写本の端が白くなっていた。
名前たちが自ら並び直している最中に、こよいは紙の縁の変色に気づいた。墨が染みていない余白の部分。そこが、元の紙の色よりもさらに白くなっている。紙というものには本来、繊維の色がある。やや黄みがかった、温かみのある白。だが写本の端は、その黄みが抜けていた。
蒼白ではない。 透明に近い白。光を当てると、紙の繊維が向こう側を透かした。紙の表と裏の区別が、その部分だけ曖昧になっている。
「漂されてる」
久遠が義眼を紙に当てた。蒼光が白くなった部分を照らすと、繊維の一本一本が細くなっているのが見えた。紙が痩せている。繊維の間に空隙が広がり、そこから蒼光が通り抜けた。光が紙を貫通する。つまり、紙としての密度が失われている。
「この海の空気が紙を侵してる。宵波浜の潮気は、ただの湿気じゃない。名前を溶かすのと同じ力が、空気にも薄く混じっている。名前が書かれた部分はまだ保っているが、余白から先に消える」
久遠は指先で白くなった縁を撫でた。紙の粉が微かに散った。繊維がほどけて飛んだのだ。指で触れただけで崩れる。
「白くなった紙は、もう墨を吸わない」
こよいは写本を裏返した。
裏面の余白も同じだった。端から三分ほどが透けるような白に変わっている。名前の文字がある中央部は、まだ元の紙の色を保っていた。墨の文字が、紙を守っているのだ。名前の重みが繊維を押さえ、海の空気による侵食を防いでいる。
だが文字のない場所は、じわじわと消えていく。 こよいが写本を浜辺に持ち出してからの時間を思い返した。到着してからまだ半日も経っていない。その間にこれだけ白くなった。あと数日この空気に晒せば、余白は全て消え、文字のある部分だけが島のように残るだろう。やがてはそれも——
「書き足せない」
こよいの声が硬くなった。
まだ回収していない名前を書くための余白が、失われていく。液体から掬い上げた名前を写本に定着させるには、墨を受け止める紙の地が必要だ。紙が白くなれば墨は定着しない。繊維が痩せた紙に筆を当てても、墨が弾かれて玉になり、転がり落ちる。受け皿として使えなくなる。
写本が失われるということは、名前の帰る場所がなくなるということだ。
「書くな」
久遠が言った。
こよいが顔を上げた。久遠は義眼の蒼光を落とし、肉眼でこよいを見ていた。
「読め。頭に入れろ」
こよいは写本を見つめた。
紙の上で、名前たちがまだゆっくりと動いている。偏が滑り、旁が回り、自分たちの正しい配置を探り続けている。この動きが止まる前に、全部覚えなければならない。紙が消えても、こよいの頭の中に名前があれば——名前は存在し続ける。記録の媒体が変わるだけだ。紙から、人の記憶へ。
こよいは一柱目の名前を読んだ。声には出さない。杭の上で名前を呼んだとき、指先が薄くなった。あの痛みのない喪失を、こよいの身体は覚えている。声に乗せれば削られる。だから目で追い、頭の中で形を描いた。偏の角度、旁の傾き、点の位置。筆で書くときの入り方を想像しながら、一画ずつ脳裏に刻んでいく。
二柱目。 三柱目。
名前の形は複雑だった。こよいが知っている文字とは書き順が違う。観測者の体系で記録された文字は、人の文字とは筆の入り方が異なっていた。横画を先に引く文字を、観測者は縦画から書く。点の位置も微妙にずれている。人の文字にはない角度で、偏が傾いている。それでも、一画ずつ目で辿れば覚えられた。
四柱目で、こよいは手が止まった。 写本の上で、その名前の文字がまだ動いていた。偏と旁が分離し、位置を入れ替えようとしている。動いている文字は覚えられない。こよいは動きが止まるのを待った。
巾着が温かくなった。
神々が応えている。こよいが名前を覚えようとしていることを、神々は身体で感じ取っている。紙が消えても、こよいの記憶の中に名前があれば、神々はそれを頼りに仲間を探せる。紙という橋が落ちても、記憶という橋がある。神々の温もりは、その橋を渡れることへの安堵だった。
四柱目の文字が止まった。偏と旁が新しい位置に落ち着き、動きが収まった。こよいは息を吸い、目を凝らし、その文字の形を頭に焼きつけた。縦画の長さ。横画との交差点。点が打たれている場所の、紙の右端からの距離。すべてを目で測り、頭の中に写し取った。
あさひが横に座っていた。 剣を膝に置き、こよいが写本を読む姿を黙って見ている。あさひには文字が読めない。観測者の体系で記された名前は、あさひの知る文字とはまるで違う。だがあさひは、こよいが文字を目で追う速度を見ていた。視線の動きで、こよいが何柱目を覚えているのかを数えている。
「七つ目だな」
おたまも、こよいの隣で数えていた。名前を一つ覚え終えるたび、猫の尻尾の先が、板を軽くひとつ叩く。猫に数取りをされていると思うと、覚え間違いはできない気がした。
あさひが言った。こよいが七柱目に移ったのを、目の動きだけで読み取っていた。
白い縁が、また少し広がった。
紙の端から名前の文字までの距離が、さっきより狭くなっている。白い領域が内側へ迫っている。こよいは写本を光に翳した。白くなった部分は光を通し、名前のある部分は光を遮った。紙の上に、名前だけの影が浮かんだ。白が進めば、影は小さくなる。
久遠が立ち上がった。 目録を懐にしまい、海の方を向いた。背中をこよいに見せたまま、腕を組んだ。
「時間がない。だが急ぐな」
矛盾した言葉だった。だがこよいには久遠の意図が分かった。紙は消えていく。けれど焦って覚え間違えれば、名前を歪める。歪んだ名前は、本当の持ち主に届かない。
こよいは読む速度を上げた。 八柱目。九柱目。 急いではいけない。急いで形を間違えたら、名前を歪めてしまう。丁寧に、けれど速く。呼吸を整え、一画ずつ目で追い、頭の奥に沈めていく。紙の上の名前を、自分の中に移していく。一つ覚えるたびに、こよいの中で何かが重くなった。名前の重さが、記憶に宿っている。
白い縁は、こよいが読んでいる間も止まらなかった。
