第397話 夕原の道
397

第397話 夕原の道

第13章 南の方位

石畳(いしだたみ)の表面に薄い氷が張っていた。

踏むたびに細い亀裂(きれつ)が走り、隙間(すきま)から蒼白い光が髪の毛ほどの細さで立ち昇る。灯籠(とうろう)が明滅(めいめつ)し、かつて賑(にぎ)わいを見せていた通りは、霜(しも)に覆(おお)われて白く硬直していた。  建物の壁にも氷が這(は)っている。格子(こうし)窓の桟(さん)に霜柱(しもばしら)が立ち、軒先(のきさき)から垂れた氷柱(つらら)が灯籠(とうろう)の明滅に合わせて蒼白く光った。通りの両側に並ぶ家々の戸は閉じている。凍りついて開かないのか、中から閉ざされたのか。どちらにせよ、この通りはもう長い間、人の手に触れていなかった。

巾着(きんちゃく)の中の名前たちが震えている。氷の底に閉じ込められた同胞の気配を、感じ取っているのだ。布越しに伝わる震えは、寒さではなかった。もっと深い場所から来る震え。かつて同じ紙の上にいた名前が、今は氷の下で身動きが取れずにいることへの、共振(きょうしん)だった。

こよいは足元の氷を見下ろした。蒼白い光の向こうに、小さな影(かげ)が蹲(うずくま)っている。震えている。影(かげ)の輪郭(りんかく)は文字の形をしていた。ひらがな一文字分の影(かげ)が、氷の膜(まく)一枚を隔(へだ)てた向こう側で、こよいを見上げている。

手を伸ばしたかった。氷を割って、引き上げてやりたかった。指先が氷の表面に触れかけた。冷気が爪の先から腕を這(は)い上がり、こよいの肘(ひじ)まで痺(しび)れが走った。

「呼ばないほうがいい。名を呼んだ瞬間、こちら側が先に削られる」

久遠(くおん)の声は低かった。目録(もくろく)の頁(ページ)が風もないのに捲(めく)れる。理(ことわり)が情報の露出(ろしゅつ)を阻止しようとしている。頁(ページ)が捲(めく)れるたびに、文字が薄くなっていく。この場所に長居すれば、目録(もくろく)の記録(きろく)まで凍りつく。

「……分かってる。でも、あの子たちの声が氷の底からすごく切実に聞こえてくるんだ」

こよいは巾着(きんちゃく)を胸に抱えた。声は耳では聞こえない。けれど巾着(きんちゃく)を通じて、氷に閉じ込められた者たちの嘆きが、こよいの痛みとして伝わってくる。神々が冷たくなっていた。こよいの体温で温めても、氷の下の名前たちの冷気が布を通して染みてくる。

こよいは足元の影(かげ)にもう一度目を落とした。影(かげ)はまだそこにいた。動けないのだ。こよいが歩き去った後も、この氷の下でずっと蹲(うずくま)っているのだろう。それを知っていて、立ち去らなければならない。

あさひが前を向いたまま言った。

「行こう。答えは向こうに置いてきた」

三人は氷の通りを歩いた。あさひが先頭を行き、こよいが続き、久遠(くおん)が殿(しんがり)を守る。いつもの隊列。あさひの足音だけが氷の上で確かに響き、振動がこよいの足裏を通じて胸まで届いた。  おたまはこよいの腕の中にいた。氷へ降ろせば影のない脚まで閉じ込められる気がして、離せなかった。猫の体温と小鈴の重みが、救えない名を見捨てたのではなく、答えを持ち帰る途中なのだと支えてくれた。  通りの出口が見えた。氷が薄くなり、石畳(いしだたみ)の色が透けている。こよいの靴底(くつぞこ)が最後の氷を踏んだとき、背後で小さな罅割(ひびわ)れの音がした。氷が閉じ直す音だった。通り過ぎた者の足跡を、氷が塗り潰していく。

空気が変わった。

冷たさが消え、乾いた温もりが肌を撫(な)でた。足元の石畳(いしだたみ)がいつの間にか砂混じりの土に変わっている。氷の通りの冷気が嘘のように、こよいの頬(ほお)を温かい風が撫でた。巾着(きんちゃく)の中の神々が、凍りかけていた脈動を取り戻し始める。

顔を上げると、夕焼けだった。

空の半分が橙(だいだい)に染まり、もう半分はまだ蒼い。その境目が、道の真上を一直線に走っている。三人は夕暮れと黄昏(たそがれ)の境界線(きょうかいせん)の上を歩いていた。右を向けば橙色の空、左を向けば蒼い空。足元の土が橙に照らされた側と、蒼い影(かげ)に沈んだ側に分かれている。

夕原(ゆうばら)の道。

名前はない。標もない。けれど空気の温度と光の色が、ここが夕原(ゆうばら)であることを告げていた。久遠(くおん)が目録(もくろく)を開くと、頁(ページ)の文字が夕光を受けて金色に光った。氷の通りで薄れかけていた文字が、ここでは鮮明に読める。

道の両側に、背の低い草が生えていた。橙色の光を受けて、穂先(ほさき)が金色に輝いている。風が草を撫でると、穂先(ほさき)が一斉に傾いて、波のような模様が道の先まで流れていった。

あさひが振り返らずに言った。

「影(かげ)が長い」

三人の影(かげ)が、夕光(ゆうこう)に引き伸ばされて道の先まで届いていた。影(かげ)の足先は、まだ三人が到達していない場所を踏んでいる。次の宿駅(しゅくえき)の石段を、影(かげ)がすでに昇り始めていた。

こよいは自分の影(かげ)を見下ろした。影(かげ)の方が先に南へ着く。自分の身体は、まだここにいるのに。巾着(きんちゃく)の影(かげ)も長く伸びている。二十五の脈の温もりを抱えた巾着(きんちゃく)の影(かげ)が、道の先で揺れていた。

久遠(くおん)が小さく息を吐いた。

「急がなくていい。影(かげ)が先に着いてくれるなら、道は間違っていない」

声に安堵(あんど)が混じっていた。氷の通りを抜けた解放感が、久遠(くおん)の口調をほんの少しだけ緩めている。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、夕焼けの橙色を映して淡い紫に揺れた。

三人は影(かげ)の後を追って、夕原の道を歩いた。草の穂先(ほさき)が足を撫で、乾いた土の匂いが鼻腔(びくう)に届く。氷の通りで凍えかけた名前たちの震えが、巾着(きんちゃく)の中で少しずつ収まっていく。夕原の温もりが、布を通して名前たちに届いているのだった。

道の先で、影(かげ)たちが宿駅(しゅくえき)の石段を昇り切った。こよいの影(かげ)が一番最後に石段の上に届き、あさひの影(かげ)と久遠(くおん)の影(かげ)の間で揺れた。影(かげ)が先に着いた場所へ、三人の足が追いつくまで、あと少し。

夕焼けはまだ消えなかった。橙色の空が三人を待つように、ゆっくりと暮れていく。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます