第367話 裂け目の向こう
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第367話 裂け目の向こう

第12章 記録の裂目

引き上げられる名前は、引き上げ切った。列車は宵波浜よいなみはまの核心部を離れ、外縁の停車場へ向かって動き出した。

車輪がきしむ低い音が床板を伝い、座席の木枠きわくを通じてこよいの背中に届いた。振動は一定のリズムを刻み、やがて走行音にまぎれていく。窓の外を、宵波浜よいなみはまの灰色の砂浜すなはまがゆっくりと後方へ流れていった。  停車場ていしゃじょう灯籠とうろうが一つ、また一つと小さくなり、最後に残った一基の明かりがきりまれて消えた。

鈴音すずねは、浜に残った。  名前が全部集まる海を離れられない。拾い手は、名前の落ちる場所にしかいられないのだ。桟橋さんばしの端で膝を折ったまま、彼女は列車を見送った。手は振らなかった。振れば、その分だけ削れるから。ただ、こよいの持つ空の小瓶を指して、口の形だけで言った——わすれないで。  こよいはうなずいた。約束は、写本しゃほんの束と、空の小瓶の中に、確かに預かっている。いつか、この海の底から、鈴音すずね自身の名前を掘り上げる。

こよいのひざの上に、写本しゃほんがあった。  そのうち三枚に、新しい名前が重ねて記録きろくされている。宵波浜よいなみはまの液体からすくい上げた三柱みはしら分の名前。金色の文字が、こよいの書いたすみの文字と重なり、二重にじゅう輪郭りんかくを描いていた。  写本しゃほんの表面はすでに乾き始めている。金色と墨色すみいろが混じり合った文字は、光の加減で見え方が変わった。窓から差し込む薄明かりの下では金色が勝ち、かげに入るとすみの黒が浮かび上がる。紙の繊維せんいが二つの色を吸い込んで、しっかりと定着していた。

三枚はそうだった。

四枚目は、白かった。  文字は残っている。こよいが書いた名前のすみは消えていない。筆先の力加減まで思い出せるほど、その字は鮮明せんめいに紙の上にあった。  けれど、その上に重なるはずだった金色の文字がない。

四柱よんはしら目は、すくえなかった。

写本しゃほんを液体にひたしたとき、引き寄せられてきたのは透明な水だけだった。金色の光がなかった。こよいの指先に伝わったのは、ただの水の冷たさだけだった。温もりのない、名前の気配のない、何の感触かんしょくもない液体。  名前が完全に希釈きしゃくされていた。  水に戻っていた。

こよいの手から液体がしたたった。てのひらを伝い、手首を越え、袖口そでぐちの布に染みを作る。ただの水だった。  温度もない。  感触かんしょくもない。  名前だったものが、何でもないものになっていた。

車内に沈黙が落ちた。車輪の音だけが一定の間隔で床を叩く。  あさひが何も言わずに、こよいの隣に座った。腰を下ろす動作は静かだったが、座席の古い木がきしむ音が車内に響いた。あさひは腕を組まなかった。剣もひざに立てかけず、布包みごと横に置いた。ただ、そこにいた。肩と肩が触れるほど近くに。あさひの体温が、こよいの左腕に伝わっている。

向かいの席で、久遠くおん目録もくろくに数を記録きろくした。筆先が紙を走る音が、乾いた空気の中で妙に鋭く聞こえた。義眼ぎがん蒼光そうこうページの上をい、数字を確認している。

星野ほしの二十五柱にじゅうごはしら星降町ほしふりまちの受け皿に三柱みはしら宵波浜よいなみはま三柱みはしら。着地の確認が取れたのは、合計三十一。喪ったのが、一。残りは——十九。水脈を渡っている十七と、封じられた井戸の戸口の一、砂の灯の浜の紙の一」

