第335話 町の揺れ
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第335話 町の揺れ

第11章 海図の響き

町は、揺れていた。  地震の揺れではない。  風の揺れでもない。もっと静かで、もっと執拗しつような揺れ。  地面の下で、誰かが長い紙を引きずるときの、あの嫌な振動。紙が石に擦れて立てる、耳の奥をくすぐるような低い音が、地面を通して足裏に伝わってくる。  宵波浜よいなみはま路地ろじを抜けた先に、木造の家が並んでいた。誰もいない。窓は閉じているのに、は消えていない。油灯ゆとうの炎が窓の向こうで静かに揺れ、天井にかげを落としている。住人のいない部屋で、炎だけが職務を全うしていた。  空っぽの家々が、勝手に夜を演じ続けている。

こよいは柱に手を当てた。柱は温かくないけれど、冷たくもない。ただ、わずかに震えている。指先を通して、木の繊維せんいが伝える振動が骨に届く。  軒先のきさきふだが、きし、と鳴った。風がないのに、揺れに合わせて左右に振れる。ふだひもが張り、緩み、また張る。  ふだの文字は読めない。

読もうとすると、揺れの方が先に目をずらす。文字が視界の中で滑り、焦点を合わせるたびに別の位置に逃げる。

「……町そのものが、書き換えられてる」

久遠くおんが吐き捨てる。義眼ぎがん蒼光そうこうが家々の壁を走り、壁の表面に浮かぶ微細な文字列を読み取ろうとしている。だが文字列も揺れていて、蒼光そうこうが追いつけない。

観測者かんそくしゃが?」

「いや、観測者かんそくしゃだけじゃない。ここは、住んでた記録が自分で揺れてる。……消される前に、形を変えて逃げてるんだ」

あさひが路地ろじの奥を見た。揺れは、奥へ行くほど大きい。  家のかげが薄くなる。壁が透けるのではなく、かげの濃さが減っていく。存在の密度が下がっている証拠だった。

境界きょうかいが、きしむ。家と道の境目が曖昧あいまいになり、壁の輪郭りんかくが揺れるたびに数寸ずれる。

「……まずいな」

「何が?」

「揺れが、足をさらう。踏み出した場所が、戻ってこないやつだ」

あさひは布包みの剣の石突いしづきで地面を叩いた。くぐもった音がした。揺れが一瞬だけ止まる。石突いしづきが石に当たった衝撃が、揺れの周波数を一瞬だけ断ち切った。だがすぐに揺れは戻り、乾いた音の残響ざんきょうみ込んでいく。

こよいはその隙に、息を吸った。潮の匂いと、古い紙の匂いが混じる。紙の匂いが濃い。この町を構成している記録そのものが、匂いとして漂っている。  町は揺れながら、まだ「町」でいようとしている。形を変え、位置をずらしながらも、消えることを拒んでいる。

「……ここ、通れるかな」

「通すかどうかは、町じゃない。俺たちだ」

久遠くおん目録もくろくを抱え直す。革表紙を胸に押し当て、揺れで落とさないように固定した。こよいは巾着きんちゃくの中の神々の温もりに指を重ねる。神々の脈動が揺れのリズムとは違う速さで打っていた。揺れに呑まれず、自分のリズムを保っている。  揺れはまた始まった。家々のが、わずかにまたたく。まるで「急げ」と言っている。

三人は揺れの中へ足を入れた。

地面が、下から突かれるように跳ねた。小さく、何度も。石畳いしだたみの表面が指で弾かれたように振動し、靴底を通して足の骨にまで響く。  こよいは足裏で感じた。揺れではない。叩いている。地面の下で、何かが上に向かって叩いている。こぶしではない。もっと小さなもの。指先。いや——爪。

「名前だ」

久遠くおんが立ち止まった。義眼ぎがんが足元を透かすように光る。蒼光そうこう石畳いしだたみを貫き、その下の層を照らした。

「地下を通って移動していた名前が、ここで詰まっている。上に出たいのに、出られない」

「封じられてるの?」

「ああ。観測者かんそくしゃが、この町の地面にふたをしている。名前が井戸いどに届く前に、ここで止める仕組みだ」

揺れの正体は、それだった。  名前たちが地下から地面を叩いている。何百、何千という名前が、薄い石の層ひとつ隔てた向こう側で、出口を探している。一つ一つの叩きは小さい。だが何百もの名前が同時に叩くことで、町全体が揺れている。

あさひが地面に耳を当てた。片膝をつき、ほお石畳いしだたみに押しつける。石の冷たさがほおを刺す。

「……聞こえる。指で引っいてる。爪の音だ」

こよいは膝をついた。石畳いしだたみに手を置く。冷たい。だが、奥から微かに温かいものが伝わってくる。冷たい石の下に、温もりが眠っている。  名前の熱だった。

「助けられる?」

ふたを壊せば出る。だが、壊した瞬間に観測者かんそくしゃが来る」

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページに、封印ふういんの線が浮かんでいる。町の地面全体をおおう、格子状こうしじょう紋様もんよう紋様もんようの線は均一ではなく、場所によって太さが違う。  一箇所だけ、線が薄い。

「ここだ。この一角だけ、封印ふういんが弱い」

「じゃあ——」

「待て。弱いんじゃなくて、すでに名前が一柱ひとはしら、押し通った跡だ。穴が開いて、またふさがれている」

ふさがれた穴の上に、さっきの軒先のきさきふだがあった。  ふだが揺れていたのは、風のせいではない。真下で名前が叩いていたからだ。

こよいはふだに手を伸ばした。触れた瞬間、ふだの文字が一瞬だけ読めた。揺れが止まり、文字が焦点に入った。

名前だった。

押し通った一柱ひとはしらの名前が、ふだに焼き付いていた。通過した証拠。ここを抜けた者がいるという記録。文字は薄かったが、確かにそこにあった。

「……通れるんだ」

こよいが呟いた。声に力が戻っていた。

久遠くおんが頷いた。

「通れる。だが、通るたびに封印ふういんは厚くなる。次はもっと難しい」

「それでも、通った名前がいる」

「ああ。いる」

あさひが立ち上がり、剣のつかを握り直した。

「なら、俺たちが次の穴を開ける」

おたまが、空き家の軒先から三人を見下ろしていた。いつ上ったのか、誰も見ていない。揺れる町の中で、猫の座っている軒板だけが、揺れていなかった。

町の揺れが、ほんの一拍だけ止まった。  地下の名前たちが、息をんだように感じた。  こよいは石畳いしだたみに手を置いたまま、その沈黙を聞いていた。待っている。下で、たくさんの名前が、待っている。てのひらに伝わる温もりが、ほんの少しだけ強くなった。

の消えない家々が、三人を見ていた。揺れはすぐに戻った。だが、さっきよりも少しだけ、規則正しい。  まるで鼓動こどうのように。

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