第366話 白紙の頁
366

第366話 白紙の頁

第12章 記録の裂目

写本(しゃほん)の端(はし)が白くなっていた。

名前たちが自ら並び直している最中に、こよいは紙の縁(ふち)の変色に気づいた。墨(すみ)が染みていない余白(よはく)の部分。そこが、元の紙の色よりもさらに白くなっている。紙というものには本来、繊維(せんい)の色がある。やや黄みがかった、温かみのある白。だが写本(しゃほん)の端(はし)は、その黄みが抜けていた。

蒼白(そうはく)ではない。  透明に近い白。光を当てると、紙の繊維(せんい)が向こう側を透(す)かした。紙の表と裏の区別が、その部分だけ曖昧(あいまい)になっている。

「漂(さら)されてる」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を紙に当てた。蒼光(そうこう)が白くなった部分を照らすと、繊維(せんい)の一本一本が細くなっているのが見えた。紙が痩(や)せている。繊維(せんい)の間に空隙(くうげき)が広がり、そこから蒼光(そうこう)が通り抜けた。光が紙を貫通する。つまり、紙としての密度が失われている。

「この海の空気が紙を侵(おか)してる。宵波浜(よいなみはま)の潮気(しおけ)は、ただの湿気じゃない。名前を溶かすのと同じ力が、空気にも薄く混じっている。名前が書かれた部分はまだ保(も)っているが、余白(よはく)から先に消える」

久遠(くおん)は指先で白くなった縁(ふち)を撫(な)でた。紙の粉が微かに散った。繊維(せんい)がほどけて飛んだのだ。指で触れただけで崩れる。

「白くなった紙は、もう墨(すみ)を吸わない」

こよいは写本(しゃほん)を裏返した。

裏面の余白(よはく)も同じだった。端(はし)から三分(さんぶ)ほどが透(す)けるような白に変わっている。名前の文字がある中央部は、まだ元の紙の色を保っていた。墨(すみ)の文字が、紙を守っているのだ。名前の重みが繊維(せんい)を押さえ、海の空気による侵食(しんしょく)を防いでいる。

だが文字のない場所は、じわじわと消えていく。  こよいが写本(しゃほん)を浜辺に持ち出してからの時間を思い返した。到着してからまだ半日も経っていない。その間にこれだけ白くなった。あと数日この空気に晒(さら)せば、余白(よはく)は全て消え、文字のある部分だけが島のように残るだろう。やがてはそれも——

「書き足せない」

こよいの声が硬くなった。

まだ回収していない名前を書くための余白(よはく)が、失われていく。液体から掬(すく)い上げた名前を写本(しゃほん)に定着させるには、墨(すみ)を受け止める紙の地(じ)が必要だ。紙が白くなれば墨(すみ)は定着しない。繊維(せんい)が痩(や)せた紙に筆を当てても、墨(すみ)が弾(はじ)かれて玉になり、転がり落ちる。受け皿として使えなくなる。

写本(しゃほん)が失われるということは、名前の帰る場所がなくなるということだ。

「書くな」

久遠(くおん)が言った。

こよいが顔を上げた。久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を落とし、肉眼(にくがん)でこよいを見ていた。

「読め。頭に入れろ」

こよいは写本(しゃほん)を見つめた。

紙の上で、名前たちがまだゆっくりと動いている。偏(へん)が滑り、旁(つくり)が回り、自分たちの正しい配置を探り続けている。この動きが止まる前に、全部覚えなければならない。紙が消えても、こよいの頭の中に名前があれば——名前は存在し続ける。記録(きろく)の媒体が変わるだけだ。紙から、人の記憶へ。

こよいは一柱(ひとはしら)目の名前を読んだ。声には出さない。杭(くい)の上で名前を呼んだとき、指先が薄くなった。あの痛みのない喪失(そうしつ)を、こよいの身体(からだ)は覚えている。声に乗せれば削(けず)られる。だから目で追い、頭の中で形を描いた。偏(へん)の角度、旁(つくり)の傾き、点の位置。筆で書くときの入り方を想像しながら、一画ずつ脳裏(のうり)に刻んでいく。

