定着先を記録しようとして、手が止まった。

「……妙だな」

頁(ページ)に、方角を示す記号が浮かんでいた。北でも南でも東でも西でもない。久遠(くおん)の知る記号体系のどこにも存在しない印。墨(すみ)の色とも違う。金色でもなく、蒼でもなく、二つの色が混じったような、見覚えのない色で記号が刻まれていた。

「この方角は何だ」

「名前の方角だ」

こよいが言った。自分でも驚くほど確信に満ちた声だった。巾着(きんちゃく)を握る掌(てのひら)の中で、名前たちの脈動(みゃくどう)がひとつに揃(そろ)っていた。

巾着(きんちゃく)の中の名前たちが、一斉に同じ方角を向いている。二十六の光が揃って、目録(もくろく)にない方位を指している。地図に載っていない南。理(ことわり)の座標(ざひょう)系では記述できない場所。名前だけが知っている、名前のための方角。

久遠(くおん)はしばらく見知らぬ記号を見つめていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を落とし、裸眼(らがん)で頁(ページ)を見ている。理(ことわり)の目ではなく、自分の目で見ようとしている。それから、静かに頁(ページ)を閉じた。

「案内してもらおう」

あさひが蔓(つる)の籠(かご)を見上げた。腕を組み、しばらく黙っていた。それから、短く息を吐いた。

「こいつらは自分で戦ってる。俺の剣がなくても」

その声には、安堵(あんど)と、ほんの少しの寂しさが混じっていた。

おたまは蔓の根元へ鼻を寄せ、広場ではなく開いた根の道へ向き直った。小鈴が一度鳴ると、二十六の脈が同じ拍で応える。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を握り直した。二十六の温もりが、まだ見ぬ方角を指していた。蔓(つる)の籠(かご)が背後で揺れ、金色の光がこよいたちの影(かげ)を長く引き伸ばした。広場を渡る風が、蔓(つる)の産毛(うぶげ)を一斉に揺らし、籠(かご)全体が一つの生き物のように息をしていた。

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