久遠くおんの声は平坦へいたんだった。感情をぎ落としたのではなく、事実だけを正確に伝えるために余分なものを排除した声。けれど筆を置いたあと、久遠くおんの指先が一瞬だけ震えたのを、こよいは見逃さなかった。  一柱ひとはしらは、もういない。  数に入らない。目録もくろくにも書けない。久遠くおん記録きろくできるのは、存在する名前だけだ。存在しなくなったものに、数字は与えられない。

こよいは四枚目の写本しゃほんを畳んだ。  すみの名前だけが残った紙を、丁寧に折った。角と角を合わせ、指の腹で折り目をなぞる。紙は薄く、折り目は鋭く入った。こよいはその紙を巾着きんちゃくの横に入れた。巾着きんちゃくの布と紙が触れた瞬間、巾着きんちゃくが脈打った。  声はまだ出ない。

宵波浜よいなみはまを離れても、液体の領域が近いせいか、音が戻り切っていなかった。神々の声は聞こえない。けれど脈動だけは伝わってきた。布越しに感じる小さな波動。温かかった。  こよいの悲しみに応えるように、神々が温もりを送っている。こよいは巾着きんちゃくを左手で包んだ。脈動がてのひらの中心に当たり、心臓の鼓動こどうと重なった。二つの拍動が交互に打ち、やがて同じリズムにそろっていく。

窓の外で、金色の液体が銀色に戻っていく。  宵波浜よいなみはまが遠ざかっている。海岸線の輪郭りんかくきりに溶け、金色の帯が細くなり、やがて銀灰色の一色にみ込まれた。液体の匂いも薄れていく。しおとも違う、甘さのない水の匂い。それが消えると、車内には木とほこりと、三人の体温だけが残った。

おたまが、畳まれた四枚目の紙の上に、そっと前脚を載せた。重みをかけない、触れるだけの載せ方だった。猫は名前のないものを踏まない。けれど、名前だったものには、こうして触れるのだ。

こよいは目を閉じた。  四柱よんはしら目の名前を思い出した。

二文字のひらがな。やわらかい音の並び。声に出せば、きっと舌の上で丸くなるような響きだった。もう誰にも呼ばれることのない名前。こよいは心の中で、一度だけ呼んだ。  声にはしなかった。  唇は動かさなかった。のども震わせなかった。心の中だけで、その二文字を置いた。静かに、丁寧に。

液体にかえった名前に、それ以上の負担をかけたくなかった。呼ぶことは引き留めることになる。水に戻ったものを、再び名前の形に引き戻すのは、こよいの優しさではなく残酷さだと思えた。

それから、こよいは裂目さけめのことを思った。  迂回線の果てで見た、世界のもう一つの版。名前の残る側の、青い空の下の町。あの向こう側の世界でなら——この二文字の名前は、今も誰かに呼ばれて、夕暮れの道を歩いているのだろうか。  確かめるすべはない。裂目は越えられない。それでも、そう思うことは、弔いに似ていた。こちら側で水に還った名前が、裂け目の向こうでは生きている。嘘でもいい。その想像の分だけ、四枚目の紙は軽くなった。

列車が揺れた。線路のぎ目を越える振動が、座席を通じて背骨に伝わる。  窓の外を、白い鳥が一羽、追いかけるように飛んでいた。翼の先端がきり水滴すいてきを弾き、微かな光の粒をき散らしている。鳥は列車の窓に沿うように飛び、一度だけ首をかしげてこちらを見た。丸い目が、車内のこよいを映していた。  やがて鳥は列車より先へ行き、きりの中に消えた。白い翼の残像ざんぞうが、灰色の空気の中にしばらくただよい、それも消えた。

こよいは写本しゃほんを胸に抱え直した。  三柱みはしらの温もりが、紙越しに伝わっている。金色の名前たちが、紙の中で息をしている。微かだが確かな熱。こよいの胸の皮膚に、その温度がじんわりと染みた。  四枚目の紙は、巾着きんちゃくの隣で静かに眠っている。温もりはない。けれど、すみの名前だけは、まだそこにあった。

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