二柱(ふたはしら)目。  三柱目。

名前の形は複雑だった。こよいが知っている文字とは書き順が違う。観測者(かんそくしゃ)の体系で記録(きろく)された文字は、人の文字とは筆の入り方が異なっていた。横画を先に引く文字を、観測者(かんそくしゃ)は縦画から書く。点の位置も微妙にずれている。人の文字にはない角度で、偏(へん)が傾いている。それでも、一画ずつ目で辿(たど)れば覚えられた。

四柱(よんはしら)目で、こよいは手が止まった。  写本(しゃほん)の上で、その名前の文字がまだ動いていた。偏(へん)と旁(つくり)が分離し、位置を入れ替えようとしている。動いている文字は覚えられない。こよいは動きが止まるのを待った。

巾着(きんちゃく)が温かくなった。

神々が応えている。こよいが名前を覚えようとしていることを、神々は身体で感じ取っている。紙が消えても、こよいの記憶の中に名前があれば、神々はそれを頼りに仲間を探せる。紙という橋が落ちても、記憶という橋がある。神々の温もりは、その橋を渡れることへの安堵(あんど)だった。

四柱(よんはしら)目の文字が止まった。偏(へん)と旁(つくり)が新しい位置に落ち着き、動きが収まった。こよいは息を吸い、目を凝(こ)らし、その文字の形を頭に焼きつけた。縦画の長さ。横画との交差点。点が打たれている場所の、紙の右端からの距離。すべてを目で測り、頭の中に写し取った。

あさひが横に座っていた。  剣を膝(ひざ)に置き、こよいが写本(しゃほん)を読む姿を黙って見ている。あさひには文字が読めない。観測者(かんそくしゃ)の体系で記された名前は、あさひの知る文字とはまるで違う。だがあさひは、こよいが文字を目で追う速度を見ていた。視線の動きで、こよいが何柱(なんはしら)目を覚えているのかを数えている。

「七つ目だな」

おたまも、こよいの隣で数えていた。名前を一つ覚え終えるたび、猫の尻尾の先が、板を軽くひとつ叩く。猫に数取りをされていると思うと、覚え間違いはできない気がした。

あさひが言った。こよいが七柱(ななはしら)目に移ったのを、目の動きだけで読み取っていた。

白い縁(ふち)が、また少し広がった。

紙の端(はし)から名前の文字までの距離が、さっきより狭くなっている。白い領域が内側へ迫っている。こよいは写本(しゃほん)を光に翳(かざ)した。白くなった部分は光を通し、名前のある部分は光を遮(さえぎ)った。紙の上に、名前だけの影(かげ)が浮かんだ。白が進めば、影(かげ)は小さくなる。

久遠(くおん)が立ち上がった。  目録(もくろく)を懐(ふところ)にしまい、海の方を向いた。背中をこよいに見せたまま、腕を組んだ。

「時間がない。だが急ぐな」

矛盾(むじゅん)した言葉だった。だがこよいには久遠(くおん)の意図が分かった。紙は消えていく。けれど焦って覚え間違えれば、名前を歪(ゆが)める。歪(ゆが)んだ名前は、本当の持ち主に届かない。

こよいは読む速度を上げた。  八柱(やはしら)目。九柱(きゅうはしら)目。  急いではいけない。急いで形を間違えたら、名前を歪(ゆが)めてしまう。丁寧に、けれど速く。呼吸を整え、一画ずつ目で追い、頭の奥に沈めていく。紙の上の名前を、自分の中に移していく。一つ覚えるたびに、こよいの中で何かが重くなった。名前の重さが、記憶に宿っている。

白い縁(ふち)は、こよいが読んでいる間も止まらなかった。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます