第337話 十三の帰還
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第337話 十三の帰還

第11章 海図の響き

宵波浜(よいなみはま)の生きた井戸(いど)は、路地(ろじ)の最奥にあった。あさひの言った「次の穴」は、結局、剣で開けるまでもなかった。封印の網の目に、最初から開いていた一つの口——生きた井戸が、それだった。久遠(くおん)が帰還の台帳と照合し、こよいが写本(しゃほん)の束を井戸(いど)の縁に翳(かざ)すと、西や南へ帰る名前たちの糸が、次々と水面へ潜っていった。ここから先は、地下水脈(ちかすいみゃく)が運ぶ。見送ったのは十七柱。  星野(ほしの)へ向かう残る名前たちの帰り先は、北だ。迎えるために、三人と一匹は列車で星野へ引き返した。

二度目の星野(ほしの)は、前とは違った。凍りついた広場の石畳(いしだたみ)に、亀裂(きれつ)が入っていた。  亀裂(きれつ)から、金色の光が漏れている。細い筋のような光が、石畳(いしだたみ)の隙間を縫って広場の端まで伸びていた。  前に戻した十三柱(じゅうさんはしら)の名前が、地面の下で根を張っている。  十三の帰還は、あの夜の一度きりの出来事ではなかった。いまも地面の下で続いている。帰るとは、着地して終わりではなく、根を張って住み直すことなのだ。

根は互いに絡み合い、石畳(いしだたみ)の継ぎ目に沿って広がっていた。前に来たときは一本の光の筋だけだったものが、今は網のように広がっている。名前が名前を呼び、根が根を伸ばし、地面の下で静かに広がり続けていた。

こよいは石碑(せきひ)の前に座った。石の冷たさが膝(ひざ)を通して伝わる。だが、亀裂(きれつ)に近い場所だけは、金色の光の分だけ温かかった。その温度差が掌(てのひら)を通して分かる。冷たい石と温かい亀裂(きれつ)の境目で、空気がかすかに揺らいでいた。  写本(しゃほん)を広げた。今度は、差し出さない。名前を読んだ。  声に出した。

けれど前とは違う呼び方だった。「おいで」ではなく、「ここにいるよ」と。自分がここにいること。生きた声がここにあること。それだけを、名前に伝えた。地面の光が揺れた。  前のように激しくはない。

穏やかに、呼吸(こきゅう)するように。光が膨らみ、縮み、また膨らむ。こよいの声の間隔に合わせて、地面が息をしていた。

「薄くなってない」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)でこよいを確認した。蒼光(そうこう)がこよいの輪郭(りんかく)を丁寧になぞり、密度を測っている。

「存在の記録密度、変化なし。正しく呼んでいる」

あさひが隣に座った。石碑(せきひ)の根元に腰を下ろし、大きな膝(ひざ)をこよいの膝(ひざ)の横に並べる。あさひの体温が、冷えた石の上でこよいの左側だけを温めていた。

こよいが写本(しゃほん)の名前を読み、あさひがそれを声に出す。  二人の声が重なるたびに、地面の光が広がった。空から金色の糸が降りてきた。  今度は一本ではない。

三本。

五本。

糸は霧(きり)の上から降り注ぎ、広場の空気を金色に染めた。一本一本が異なる太さで、異なる速さで降りてくる。急いでいる糸と、ゆっくり慎重に降りてくる糸。名前ごとに帰り方が違うのだ。

写本(しゃほん)の名前に反応して、複数の名前が同時に帰ろうとしている。糸が地面に触れた。  光が弾ける。

石畳(いしだたみ)の表面に、文字が浮かぶ。金色の墨(すみ)で書かれたように、石の中から文字が浮き上がってくる。  二柱。

三柱。

四柱。名前が戻ってくるたびに、石碑(せきひ)の横線が薄くなった。  間引(まび)きの印が消えていく。横線が一本消えるたびに、石碑(せきひ)の表面がわずかに明るくなった。消された名前が戻ることで、石そのものが色を取り戻している。

「十二柱、戻った」

久遠(くおん)が数えていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が忙しく動き、一柱ごとに目録(もくろく)の頁(ページ)に記録を刻んでいく。筆先が紙に触れる音が、広場の静けさの中で妙にはっきりと聞こえた。

写本(しゃほん)の名前を一つずつ照合している。こよいの声はかすれていたが、存在は薄くなっていない。  右手の透明も、少しずつ戻っている。指先に色が差し、爪の輪郭(りんかく)がくっきりと戻ってきた。  正しく呼べば、消耗(しょうもう)しない。

最初の神が千年かけて学んだことを、こよいは一日で覚えた。だが、全ての名前が戻ったわけではなかった。糸が降りてこない名前がある。  写本(しゃほん)に書かれているのに、空に糸がない。  経蔵(きょうぞう)から飛び出したはずの名前が、途中で行方不明になっている。

「七柱分、反応がない」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を確認した。頁(ページ)の上で、七つの名前に対応する線だけが灰色のまま動かない。他の線は金色に脈打っているのに、その七本だけが死んだように静止していた。

海図(かいず)の線を辿(たど)る。

「この七柱は——下だ。空ではなく、地下を通って移動している。まだ着いていない。あるいは——」

久遠(くおん)が言い淀(よど)んだ。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が一瞬揺れ、すぐに押し殺された。

「あるいは?」

「途中で捕まった。観測者(かんそくしゃ)に」

地面の亀裂(きれつ)が広がった。こよいの声に反応するように、金色の根が新たな方向へ伸びていく。

金色の光が強くなる。

戻った十二柱の名前が、地面の下で互いを照らし合っている。光の根が交差する場所で、光が一際強く輝いた。名前と名前が出会い直しているのだ。長い間離れていた者同士が、地面の下で再会している。  前に戻した十三柱と合わせて、二十五柱。  五十一のうちの二十五。  残りは二十六。うち一柱は干潮の道の、封じられた井戸(いど)の戸口に受け皿ごと届けた。一柱は砂の灯(ひ)の浜で、写本(しゃほん)の紙の中に根を下ろしたまま眠っている。十七柱は、宵波浜(よいなみはま)の井戸(いど)から水脈に乗り、西や南の——それぞれの土地の井戸(いど)へ向かっている。星野(ほしの)に来ない名前を、ここで待つ必要はもうない。

「まだ足りない」

こよいが立ち上がった。

膝(ひざ)に砂が付いていた。石碑(せきひ)の根元の砂が、金色の光を受けて微かに光っている。砂粒の一つ一つに、名前の光が染みていた。

「地下を通ってる名前を、迎えに行かなきゃ」

おたまは、石碑(せきひ)の天辺(てっぺん)に座っていた。降りてくる糸の一本一本を、首を巡らせて目で追う。糸が着地するたび、猫の耳が小さく前を向いた。数えているのは久遠(くおん)だけではなかった。

あさひが空を見上げた。

金色の糸はもう降りてこない。  空に残る名前は、全てこの場所に届いた。  残りは地下だ。石碑(せきひ)の列の向こうで、地面が微かに震えた。足の裏に伝わる振動は、上からではなく下から来ている。

名前たちが、下から何かを伝えようとしている。振動は北に向かっていた。  星降町(ほしふりまち)の方角だった。

こよいは写本(しゃほん)を懐に仕舞い、北を向いた。巾着(きんちゃく)の中の神々が、北への脈動(みゃくどう)を刻んでいる。地面の下の七柱と、こよいの掌(てのひら)の中の名前たちが、同じ方角を向いて呼び合っていた。  風が石碑(せきひ)の列を吹き抜け、金色の亀裂(きれつ)が揺れた。亀裂(きれつ)の光が風に煽(あお)られて瞬(またた)き、まるで地面そのものが呼吸しているように明滅した。

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