引き上げられる名前は、引き上げ切った。列車は宵波浜の核心部を離れ、外縁の停車場へ向かって動き出した。
車輪が軋む低い音が床板を伝い、座席の木枠を通じてこよいの背中に届いた。振動は一定のリズムを刻み、やがて走行音に紛れていく。窓の外を、宵波浜の灰色の砂浜がゆっくりと後方へ流れていった。 停車場の灯籠が一つ、また一つと小さくなり、最後に残った一基の明かりが霧に呑まれて消えた。
鈴音は、浜に残った。 名前が全部集まる海を離れられない。拾い手は、名前の落ちる場所にしかいられないのだ。桟橋の端で膝を折ったまま、彼女は列車を見送った。手は振らなかった。振れば、その分だけ削れるから。ただ、こよいの持つ空の小瓶を指して、口の形だけで言った——わすれないで。 こよいは頷いた。約束は、写本の束と、空の小瓶の中に、確かに預かっている。いつか、この海の底から、鈴音自身の名前を掘り上げる。
こよいの膝の上に、写本があった。 そのうち三枚に、新しい名前が重ねて記録されている。宵波浜の液体から掬い上げた三柱分の名前。金色の文字が、こよいの書いた墨の文字と重なり、二重の輪郭を描いていた。 写本の表面はすでに乾き始めている。金色と墨色が混じり合った文字は、光の加減で見え方が変わった。窓から差し込む薄明かりの下では金色が勝ち、影に入ると墨の黒が浮かび上がる。紙の繊維が二つの色を吸い込んで、しっかりと定着していた。
三枚はそうだった。
四枚目は、白かった。 文字は残っている。こよいが書いた名前の墨は消えていない。筆先の力加減まで思い出せるほど、その字は鮮明に紙の上にあった。 けれど、その上に重なるはずだった金色の文字がない。
四柱目は、掬えなかった。
写本を液体に浸したとき、引き寄せられてきたのは透明な水だけだった。金色の光がなかった。こよいの指先に伝わったのは、ただの水の冷たさだけだった。温もりのない、名前の気配のない、何の感触もない液体。 名前が完全に希釈されていた。 水に戻っていた。
こよいの手から液体が滴った。掌を伝い、手首を越え、袖口の布に染みを作る。ただの水だった。 温度もない。 感触もない。 名前だったものが、何でもないものになっていた。
車内に沈黙が落ちた。車輪の音だけが一定の間隔で床を叩く。 あさひが何も言わずに、こよいの隣に座った。腰を下ろす動作は静かだったが、座席の古い木が軋む音が車内に響いた。あさひは腕を組まなかった。剣も膝に立てかけず、布包みごと横に置いた。ただ、そこにいた。肩と肩が触れるほど近くに。あさひの体温が、こよいの左腕に伝わっている。
向かいの席で、久遠が目録に数を記録した。筆先が紙を走る音が、乾いた空気の中で妙に鋭く聞こえた。義眼の蒼光が頁の上を這い、数字を確認している。
「星野で二十五柱。星降町の受け皿に三柱。宵波浜で三柱。着地の確認が取れたのは、合計三十一。喪ったのが、一。残りは——十九。水脈を渡っている十七と、封じられた井戸の戸口の一、砂の灯の浜の紙の一」
久遠の声は平坦だった。感情を削ぎ落としたのではなく、事実だけを正確に伝えるために余分なものを排除した声。けれど筆を置いたあと、久遠の指先が一瞬だけ震えたのを、こよいは見逃さなかった。 一柱は、もういない。 数に入らない。目録にも書けない。久遠が記録できるのは、存在する名前だけだ。存在しなくなったものに、数字は与えられない。
こよいは四枚目の写本を畳んだ。 墨の名前だけが残った紙を、丁寧に折った。角と角を合わせ、指の腹で折り目をなぞる。紙は薄く、折り目は鋭く入った。こよいはその紙を巾着の横に入れた。巾着の布と紙が触れた瞬間、巾着が脈打った。 声はまだ出ない。
宵波浜を離れても、液体の領域が近いせいか、音が戻り切っていなかった。神々の声は聞こえない。けれど脈動だけは伝わってきた。布越しに感じる小さな波動。温かかった。 こよいの悲しみに応えるように、神々が温もりを送っている。こよいは巾着を左手で包んだ。脈動が掌の中心に当たり、心臓の鼓動と重なった。二つの拍動が交互に打ち、やがて同じリズムに揃っていく。
窓の外で、金色の液体が銀色に戻っていく。 宵波浜が遠ざかっている。海岸線の輪郭が霧に溶け、金色の帯が細くなり、やがて銀灰色の一色に呑み込まれた。液体の匂いも薄れていく。潮とも違う、甘さのない水の匂い。それが消えると、車内には木と埃と、三人の体温だけが残った。
おたまが、畳まれた四枚目の紙の上に、そっと前脚を載せた。重みをかけない、触れるだけの載せ方だった。猫は名前のないものを踏まない。けれど、名前だったものには、こうして触れるのだ。
こよいは目を閉じた。 四柱目の名前を思い出した。
二文字のひらがな。やわらかい音の並び。声に出せば、きっと舌の上で丸くなるような響きだった。もう誰にも呼ばれることのない名前。こよいは心の中で、一度だけ呼んだ。 声にはしなかった。 唇は動かさなかった。喉も震わせなかった。心の中だけで、その二文字を置いた。静かに、丁寧に。
液体に還った名前に、それ以上の負担をかけたくなかった。呼ぶことは引き留めることになる。水に戻ったものを、再び名前の形に引き戻すのは、こよいの優しさではなく残酷さだと思えた。
それから、こよいは裂目のことを思った。 迂回線の果てで見た、世界のもう一つの版。名前の残る側の、青い空の下の町。あの向こう側の世界でなら——この二文字の名前は、今も誰かに呼ばれて、夕暮れの道を歩いているのだろうか。 確かめるすべはない。裂目は越えられない。それでも、そう思うことは、弔いに似ていた。こちら側で水に還った名前が、裂け目の向こうでは生きている。嘘でもいい。その想像の分だけ、四枚目の紙は軽くなった。
列車が揺れた。線路の継ぎ目を越える振動が、座席を通じて背骨に伝わる。 窓の外を、白い鳥が一羽、追いかけるように飛んでいた。翼の先端が霧の水滴を弾き、微かな光の粒を撒き散らしている。鳥は列車の窓に沿うように飛び、一度だけ首を傾げてこちらを見た。丸い目が、車内のこよいを映していた。 やがて鳥は列車より先へ行き、霧の中に消えた。白い翼の残像が、灰色の空気の中にしばらく漂い、それも消えた。
こよいは写本を胸に抱え直した。 三柱の温もりが、紙越しに伝わっている。金色の名前たちが、紙の中で息をしている。微かだが確かな熱。こよいの胸の皮膚に、その温度がじんわりと染みた。 四枚目の紙は、巾着の隣で静かに眠っている。温もりはない。けれど、墨の名前だけは、まだそこにあった。
